Thursday, September 9, 2021

『私の限りなく完璧に近い夢のような東京暮らし(My Almost Flawless Tokyo Dream Life)』

『私の限りなく完璧に近い夢のような東京暮らし(My Almost Flawless Tokyo Dream Life)』 by レイチェル・コーン 訳 藍(2020年01月26日~2020年10月26日)





9月

チャプター 1


頭を引っ込めてじっとしてるのよ。黙って我慢していれば、10分もすれば終わるから。

「イージー! イージー! 楽勝!」と、スクールバスの後ろの方に座っている男の子たちが、リズムに乗せて声を上げた。私の名前はエル・ゾエルナー(Elle Zoellner)。イニシャルは、EZ(イージー)。―つまり、簡単(easy)ってわけ。こんなありがちないじめの標的に「簡単に」なっちゃうんだから、私って不運を持って生まれたようなものね。

シャープペンが飛んできて、私の首に当たり、背後の床に転がり落ちた。レドモンドの声が私の耳に届く。「あちゃー、落ちちゃったよ。クモの巣みたいなもじゃもじゃヘヤーに引っかかると思ったんだけどな」ふっ、もじゃもじゃヘアーはあなたの方でしょ。私の髪の毛はたしかに縮れてるけど、髪の毛に一週間分の汚れが溜まっててギトギトだから、中に何が投げ込まれたって、科学的に滑り落ちちゃうのよ。一週間に一回しかシャワーを浴びられないっていうルールのせいなんだけどね。

今日は私の16歳の誕生日。16歳っていったら、普通の女の子なら、運転免許が取れるわ、とか、新しいお洋服を買ってもらいましょ、とか、門限が遅くなるわって喜ぶところでしょうけど、私の望みはただ一つ、清潔になりたい。今年は曜日にも見放されたわ。よりによって誕生日が火曜日で、一番ギトギトの日なんて。水曜日がシャワーの日なのよ。

もちろん、水曜日以外はシャワー室に立ち入り禁止だってことを、今の#3の里親は、私の担当の社会福祉士さんに内緒にしている。今回が3度目の里親の家なのよ。私がスマホを持っていれば、彼らの会話をこっそり録音できるんだけど、わざわざそんな面倒なことしても仕方ないかもね。そんなことしたら、私はもっとひどい里親のいる家へ移されちゃうかもしれないし。最初に養子に入った#1(シラミ)の家と、次の#2(ダニ)の住む家は、かゆくてどうにもならずに社会福祉士さんに頼み込んで、次の家に移してもらったんだけど、今の#3(意地悪で嘘つきの夫婦)の家は今までで最悪。だけど、#4の家でいったい何が起こるのか、考えたくもないわ。

あなたの知ってる悪魔は、まだ見ぬ悪魔に比べたら、まだましなのよ。ママはいつも私にそう言っていた。ママは児童養護施設で育ったから、実感として知っていたんでしょうね。彼女は私のために良い暮らしをしようと頑張ってくれたわ。2年前に交通事故に遭うまでは、ママは仕事も順調だった。私たちは小さいながらも居心地のいい家で、仲睦まじく暮らしていたの。笑い声が絶えなくて、猫を一匹飼ってたわ。でも、交通事故の後、ママは働けなくなっちゃって、あの野獣が家に転がり込んできて、我が物顔で居座っちゃったの。会うことも話すこともできない野獣のせいで、どんどん生活がすさんでいって、私のママは今、刑務所暮らしってわけ。

ママはちゃんとカレンダーをチェックしてるかしら? 今日は私の素敵な(そんなに素敵でもないけど)16歳の誕生日だって思い出してくれたかな? スマホがあれば、きっとレジーからEメールとか、メッセージとか、GIFがどんどん届いて、開くたびに私へのハッピーバースデーがキラキラ光るんでしょうけど。レジーとはYMCAで知り合って親友になったのよ。同じ水泳チームで一緒に泳いだ仲なの。彼はアメリカ大陸の反対側にある「少年の家」から今も出られずにいて、彼もスマホを持ってないの。引き取り手がいないのかしらね? 彼も里親制度の被害者なのよ。―彼は被害者っていう言葉を嫌うんだけどね。「君は生き延びたんだよ」って彼はよく私に言ってたわ。彼の母親も私のママと同じように、薬物中毒だった。でも彼の母親は刑務所に入ることなく、フェンタニルの過剰摂取で死んじゃったの。私の置かれた状況は悲惨だけど、私の母はまだ生きてるんだから、私はめいっぱい感謝しなきゃね。私たちはすごくラッキーだってわかってる。ママが引き起こした問題は、刑務所につながっていたんだから、お墓じゃなくてね。

「ほら、匂い爆弾さん! 先輩たちがあなたの名前を呼んでるんだから、振り向きなさいよ」次に私をからかってきたのは、ジャシンダ・ズボルフスキーだった。彼女はスクールバスでは私の2列後ろの席、そして教室でも私の2列後ろの席に座っていて、毎日必ず私の着てる古着が臭いだとか、そんなことばっかり言ってくるのよ。

私の隣に座っている貧相な少年。―私は彼の名前さえ知らない。ガリガリにやせていて、12歳くらいに見えるから新入生でしょうね。―彼はそっと腰を滑らせて、窓の方へ遠ざかった。賢明な判断ね。彼も私と一緒にみんなからおとしめられる理由はないもの。それから彼は鼻にしわを寄せて、こそこそと私にだけ聞こえる声で言った。「体育館のロッカールームにシャワーがあるの知ってるよね?」生意気なちび助ね。

そんなこと知ってるわよ。あんな人目の多いロッカールームで自分自身をさらす、―つまり裸になるくらいなら、臭いままの方がましだっての。

「この中にミックスナッツに飢えてる人はいませんか?」と、男子の声がバス中に響き渡る。―きっとレドモンドの友達の一人ね。―いろんな人種が混ざってる感じの私の外見をけなしてるみたいだけど、ナッツみたいに頭の中が空っぽなのはあんたたちの方でしょ。私の血筋を知りたいなら、そう聞けばいいじゃない。私の母方の祖先は多種多様で、アイルランド人、ドイツ人、アフリカ系アメリカ人、アメリカ先住民の血が母には流れてるんだけど、私の目と頬骨の形を見れば、私の生物学上の父は日本人だってわかるわ。私は彼に一度も会ったことなくて、名前さえ知らないんだけど、ママは「ミスター・トーキョー」って呼んでた。彼はたぶん他の人と結婚してるんだと思う。ママはそういう男とばかり付き合ってきたのよ。既婚男性が好きすぎることが、彼女の最大の弱点だったの。まあ、薬が彼女の弱点になる前の話だけど。で、懲りずに既婚男性と環状道路をドライブ中に、後ろから大型車に追突されちゃったの。運転していた彼は死んだわ。ママは脊髄を損傷して重体だったんだけど、なんとか一命はとりとめた。その時に、脊髄の痛みが和らぐからと勧められ、手を出した薬に、いつしか身も心も乗っ取られていったの。そう、さっき「会うことも話すこともできない野獣」って言ったのは、麻薬のことなの。こうなったのは全部、交通事故で死んだ既婚男性のせいだと思ってる。

シャープペンよりもはるかに大きな物体が私の後頭部にぶつかった。初めそれが何なのか、はっきりとはわからなかったけれど、次の瞬間にもう一つ飛んできて、今度は私の頭の外れ、肩をさっとかすめて私の膝の上に落ちた。石鹼だった。

バスの後方から新たな合唱が湧き起こった。「匂い爆弾! 匂い爆弾!」

ハッピーバースデー、エル・ゾエルナー。


・・・


あれは14歳の誕生日だった。すべてがめちゃくちゃになる少し前の話。YMCAの水泳チームの練習でレジーと競泳したの。彼を打ち負かして誕生日を祝おうって気合を入れたわ。50メートルをクロールで、私はがむしゃらに泳ぎ切り、2.5秒も差をつけて彼に圧勝した。彼は風邪をひいていて、―体調が万全ではなかったんだけど、―とにかく、私は勝ったのよ! その後、彼も一緒に私の家で豪華なディナーを食べたわ。その日は特別にごちそうだった。ステーキとマッシュポテトをむさぼるように食べて、レジーとママが私のために「ハッピーバースデー」を歌ってくれた。〈セイフウェイ〉のケーキも美味しかったし、私の愛猫のハッフルパフは、私の指先についた生クリームを舐めてた。あれはたぶん私にとって、最後の完璧な日だった。日々の暮らしがきちんとしていた時期の良き思い出。

その10ヶ月後くらいに、ハフが行方不明になっちゃって、そしたら数時間後に、近所の人がハフの死体を私のもとに届けてくれた。その頃にはもう、母と野獣は仲良しこよしの状態だったから、小さいながらも最高に居心地の良かったあの一軒家も、お金を工面するために売り払わなくちゃならなくて、母と私とハフは薄汚いアパートに移り住んでいたの。ママは仕事を辞めちゃったから、「次にやるべきこと」が見つかるまでには時間が必要だった。そして見つけた次の仕事は、インターネットで薬を売ることだった。毎日のように、見知らぬ怖そうな人が私たちのアパートにやって来たわ。ある日、私が学校へ行っているとき、ママは誰かに薬を売って、そのままアパートのドアを開けっ放しにしちゃったの。―薬でもうろうとして、世界にもやがかかっていたんだと思う。その隙にハッフルパフが抜け出して、外の世界をうろうろしていたら、車にひかれちゃったのよ。私はろくに嘆き悲しむこともできなかった。その頃にはすっかり、野獣がママの生活を支配していて、―その影響は私の生活にまで及んでいたから、私は泣こうとしても涙が出てこないし、誰かのせいにしようとしても無駄だって諦めてた。

人生は良い状態から始まって、少し上向きかけてきたかなと思ったところで急激に方向転換し、もの凄い速さで悲惨な、耐え難い谷底へと転がり落ちていく。そんな人生のバスに乗ったまま、私は啞然としている他なかった。次のバス停に到着するたびに、前より人生は悪化していくようで、この下り坂のスパイラルはどこまでも残酷なんだ、と坂道を谷底まで下りきってから、ようやく気づくんでしょうね。これ以上ひどくなることなんてあり得る? もちろん、あり得るでしょう。実際、もっとひどいことになっちゃうのよね。18歳になるまでは逃げ道はないし、それまであと2年もあるなんて、長い道のりね。今はただ身を潜めて、できるだけ縮こまって、それまでなんとか生き延びるしかないわ。一生懸命勉強して、自分の道を切り拓くのよ。そしてそこを登って行くの。

バスが止まった。レドモンドが降りるバス停だ。この瞬間が一日で一番最高。―だってレドモンドから解放されるから。いつもの私なら、バスの一番前の目立たない席で、さらに小さく縮こまって、彼が横を通り過ぎるのをじっと待つんだけど、急に私は我慢ならなくなった。彼の意地悪さは私の周りで突出していて、憎らしい悪ガキなのよ。だからレドモンドがバスの出口に向かって、私の横を通過するタイミングを見計らって、私は通路に片足をひょいと出した。彼が気躓いて、激しく転ぶ。その拍子に、床に頭を打った。彼は起き上がろうと手を伸ばして、あたふたしている。バスに乗っていた他の子たちから、どっと笑い声が上がった。彼の表情はカンカンに怒っている。まるで火の玉の絵文字が彼の頭を取り囲んでいるようだ。抑えきれずに私の顔から、にやりと笑みがこぼれる。それを見て、さらに怒りに駆られた様子のレドモンドは、バスの踏み段を降りる前に、私を睨み付け、捨て台詞を残してから出て行った。「笑いたければ笑えよ、イージー。お前はゴミだからな。誰もお前のことなんか、見向きもするもんか」

私の心臓が恥ずかしさで激しく高鳴った。彼の捨て台詞は炎上し、バス内を笑いの炎に包み込む。

それでもやった甲斐はあったわ。私は嫌われ者の臭いスカンクかもしれないけど、会心の一撃をくらわせることができた。私は清々しい満足感に包まれながら、バスを降りられる。これでもっと嫌われたでしょうけど、むしろ伝説になっていいじゃない。

誰も誕生日プレゼントをくれないのなら、こうして自分でご褒美を作っちゃえばいいのよ。


・・・


5分後、バスは馴染みの通りに入り、前方から不気味なオーラを放つ里親#3の家がだんだんと迫ってきた。私はメリーランド州のグリーンベルトの辺りで育ったんだけど、#3の家も、私が育った平屋のレンガ造りの家に外観は似ていた。だけど、グリーンベルトの馴染みの通りの方が、100万倍良かったわ。子供たちが道端で遊んでいて、手入れの行き届いた芝生が並び、色とりどりの花壇や、白いピケット・フェンスが目を喜ばせた。近所の人たちもみんな顔馴染みで、気楽に声をかけてくれたわ。一方、こっちの通りは、なんだかホラー映画の中に迷い込んだみたいで、近所の人たちも無愛想なの。どの家も無秩序状態というか、庭には芝生なんかなくて、土がむき出しだったり、草がぼうぼうに生えてたり、鋼鉄ワイヤのフェンス越しに大きな犬が吠えてきたり、車庫への私道におんぼろの車が停まってたり、住んでる人たちもみんな気難しそうなのよ。里親#3の隣人たちの傲慢な歩き方を見ると、レドモンドを思い出すわ。―不機嫌で、周りに当たり散らす気満々な感じ。

そういう辺りの雰囲気のせいだと思うけど、一応「私の家」ということになっている家の前に停まっていた高級車が、一段とファンシーに、蜃気楼のように輝いて見えた。それは黒いメルセデスベンツで、白い手袋をした運転手さんらしき人が、後部座席のドアの横に立ち、誰かが出てくるのを待っている様子だ。さらに奇妙なことに、運転手さんの横には、私を担当している社会福祉士さんも立っている。彼女はメイベル・アンダーソンという名前なんだけど、彼女はいつもだったら、あちこち凹んでて、座席カバーにいくつも穴が開いてる古いトヨタカローラに乗ってくるのよ。ブレーキ音がキーキーと甲高い音で鳴るから、彼女が来たってすぐにわかるの。それに彼女が訪問することになってるのは金曜日で、火曜日じゃないわ。

バスに乗った子供たちが、よく見える側の窓にいっせいに押し寄せて、みんなして窓に顔を押し付けるように見ている。誰かが宝くじにでも当たったのかしら?

バスが止まり、運転手さんがバスのドアを開けた。私は不信感を抱きながらも、バスの踏み段から通りへ降りた。バスが走り去る。私がメイベルに近づいていくと、白い手袋をした運転手さんがメルセデスベンツの後部座席のドアを開けた。中から現れたのは、マサシ・アラキ(荒木雅史)だった。驚きで、私の胸から心臓がぽろりと落ちそうになる。亡霊を見るようだった。まだ幸せに満ちていたあの頃からやって来た亡霊を。

マサおじさん、まだママが野獣と出会う前、私はそう呼んでいた。ママはレストランで働いていたんだけど、マサおじさんはそこの常連客だったの。彼は季節に応じて、私を水泳やアイススケートに連れて行ってくれた。その帰りにはいつも、ピザとかアイスクリームをごちそうしてくれたわ。お金のことは気にせずに好きなだけ食べなさいって。ある時、思い切ってママに、彼が私のお父さん?って聞いたことがあるんだけど、「まさか、そんなわけないじゃない」って言って、話題を変えられちゃった。マサおじさんはワシントンDCにある日本大使館に勤めていたんだけど、何年か前に、スイスのジュネーブに転勤になったみたい。毎年私に絵はがきを送ってくれてたから、それにそう書いてあったんだけど、ママが前の家を売らなくちゃならなくなって、借金取りに追われてる身だったから新しい住所を登録するわけにもいかなくて、彼からの便りも届かなくなっちゃったの。

「どういうこと?」と私はメイベルに聞いた。

「あなたに良い知らせを持って来たのよ」とメイベルは言った。「こちらの紳士が説明なさってくださるわ」

マサおじさんが近づいてきて、お辞儀をした。それを見て、私は彼が本物だと実感した。アメリカ人のおじさんだったら、私を見るなりハグしてくるところでしょうけど、彼はいつもそうやってお辞儀をしていたから。「大きくなったな!」と言って、彼はにっこりと満面の笑みを浮かべた。まるで私と最後に会ってから、今まで一度もひどい目になど遭わなかったかのような笑顔だ。「もうほとんど私と同じ背丈じゃないか」

「いったいこんなところで何してるのよ?」と私は聞いた。

「悪態をつく必要はないのよ」とメイベルは言った。彼女はいつだって、同じテンションで取り合ってくれない。特に私の発言は軽く受け流すのよ。

いつか彼女をぎゃふんと言わせてやる。

彼がスーツの上着のポケットから、すべすべとした白いリボンの巻かれた青い手帳のようなものを取り出した。アメリカ合衆国のパスポートだった。それを私に差し出してくる。「私がここに来たのは、君を日本に連れて行くためだ。君は東京でお父さんと暮らすんだよ。誕生日おめでとう!」



チャプター 2


「私のお父さんを知ってるの?」と私はなるべく平静を保って尋ねたけれど、体の内側では、いろんな感情が渦を巻いて、心臓や、胃や、脳や、細胞の一つひとつに至るまで、ぐるぐると駆け巡っていた。

「知ってるとも」とマサおじさんは言った。「彼は君のことをとっても知りたがってる」

「これって何かの冗談?」

「こういう深刻な問題で冗談なんて言うわけないだろ」とマサおじさんは言った。

「うーん、そこは冗談にしちゃってよ。父親と暮らすなんて、私にとっては、考えるだけでも冗談みたいなものなんだから。っていうかその人は、今の今までずーっとどこで何してたのよ。私の人生に顔さえ見せなかった人と一緒に暮らす? そんな馬鹿な話に私が乗るとでもお思い?」

メイベルは決して笑みを浮かべることも、眉をひそめることもしなかった。まるで感情をいっさい顔に出さずに一日を過ごし切ることが、彼女の唯一の使命みたいだ。彼女はきびきびとした口調で言った。「ルールを思い出しなさい、エル。溜まったうっぷんを発散するのは自由だけど、失礼な言葉遣いは許しませんよ」

「私は行かないわ」と私はメイベルに向かって言った。「あなたが何を言ったって、私は行かないから」

「私は無理にあなたを東京に行かせるつもりはないわ。それはあなたが決めることよ」とメイベルは言った。

私はこんな馬鹿げた状況から逃れようと、家から遠ざかる方向へ通りを歩き始めた。私の人生はいつまで経っても、こんなくだらないことばっかりなのね? それでもマサおじさんが追いかけてきて、私を追い越すとこちらを振り向き、私の行く手を塞ぐように、再びお辞儀をした。「私の話を聞いてくれ、エル」

私は里親#3の家を見遣る。リビングルームの窓のブラインドが薄気味悪く、うっすらと開いていた。水曜日以外お湯を使わせてくれない里親が、明らかにこちらを覗っている。

「君のお父さんは、君が東京に来て、一緒に暮らしてくれることを切に望んでおられるんだ」と、マサおじさんはとても格式ばった言い方をした。なんだか彼がその私の「お父さん」の執事であるかのように。

「どうせ私をからかってるんでしょ。あなたにだって中学生の時から会ってないし、―っていうか、私の人生はあの頃から、地獄に向かって真っ逆さまなのよ。―今になってのこのことやって来て、お父さんと暮らすですって? あなたは私のお父さんを知ってるなんて、一度も言わなかったじゃない。馬鹿げてるわ。あり得ない。そんなの...だって...」私は興奮して、唾を飛ばしながらまくし立てた。言いたいことがとめどなく溢れてきて、口が追いつかない。「その彼は、どうして急に私の人生に割って入ろうなんて思ったの?...っていうか、その人が直接、招待状を持って来ればよくない?」

レジーの父親は軍隊で大活躍したヒーローだったんだけど、レジーがまだ5歳の時、中東の森林で、潜んでいた敵に不意打ちされて死んじゃったの。レジーは父親の写真とか、勲章のメダルとか、手紙を持っていて見せてくれたわ。レジーのパパは本物だったのよ。ちゃんと実在したの。あまりにも早くレジーを置いて逝っちゃったけど、彼は息子を愛していた。レジーはその証拠を全部手元に持ってるし、―彼には思い出だってある。私はといえば、「ミスター・トーキョー」についていくら聞いても、ママは話をはぐらかすだけだった。その話をするとつらくなるから、と言ってすぐに話題を変えちゃうの。私は自分に父親がいるなんて考えたこともなかったわ。テレビの中の女の子たちには、みんなお父さんがいたけど、そういうのは私とは違う世界に住む人たちの話なんだって思ってた。パパなんて、ハリウッドが捏造した幻想に過ぎないんだって。

メイベルも追いかけてきて、私たちに追いついた。彼女は言った。「私の認識だと、あなたのお父さんは、今までは事情があってあなたの人生に関与できなかったんだけど、ようやく余裕ができたのよ」

「彼の名前はなんていうの?」と私は聞いた。

メイベルはいつも持ち歩いている手帳をぺらぺらとめくると、挟んであった用紙を見つめて言った。「ケンジ・タカハラ(高原健二)」私の本当の父親は誰なのかって、こんなに長い年月考え続けた後では、自分がその答えに近づきつつあることがにわかには信じられない。しかも、私が目の敵にしてきた社会福祉士の人に言われても、そんなのファンタジーの登場人物の名前にしか思えない。

「その、ケンジ・タカハラっていう人が私の父親だなんて、それを急に信じろってこと?」と私は聞いた。「あのね、いい加減にしてよね。行方知れずの血のつながった父親っていうのは、急に空から降ってくるものじゃないでしょ」

マサおじさんが空を見上げた。彼が私の発言をどう受け取ったのかは覚えていない、というより、私にはわからない。彼の英語は素晴らしいけど、彼の母語ではないから、時々ひねった言い回しをすると、伝わってない感じなのよね。「私と一緒に来てくれ」とマサおじさんが言った。「見せてあげるよ」

彼に言われるままに、彼の後について高級車の方へ戻った。彼は後部座席のドアを開けると、ビジネスバッグを取り出し、中から何枚か書類を引き抜き、そのうちの一枚を私に差し出した。「これが君の出生証明書だ。君の父親の名前もここに書いてある。ほら、ケンジ・タカハラって」

たしかに、それはメリーランド州が発行した出生証明書だった。私の名前と生年月日が記載されている。母:ブランディ・ゾエルナー。父:ケンジ・タカハラ。

マサおじさんは他の書類も私の目の前に差し出してきて、もっとよく調べるように促した。「見えるか? これが君の母親の署名だ。君が日本に行って、父親と暮らすことに正式に同意したんだよ。で、これが飛行機のチケット」

「待って。今なんて言った? あなたは私のママに会ったの? いつ?」

マサおじさんは応えた。「私は彼女に会ってないよ。弁護士を通して彼女と連絡を取り合ってるんだ」彼はメイベルの顔を見て、お辞儀した。「君のお母さんがこの書類に署名するとき、彼女が立ち会ってくれたんだよ」

3ヶ月前にママがジェサップ矯正施設に入ってから、私はママに会っていなかった。毎週メイベルは、お母さんに会いに行ってもいいのよ、と選択権を与えてくれたけど、私は毎週断っていた。心の準備もできていなかったし、腹立たしくて会いに行く気になんてならなかった。もちろん、ママが生きていてくれるだけで有り難い気持ちにもなるけど、―でも彼女の中毒のせいで、彼女の人生だけじゃなくて、私の人生も滅茶苦茶になっちゃったのよ。刑務所生活が大変なのはわかるわ。―それはそれはつらい毎日でしょうね。だけど、彼女に面と向かって会ったら、私自身の生活も大変だってことがママに伝わっちゃう。ママがいなくなって、里親の家でつらい目に遭ってるって、ママが実感すると思うと、私の心もさいなまれて、会えない。全部ママのせいよ。

私は責めるようにメイベルを見た。「なんで今までそういうことを何も言わなかったの?」

メイベルは言った。「まだちゃんと決まるまでは話さないようにって言われてたのよ。あなたに話してから、やっぱりその話はなくなりましたってなったら、あなたをとってもがっかりさせちゃうでしょ」

「あんたの言うことなんか信じない」私は誰に対して言っているのかわからなくなる。メイベル? マサおじさん? それとも、この腐った世界全体?

「じゃあ、自分でお母さんに会って確かめなさい」とメイベルが言って、腕時計を見た。「彼女はあなたに会いたがってるわ。今度はちゃんとあなたを連れてくるって彼女に請け合っちゃったのよ。面会時間は午後4時まで。今ここを出発すれば、十分余裕をもってジェサップに着くわ」

「私が嫌だって言ったら?」と私はメイベルに聞いた。

メイベルが里親#3の家の方を見た。ブラインドが突然閉まった。

運転手さんが車のドアを開けた状態で、私たちが乗り込むのを待っている。

メイベルが堂々と高級車に足を踏み入れた。

刑務所へ直行するのね、っていうか私はまだ、行くって言ってないんだけど。



チャプター 3


「どうやったら囚人服さえもそんなになまめかしく着こなせるの?」

ママを一目見たら自制心を失くして怒りをぶつけてしまうと思ったけれど、そんなことはなく、私の目からうるうると熱いものがこみ上げてきて、全身が喜びでいっぱいに満たされた。面会室に入ってきた彼女は、野獣になる前の本当のママだった。酔いが醒めたような表情で、顔には色が戻っていた。髪の毛も清潔に洗ってあり、元々細いヒップラインが少しふっくらと肉づいていた。私のママがかつてどれほど美しかったかを思い出した。

彼女は私にハグすることは許されなかったけれど、彼女の満面の笑みは私の胸の奥まで届き、私の心をぎゅっとつかんで離さなかった。

「刑務所はリハビリ施設より安くていいわ」と彼女は言いながら、テーブル越しに私と向かい合わせで座った。「ベティフォード・クリニックっていう薬物専門の治療施設があるんだけどね、おしゃれな施設だって聞いたから申し込んだんだけど、裁判官にノーって言われちゃった」私は笑わなかった。面白いジョークだとは思ったけれど、もしリハビリ施設に入ることになれば、必要なお金を払うのは私だから。ママが言った。「元気にしてた? 神様に感謝だわ。ようやくあなたに会えて、ほんとに嬉しいわ」

言いたいことは山ほどあった。―溢れるほどありすぎたから、私はシンプルに一言でまとめることにした。「こんなに臭くてごめんなさい」

「あなたを引き取ったあの里親と同じにおいね。謝るのは私の方よ、ごめんね」私は泣かないって決めていたんだけど、どうしてもこらえきれなくなって、泣きじゃくりそうになった。ママは私の表情からそれを感じ取り、―彼女も同じように泣きそうだったのかもしれないけど、力強くあの言葉を言い放った。「ゾエルナー家の女は強いのよ」

「私たちはどんな時でも強くいなくちゃね。わかってる。思い出したわ」現実は厳しくて、なかなかそうもいかないけれど、ママの口からその言葉を聞いただけで、私の気持ちがすっと落ち着いた。正常だった頃の彼女の言い方そのままだったから。「それで、なんか今になって、私の本当の父親のことを話す気になったんでしょ?」

「そのことよ!」とママが言った。長年言い出せずに胸のうちに秘めてきたことを、ついに私に打ち明けられることが嬉しいみたいだ。

「ケンジ・タカハラ? その人はママの何?」

「嘘をつくつもりはなかったのよ。私は若い頃はね、男たちの注目の的だったの」彼女は微笑みながら、私がその話に興味を持ったかどうかを窺うように私の顔を覗き込んできた。たしかに面白そうな話だった。彼女は昔から私の感情を手玉に取るのが上手いのよ。話の上手い昔のママが戻ってきて、過去の自慢話を再び聞けることに、思わず私の顔もほころんでしまう。「私は19歳の時、ワシントンD.C.のファンシーなレストランでウェイトレスとして働いていたの。私は育ちが悪いから上品さはなかったんだけど、美人だったのよ。そこで彼と出会ったの。彼は留学生で、ジョージタウン大学で国際問題か何かを学んでいた。正直に言って、私がそれまでに出会った男の中で最高にかっこよかったわ。彼はロンドンのブティックで特注してあつらえた最高級ブランドのスーツを着ていたの、まだ学生の身分でよ! 私たちはお互いに一目惚れして、激しく恋に落ちたわ」

「彼を愛してたの?」これって、私の人生で最も衝撃的なニュースかもしれない。私はずっと、既婚男性との不倫でできた子供だと思っていたから。もしくは、一晩だけの行きずりの関係とか、あるいは、もっとひどい目に遭ってできちゃったとか。

「私は彼に夢中だったわ。ずっと彼と一緒にいて、人生で最高に楽しい時期だった」

「どうして今まで何も話してくれなかったの?」

何もってことはないでしょ。その話をするとつらくなるからって話したじゃない。それは噓じゃないわ。あなたが18歳になったら、あなたが世の中に羽ばたいていく年齢になったら、ちゃんと話すつもりだったのよ」

「なんか、すごく自分勝手な言いぐさね」

「そんなの、あなたが一番よく知ってるじゃない」

私たちの隣に座っていた看守が腕時計に目を遣った。元々少ない面会時間が刻一刻と過ぎ去ってゆく。「それで、ママと彼の関係はどうなったの?」

「妊娠しちゃって、私は感激したんだけど、彼はパニックに陥っちゃったの」

私はこの話を聞いている自分が信じられない。―しかもよりにもよって、刑務所で聞くことになるなんて。私はそのストーリーに引き込まれ、くぎづけになっていた。もっと聞きたい。「なんで?」

「彼は日本でも有数の良家の出身だったのよ。彼はワシントンD.C.に残って私と暮らすって、結婚も考えてるって言ってくれたんだけど、彼の家族から、そんなことしたら縁を切るぞって脅されちゃったの」

「それで、ママはどうしたの?」

「私だって馬鹿じゃないわ。弁護士を立てて、交渉に挑んだ。私は最善を尽くして、彼を自由の身にする代わりに、彼から和解金を得たのよ。彼の家族が、あのグリーンベルトの家を私の名義で買ってくれたの。私はすぐにあそこに移り住んで、あなたと幸せな14年間を過ごせたのよ、楽しかったでしょ?」

「もちろん。最終的に麻薬中毒のつけが回って、売り払うはめになっちゃったけどね」

ママはうなだれるように頭を下げた。そして「わかってるわ」と静かに言った。「少なくとも、ウェイトレスの収入だけであなたを育てられたんだから、よしとしましょ」

「まだママがちゃんと働いてた頃は、そうね」野獣以外のことで彼女に不満は、正直何もなかった。私を女手一つで育ててくれたんだから、やっぱりゾエルナー家の女は強い、でしょ? 「それで、そのケンジっていう男はどうなったの?」

「彼は家族から言われた通りにしたわ。東京に帰って、私たちの人生には関与しない道を選んだの」

「『道を選んだ』って言えば聞こえはいいけど、要するに『捨てられた』ってことでしょ?」

「まあ否定はしないわ。だけど、物事っていうのは移り変わるの。事情が変わって、あなたのためにドアを開けてくれたのよ。彼のところへ行きなさい」

「ママは事情が変わったことをどうやって知ったの?」

「自分が牢屋に入るってわかって、ワシントンの日本大使館を通してマサに連絡を取ったのよ。こんなことになっちゃったって、私の状況を知らせたの。彼はケンジの親友だったから」

新たな事実を知らされて、また衝撃が全身に走る。「マサおじさん」って親戚みたいに呼んでたのに、彼はそれだけ私の人生の一部だったのに、こんな大事なことを私に内緒にしていたなんて。そしたら、一体誰を信じろっていうの? ママが私の怒った表情を見て言った。「マサを責めないでちょうだい。私たちに親切に手を差し伸べてくれたのは彼だけなのよ。ずっと気にかけてくれてたのを、あなたも知ってるでしょ。あなたが日本に行ってケンジと暮らすっていうのも、彼が全部お膳立てしてくれたんだから」

「でも、なんで今?」

「そんなの決まってるじゃない。あなたの里親暮らしが不憫だからでしょ?」

「違う。そうじゃなくて、前は父親になりたくなかったんでしょ。それなのに、なんで今になって、父親になりたくなったの?」

「マサに聞いた話では、前はタイミングが良くなかったみたいね。今になってようやく、あなたが父親の人生の一部になるタイミングが来たのよ」

「なんで?」と私はもう一度聞いた。

「私にだって彼の心のうちまでわかるわけないでしょ?」と言ったママは、動揺していた。「チャンスが訪れたんだから、それだけで喜びなさい」

チャンス? 地球の反対側で見ず知らずの人と暮らすことが? チャンスだなんて、そんなクソみたいなことよく言えたわね、ママ? もし私が行きたくないって言ったら?」

「行きなさい! 彼と一緒に暮らすことが、今のあなたにとって最善の選択なんだから」私は首を横に振った。私はまだ納得していなかった。ママは付け加えた。「あなたがこのまま里親の世話になってると、悪夢が現実になったみたいで、私も安心して眠れないのよ」

「ってことは、ママのためってことね?」

あなたのためよ!」と、ママが怒鳴り声を上げた。「それで、あのタオルは結局どうなったの?」

それはどこからともなく降って湧いたような質問だったけれど、私にはその質問がどこへ着地しようとしているのかわかった。私が一時保護ということでメリーランド州の施設に入ることになって、自分のものを荷物に詰めているとき、お気に入りのタオルも持っていくってママに言ったんだけど、ママは高価なものを持ってると盗まれるからやめておきなさいって言った。それはママが私たちの家用のタオルとして買ってくれた青い高級タオルで、ビロードみたいにすべすべした肌触りが手放せない心地良さだったの。ママ目当てで通っていたレストランのお客さんに思いもよらぬ大金をチップとしてもらった日の帰りに、ママが買ってきたすべすべタオル。

私はママをにらみつけて、それから負けを認めた。「里親の魔女に取られちゃったわ。元々彼女のものだったのを私が盗んだとか、言いがかりをつけられて」

「そんなことだろうと思っていたのよ、まったく」ママの表情が悔しそうにゆがんだ。タオルの話題になって、強いはずのママがとうとう泣くかもしれないと思った。「そんなさもしい人たちと、まだ一緒に暮らしたいって言うの?」

「私は自分がどうしたいのかわからないのよ」と私はぴしゃりと言った。「私が知ってるつもりだった人生のあらゆることが、この何時間かの間にがらりと一変しちゃったからね」

「このチャンスをつかみなさい。私みたいになっちゃだめよ、エル」とママは懇願するように言うと、片手を上げて、彼女が着ている囚人服を指し示した。

面会室のスピーカーからアナウンスが入り、面会時間の終わりを告げられた。

待って! まだ来たばっかりなんですけど! ママと私の父親の話をもっと聞きたいのに、まださわりだけしか聞いてないじゃない。それに私自身の生活のことも、タオルを取られたっていうクソみたいな話しかしてないし。イライラがつのって叫び出したかった。ママの手を引いて、一緒に駆け出し、この場所から連れ出してしまいたい。

ママが立ち上がった。「こんな場所早く出たいわ。こんなに可愛い私のベイビーにハグすることもできないんだからね。東京に行くって言ってちょうだい、エル。そしたら私はようやく、安心して眠れるから」

私は胸を撃ち抜かれた。

「行くわ」と言って、その瞬間、私は胸のうちでついに決心した。

ママの顔にほろ苦い安堵感が広がった。「ケンジに会ったら言っといて。あなたの正義のヒーロー気取りなところが大っ嫌いって。他にも嫌いなところがありすぎるけど、―こんなに可愛い女の子を独り占めできるなんて、あなたが羨ましいわって」

私はママに向かって首を横に振った。そして、優しく微笑みかけながら言った。「それは彼には言わないでおく」

ママも微笑み返して、看守に面会室から連れ出されながら、私に向かって投げキッスをくれた。うっすらと涙を浮べているようだった。「ハッピーバースデー、世界で一番可愛いエル。愛してるわ」

「私も愛してるわ、クレイジーママ」

彼女は背中を向け、面会室から出て行った。看守に冗談でも言ったのか、ドアの向こうから彼女の笑い声が聞こえてきて安心した。それから私の目からどっと涙が溢れ出し、ママに涙を見られなくてよかった、と思った。


・・・


メイベルは外の駐車場で待っていた。ベンチに座って書類に何やら書き込みをしている。一方、マサおじさんは、近くにアイドリングしながら停めてあったメルセデスベンツの中で時間を潰していた。

「それで?」とメイベルが私に聞いてきた。

言うことは決まっていたけれど、自分がこんな台詞を口にするなんて信じられなかった。私がずっと知りたかった父親に会えるチャンスが巡ってきた。もう里親#3の家には二度と戻らない。#4の家が歴代の家よりさらにひどいことになるのか、この目で確かめることもない。私は言った。「行くわ」

「里親の家はちょうど空港に向かう途中にあるから寄れるって運転手さんが言ってたわ。時間に余裕もあるから、里親の家に寄って、あなたのものを荷物に詰めてきなさい」

里親との暮らしで私が最初に学んだことは、私にとって最も大事なものは四六時中、肌身離さず持っていなきゃいけないってこと。だから私が本当に大切なものは全部、メルセデスベンツの座席に置いてある私のリュックの中の、スクールバインダーの中にちゃんと収めて、ジップで安全に閉じてある。私の大事なものは昔の懐かしい写真よ。―ママと、レジーと、ハッフルパフの写真。

「寄らなくていいわ」と私は言った。「私のものなんか全部燃やされたって、構うもんですか」



チャプター 4


豪華なメルセデスベンツに乗って街の通りを走っているだけで、すでにここ3ヶ月分くらいの私の生活を上回る喜びが溢れてきた。向かっているだけでこんなに楽しいのなら、日本での生活はどうなっちゃうんだろう、と思いをはせる。

ちょっとハチャメチャな急展開だと思ったけれど、―ママが言ったように、チャンスだと受け止めることにした。未知なる世界を怖がっていても仕方ないしね。それに、また里親のところに戻ったら、ママをがっかりさせちゃうし。18歳になって、自立して自分の道を歩んで行けるようになるまでは、ケンジっていう人のところで、(大人しく)物分かりのいい娘でいよう。

「それで、そのケンジ・タカハラっていう人とはどうやって知り合ったの?」と私はマサおじさんに聞いた。私たちはメイベルを彼女のオフィスで降ろしたあと、ダレス空港に向かって、ラッシュアワーで混雑しているワシントンD.C.の街中をゆっくりと進んでいた。

「『その』ケンジ・タカハラじゃないだろ」とマサおじさんが言った。「彼は君の父親なんだから」

「そうね。私のお父さんと」そう言ってみて、『私の』と『お父さん』の二つの言葉の組み合わせが、私の口にしっくりこない。私の中では、永遠にくっつくことのない単語同士だったから。「いつから友達同士だったの?」

「彼はただの友達じゃなくて、いとこ同士なんだよ。彼の父親と私の母親が、兄妹なんだ。だから、ある意味、私は君の、実のおじさんってことになるね」

マサおじさんが優しくて、私を快く受け入れようとしているのはわかるけど、いきなり「実のおじさん」とか言われても、私はそう簡単には受け入れられない。私が会ったこともない「私のお父さん」のところに連れて行くだなんて、まだ怪しいし、しかも、実際日本に行ったところで、私は日本語を話せないのよ。でもまあ、マサおじさんが私を下に見ることなく、対等に扱ってくれているのは伝わってくるし、昔は彼を全面的に信頼していたわけだから、あの頃の気持ちに戻ってもいいかな。これから始まる私の新しい世界では、彼が唯一の知り合いになるでしょうし、私の前の世界を思い出させてくれる唯一の人になるはずだから。私は彼から見たママの話を聞きたかった。

「じゃあ、ママとは最初どうやって知り合ったの?」

「私もケンジと一緒に、君のママが働いてたレストランによく行ってたんだよ。そこでケンジと彼女が出会って付き合い出した。結局ケンジは東京に帰っちゃったんだけど、その後も私は君のママと連絡を取り合ってたんだ」

「彼はそのこと知ってたの?」

「そりゃ知ってたよ。彼に連絡を取ってくれって頼まれたんだから。彼は君のことを知りたがってたからね」

「だったら、私に会いにくればよかったじゃない。なんて男なの」

ひねった言い回しと同様に、皮肉もマサおじさんには通じないことがある。「そうだね。彼は男だよ」とマサおじさんは返した。私の発言をそのまま受け取った彼の返しは面白かったけれど、私はほったらかしにされた気分で、笑えなかった。

「どうして彼は自分で直接、私に会いに来なかったの?」

「ケンジの父親に決定権があったんだよ。父親がファミリービジネスの社長だったんだ。父親の命令で、ケンジは日本に帰って、東京の大学を卒業した。君たちとは連絡を取るなって父親に言われてたんだ」

ってことは、おじいちゃんはクソってことね。ストライク 1。この分だと、タカハラファミリーはすぐに三振ね。

私は言った。「ケンジ・タカハラは命令に背いて、こっちに残ることもできたでしょ」

「彼はまだ若かったし、彼の頭に降ってきたんだ」

「は?」私は混乱して、聞き返す。

「英語の言い回しだからわかるだろ、彼には手に負えない状況だったんだよ」

「ああ、それを言うなら、彼の頭を超えていた、ね」

マサおじさんが笑みを浮かべた。「それそれ。君は昔から私の英語の先生だったな、覚えてるか?」

私は言った。「覚えてるわ。あなたは父親のいない私によく会いに来てくれた。っていうか、私も父親なしで育ったんだから、彼だって父親に反抗して、こっちに残れたでしょ。いくら若くて、状況が彼の頭を超えていたとしても」

「それは日本のやり方じゃないんだ。親に反抗するのは良くないとされてる」

ストライク 2。これでは、日本に行く前に三振しちゃうわ。

「じゃあ、どうして今なの? なんで今になって、急に私を呼び寄せようなんて思ったわけ?」

「彼の父親が昨年亡くなったんだ。それで、ケンジが後を継いで、ファミリービジネスのボスになった。決定権が彼に移ったんだよ。彼は去年から君たちを探してたんだけど、君たちは行方知れずで、住所の変更記録も残ってなかった」

「ママが携帯電話の番号を変えちゃったの。引っ越し先の住所も登録しなかった。ママにはすっごく借金があったから」

「タイミング的にばっちりだったよ。彼が君たちを探してるタイミングで、彼女から私に連絡があったんだ」

「でも、ママから連絡するまで私たちを見つけられないなんて、彼はa deadbeat(怠け者)なの?」

マサおじさんはスマホに「deadbeat」と入力して、意味を検索した。「彼は怠け者ってわけじゃないよ」とマサおじさんは、眉をひそめながら言った。

「彼は結婚してるの? 私の他にも子供がいるとか?」

「結婚もしてないし、子供もいない」

「彼の会社って何の会社なの?」

「不動産会社だよ。社名もそのまま〈タカハラ〉で、日本では有数の同族会社なんだ」

奇妙を超えて奇妙な誕生日、私はもう一度、打ちのめされた気分になった。私のお父さんが私の人生にひょっこり顔を出そうとしているらしいけど、私はその事実をまだ受け入れられずにいる。彼はどういう人で、どこ出身で、何をしてるのか...とか...もっと色々と聞きたい気持ちはあったけれど、一旦休憩が必要だった。胸が苦しいくらいにいっぱいだったから、軽い話題に変えようと、メルセデスベンツの窓の外を眺めた。メリーランド州のどんよりとした灰色の空が流れてゆく。「向こうの気候はどんな感じ?」

「夏は蒸し暑くて、冬は寒くて、春は桜が美しいよ」

「ここと同じね」

ってことは、ここでの生活と同じくらいクソってことじゃない。

ストライク 3。もう三振しちゃった。


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チャプター 5


たぶん私だけじゃなくて、16歳になると、人生は急速に動き出すんだと思う。

私の場合、16歳になった途端に見知らぬ父親がいるとわかり、突然、今までずっと暮らしてきたメリーランド州を出ることになり、あれよあれよという間に、私は初めて空港という場所に足を踏み入れた。セキュリティーチェックのためのクソ長い行列を横目に、ファーストクラスとビジネスクラス専用の短い列に並ばされる。こちらの列はチェック自体も手早いのか、すぐにセキュリティーを通過できた。そしてもうすぐ、私は初めて飛行機に乗る。このクレイジーな16歳の誕生日を超える誕生日なんて、この先訪れるのかしら?

マサおじさんに連れられて、「国際ファーストクラス」の乗客専用の豪華な待合室に入る。まだ自分の国を出ていないというのに、さっそくよそ者になった気分だ。そのプライベートラウンジにいる人たちは全員お金持ちのようで、おしゃれな服装でめかし込み、優雅にくつろいでいる。この人たちは、汚れ一つなく磨かれたガラス張りのオアシスみたいな空間で、一日中窓の外を飛行機が離陸したり、着陸したりするのを眺めて暮らしているのではないかと思えてくる。目を移すとビュッフェがあり、無料で食べ物を食べられるらしい。日本語と英語の新聞や雑誌もずらりと並んでいた。ラウンジにいる大部分の人たちは、見た目も日本人のようで、言葉も日本語が飛び交っていた。壁に掛かったモニターには、バンクーバー、パリ、ロンドン、リオデジャネイロ、北京、メキシコシティなどの都市名とともに、今後のターミナルの出発時刻が表示されている。私はメリーランド州の外側の世界さえ想像したことも、そんなになかったというのに、この人たちはみんな、ここから地球の隅々に飛び立っていくのだ。しかもその時刻が来るのを当たり前のように、何気なく待っている。私はこんなにドキドキしているというのに。

私とマサおじさんの向かいに日本人の老夫婦が座っていて、お茶を飲んでいた。その婦人の方が、なんだか私を非難するような目でじっと見ていることに気づいた。私は彼女と目が合うたびに、気持ちがひるんで、彼女の手元のティーカップに視線を落としてしまう。彼女は隣の夫に日本語で何やら話している。―チラッチラッとこっちを見ているし、どうやら私のことを話しているらしい。「ハーフ」という日本語が何度も耳に入ってきた。

私はこんなにダサい自分を、飛行機に一度も乗ったことがない自分を、ブランケットの下に隠してしまいたい気持ちだった。マサおじさんは私の横で、私の気持ちなんて知らずに、パソコンを開いて作業している。

ハーフって何?」と私はマサおじさんの耳元でささやくように聞いた。

彼は作業を中断し、顔を上げた。「何? 聞こえなかった」

私は声量を上げて、とっさに質問を変えることにした。「ケンジ・タカハラに電話してもいい?」

「だめ。今、日本はこれから仕事が始まる時間だから。それに電話しても彼の秘書が出るだけだよ。彼と電話で話したいなら、予約しなくちゃ」

「べつに話したいわけじゃないし」

「話したいから聞いたんじゃないのか」

「彼ってどんな感じの外見なの?」純粋に好奇心が他のもやもやした感情を吹き飛ばしてしまった。「スマホに彼の写真とか入ってる?」

「いや、入ってない」

「オンラインで彼のプロフィール画像を見ることってできる?」

「彼の護衛を担当してるセキュリティ班からの忠告で、彼はオンラインでは見立たないようにしてるんだよ。フェイスブックもインスタも、他のSNSもやってない」

父親に秘書がいることにはそれほど興味を引かれなかったけれど、護衛されてるって聞いて、思わず目を見開いてしまう。セキュリティ班がついてるって、彼は何者?

「じゃあ、彼の名前をググってみよう」

「やってみたらいいよ。でも『ケンジ・タカハラ』って、日本ではすごく一般的な名前なんだ。たぶん君のお父さんは見つけられないんじゃないかな」

「なんか、あれね、あなたとそのセキュリティ班が、なんとかして私が彼の顔を見るのを阻止してるみたい」

マサおじさんは笑って、ようやく私を真正面から見据えた。私の前に彼のパソコンを差し出してくる。「どうぞ、試してみたらいいよ」

私はグーグルの検索ボックスに『ケンジ・タカハラ』と入力した。マサおじさんが言ったように、同名のヒットが数多くあり、どれが私のお父さんに関する記事なのか引き当てられない。グーグルの画像検索のページも開いてみたけれど、画面にはケンジ・タカハラという男性の写真が洪水のように大量に押し寄せてきた。

「この中にいる?」と聞いて、私はパソコンの画面を彼の方に向けた。

彼がその中の一つの写真を指差した。スーツを着て、建設用の安全帽子をかぶった男が写っていた。空き地でリボンのついたテープにはさみを入れている。「これが彼だよ。新しいホテルの着工式の日だね」

「この写真だと彼の顔がほとんど見えないわ」

「なら、セキュリティ班はちゃんと仕事してるってことだな」

そのセキュリティ班が彼の写真をオンライン上から消してるってことか、だとすると、これ以上検索を続けてもエネルギーと時間の無駄だなと思った。でも、せっかくパソコンでオンラインにアクセスしてることだし、私にとっては貴重な機会だから、有効活用することにした。『ケンジ・タカハラ』の検索ページを閉じると、私は自分のGmailアカウントにログインして、レジーにメールを書いて送信した。

ねえ聞いて。こんなこと言ったら驚くでしょうけど、信じられないことが起きてるのよ! 私は今空港にいるんだけど、日本行きの便を待っていて、日本で私のパパと住むことになったの。今日パパがいるってわかったばかりで、そのまま空港に来ちゃったから、あなたに会って、さよならを言えなくてごめんね! 返信に、あなたが少年の家のコンピューターを使える時間帯を書いてちょうだい。そしたら、その時間に私もアクセスするから、ビデオチャットしましょう。その時は、私は日本にいることになるけどね! 好きよ、エルより。PS―これは冗談じゃないのよ!サヨナラ!(日本語よ。サヨナラの意味を調べてみて)

「彼女が来た」とマサおじさんが言って、椅子から立ち上がった。見れば、若い日本人の女性が近づいてくる。彼女はお辞儀をして、書類の入ったファイルを彼に手渡した。

マサおじさんが私に言った。「エル、こちらはエミコ・カツラ(桂恵美子)さん。彼女は東京で君のお父さんのアシスタントをしてるんだ。君の件でこっちに来て、色々な手続きを手伝ってくれた。彼女も同じ飛行機に乗って、一緒に帰るんだ」

エミコ・カツラは私にもお辞儀をした。私もお辞儀を返した方がいいかしら? お茶会の日取りも決めた方がいい? 彼女は30代前半くらいに見えた。清潔感のある白いオックスフォードブラウスに、紺のタイトスカートを穿き、すらっとした体形が際立っている。チェリーみたいに真っ赤なピンヒールの靴が目立ち、小さな装飾の付いたブレスレットが彼女の腕できらりと光った。耳たぶのピアスはダイヤモンドかしら。こんなに高いハイヒールをかつかつと鳴らして歩く人を私は初めて見たわ。髪は長くてさらさらなグラデーションヘアーで、―頭頂部は黒っぽくて、下の方へいくにつれ、蜂蜜色になっている。そして全体的に、くるみ色の縦メッシュが素敵に入っている。―『I Woke Up Like This(目覚めたらこんな素敵なことに)』を歌っていた時のビヨンセみたいだった。

「そのペンダントには写真が入ってるの?」と私は言って、胸元に煌めく金のネックレスに付いているペンダントを指差した。私にもそういうペンダントがあれば、ママと、レジーと、ハッフルパフの写真を入れられるのに。そうすれば、私からそのネックレスを奪おうとするやつは、文字通り私と戦って、私の首からもぎ取らないとだから、安心だわ。

「ええ、入ってるわ」エミコはそのペンダントを開くと、小さな結婚式の写真を見せてくれた。旦那さんはエミコと年齢は大体同じくらいだったけれど、なんだか退屈な男性に見えた。スタイリッシュな彼女と全然釣り合っていない。「結婚式の日に撮ったのよ」

「素敵」と私は言った。

「ちょっと買い物してきたの。これをあなたにと思って」

私はマサおじさんのパソコンを彼の前に返してから、エミコが差し出すバッグを受け取った。それはルイ・ヴィトンのダッフルバッグだった。持った瞬間、偽物ではないと確信した。そのスベスベした感触、高級なお店の匂い、絶対本物だわ。バッグを鑑定するみたいにあちこち触ってみる。エミコとマサおじさんは日本語で何やら話し始めた。バッグを開けてみると、中には新品の洋服がぎっしり詰まっていた。―ブラウス、セーター、ジーンズ、靴下、下着、全部私のサイズだった。〈ジェームス・パース〉のTシャツを持ち上げて、顔に当ててみた。子猫のハッフルパフがかつて私の頬にしていたように頬をこすりつけてみると、目が点になる。Tシャツがこんなに柔らかいものだとは思いもしなかったわ。Tシャツをダッフルバッグに戻したところで、ルイ・ヴィトンの化粧品バッグの存在に気づき、開けてみると中には、ヘアブラシと歯磨き粉、それに生理用品まで入っていた。これは誕生日プレゼントって感じじゃないわ。過去のベスト3のクリスマスプレゼントが合わさって、一気に空から降ってきたみたい。ケンジ・タカハラって、やばいことしてるの?

「気に入ってくれるといいんだけど、しばらくはそれで我慢してね」とエミコは言った。「あなたの好みがわからなかったから、なるべく無難なチョイスにしたの」

「オーケーよ」と、私は胸のうちの動揺を隠して平然と言った。「ありがとう」私の好みは〈オールドネイビー〉の在庫一掃セールのコーナーなんだけど、真新しい豪華な洋服にすっかり感激しちゃったなんて、彼女に悟られたくなかった。「着替えられるトイレとかある?」

エミコは言った。「そこの受付で聞けば、フロント係が案内してくれるわ。もし飛行機を待ってる間リラックスしたいなら、スパ施設もあるわよ。搭乗時間まで、まだ1時間くらいあるから」

「その施設ってシャワーついてる? 温かいお湯が出る?」と私は聞いた。冗談めかしてね。

「もちろんよ」とエミコが言った。

黙れ! もちろんじゃない家もあるのよ!

「まじで? じゃあ、そこでシャワー浴びて来てもいい?」

「ええ。フロント係がバスローブとかスリッパとか、必要なものは何でも渡してくれるわ」

「マッサージが必要かも」と私は、またしても冗談めかして言ってみた。

エミコは応えた。「それもフロント係が予約を取ってくれるわ」

「待って、本気で言ってる?」私はマッサージなんて一度も受けたことないわ。見ず知らずの他人が私の体を触るの? そんなの、無理よ。だけど、ここではマッサージが現実の選択肢としてあり、冗談ではないみたいだから、可笑しくて笑っちゃう。だって、ここは空港よ。

マサおじさんが言った。「私のクレジットカードがフロントデスクに登録されてるから、君が好きなサービスは、言えば何でも受けられる。エミコと私はそこのバーエリアで仕事してるから、済んだら声をかけてくれ」


・・・


新しい目標ができたわ。私は国際空港のファーストクラス・ラウンジに住みたい。

スパエリアのシャワー室は、広々とした、白のタイル張りの「個室」で、天井の中央にシャワーヘッドがついていた。スイッチを入れたら、キラキラ輝く雨が降ってきて、温かい雨に打たれると、自然と顔がにやけちゃう。―激しい雨でもないし、水圧が弱すぎることもない、まさにちょうどいい気持ち良さだ。ラベンダーの甘い香りが染み込むボディソープで全身を泡々にしてから、もう一度雨に打たれたら、私自身が浄化していくようで、里親#3の家の匂いがすっかり流れ落ちた。アルガンオイルのシャンプーとコンディショナーで髪を洗ったら、髪が軽くなって、滑らかな手触りで、なんだか生まれ変わったみたい。

シャワーの後、私は白いタオルがいっぱい詰まった棚からタオルを一つ取った。(一回のシャワーでこんなに沢山のタオルを使う人なんているの?)タオルは信じられないほど柔らかくて、吸水性が凄かった。―このタオルに包まれて眠りたいと思った。シャワー室ごと持って行くわけにはいかないので、私の体を拭いたタオルを丸めて、ルイ・ヴィトンのダッフルバッグに詰め込んだ。東京のタオルはごわごわかもしれないから。それから私はもっといいことを思い付いた。一枚だけだと誰かに盗まれた場合困るから、念のため、もう一枚乾いたタオルをバッグに詰めた。

スパエリアから出て、ラウンジのメインエリアに再び入った私は、さっきまでの私とはまるで別人になったようだった。すっきりリフレッシュして、生まれ変わった、タオル泥棒。後ろめたさはないけれど。ラウンジの奥のバーエリアにエミコとマサおじさんの姿が見えた。でも二人は仕事に集中しているみたいだったから、ラウンジの他の場所をうろうろしてみることにした。無料のソーダとティーが出てくる機械、バーチャルリアリティゲームができる卵型のポッド、いろんなクッキーが食べられるスナックビュッフェ、それからマッサージチェアもあった。見知らぬ人の手に触られるのは嫌だけど、椅子ならいいかと思って、ドシンと腰を下ろし、リクライニングを倒してみる。そしてスイッチを入れると、おあー。なにこれ。振動が私の全身の筋肉をぶるぶると解きほぐしていく。素晴らしいを超えて、気持ちいい...

「搭乗時間よ」天国みたいな椅子の上でいつの間にか寝ちゃったみたいで、気づくと、目の前にエミコが立っていた。「何か読みたいものある?」と言って、彼女は抱えていたファッション雑誌やビジネス雑誌を見せてくれた。

「ハーバード・ビジネス・スクールの同窓会誌はちょっと私には興味ないかな。でもありがとう。ハーバードに行ってたの?」

皮肉を込めて聞いたつもりだったんだけど、彼女は真摯に答えてくれた。「ハーバードの大学院でMBAを取ったのよ」彼女は日本の大学を卒業した後、ハーバードの大学院に行ったという。だけど、ハーバードを出てて、アシスタントなんてしてるの? もったいないというか、たぶん彼女はそんなに優秀じゃないのね。

「行かなきゃいけない?」と私は聞いた。「私、ここが気に入っちゃった。今まで生きてきた中で最高の場所って言ってもいいくらい」

マサおじさんが言った。「そう思うのは、まだ東京に行ったことがないからだよ」彼は手を差し出してきて、私をマッサージチェアから引っ張り上げた。私はしぶしぶ立ち上がる。でもいいわ。少なくともタオルは手に入れたから。タオルを使えばいつでも、ファーストクラス・ラウンジという名の聖域を思い出せる。


・・・


私たちの名前がまず呼ばれ、最初に搭乗するように言われた。マサおじさんとエミコの行動をつぶさに見ながら、なるべく何気なく振る舞おうとした。こんなこといつもやってることよ、といった雰囲気を醸し出そうとしたんだけど、実際のところ、私は怖くて震えていた。窓の外に目を遣ると、舗装された滑走路にとてつもなく大きな物体が待機していた。こんなに大きな鉄の塊が、人を運んで広い太平洋を渡り切れるの? そんなの、無理よ。海の真ん中で、落っこちるわ。

搭乗口で待っていた日本人のキャビンアテンダントは、ディズニー映画に出てくるお姫様のようだった。ANAと書かれた制服を着ていて、小柄な体に、さらさらな黒髪、完璧なメイク、そしてキラキラ輝く笑顔で出迎えてくれた。搭乗するとき、彼女はエミコとマサおじさんに日本語で話しかけていた。でもどういうわけか私には英語で話しかけてきた。「あなたの席は、二人の席から通路を挟んで真横になります」と彼女は言って、ジェスチャーで通路を進むように促した。エミコとマサおじさんが通路から手を伸ばして、頭上にある荷物棚に手提げかばんを入れていた。私はベッドくらいの広さがあるプライベート席を通り過ぎて、トイレの横を進むと、座席がずらっと並んでいた。右側に3つ、中央に3つ、左側にも3つずつ、席が均等に敷き詰められている。私は自分のチケットを見て、どの席が私の席かしら、と調べようとしたところで、肩を叩かれた。振り向くと、「こちらにお戻りください」とキャビンアテンダントに言われた。私は彼女の後について、前方の広々としたプライベート席の方へ戻った。飛行機の後ろ側の座席は窮屈そうで寮の部屋みたいだったけれど、それに比べて、こちらの座席は大邸宅のように感じた。「こちらの2-Aがあなたの座席になります」

「まじで? ここに私が座るの?」

彼女は私のチケットを指差して、「はい、ファーストクラスですから」と言った。

オーケー、レディー、あなたのおっしゃる通りにするわ。ファーストクラスのチケットが、飛行機の他の客室とは完全に別の空間を意味しているとは思いもしなかった。次の搭乗客の一団が乗り込んできて、ファーストクラスの客室を通り過ぎて行く。私は彼らの視線を感じながら、パーティションで仕切られた座席に入り込んだ。座席を引っ張るとベッドのようになった。私専用のテレビ画面もついている。画面にはいろんな映画のタイトルが映し出されていて、私がずっと見たかった映画が全部そろっている感じだ。それから、―なにこのヘッドフォン。こんなクリアーな音初めて聴いたわ。ノイズキャンセラーヘッドフォンっていうのか。飛行中ずっとこれをつけてていいのね。しかも無料で!

マサおじさんは私から通路を挟んで中央のポッドに座っていて、エミコはその向こう、彼の隣に座っていた。全部同じ形のプライベート・ポッドで、2番の列には4席しかなかった。でもさっき見たエコノミー席には、同じくらいのスペースなのに、1列に9席も並んでいた。

「誰かがこの席を必要なら、代わってあげてもいいわ」と私はマサおじさんに言った。私たちが前方で快適な甘い時間を過ごしている間、ほとんどの乗客はすし詰め状態で長いフライトを耐え忍ぶなんて、フェアじゃない気がしたから。私は飛行機に乗れるだけで、(怖さもあるけど)こんなにもワクワクしてるんだから、エコノミー席だってOKよ。私が今まで暮らしてきた環境に比べたら、断然まし。(このヘッドフォンは持ってエコノミー席に行くけどね)

「馬鹿なことを言うな」とマサおじさんが言った。「そこは君の席なんだから」

ふう。本気で席を交換したいなんて思ってないわよ。

ヘッドフォンを付け直して、サウンドシステムをオンにしたところで、男性の声でアナウンスがあった。搭乗が完了したのでまもなく離陸します、と最初に英語で、次に日本語で告げた。飛行機がゲートからバックし動き出すと、テレビのモニターに安全に関するビデオが再生された。酸素マスクの使い方や、座席の下に空気を入れると膨らむゴムボートがあることなどが示された。

どういうこと?!?! なんでそんな情報を知っておく必要があるの?

これって海のはるか上空を飛ぶジェット旅客機でしょ? ゴムボートって海の水面に浮かぶものでしょ?

私の心臓が激しく高鳴り出す。機長が機内放送に割り込んできて、まもなく離陸するので乗務員も座席につくように、と指示した。私は座席の両側の手すりをぎゅっと握り締める。おでこから玉のような汗が噴き出すのを感じた。この時が来てしまった。もう後戻りできない。飛行機はどんどん前に進み、みるみるうちにスピードを上げていく。それから、こんなのなんてことないといった感じで、巨大な鉄の塊が地面から浮いた。直後、私たちは空中にいた。

なんて驚異的で、神秘的なの! こんなに怖くて、しかも同時に畏怖の念を感じたことなんて今まで一度もなかったわ。おえっと吐きたかったけれど、同時に、歓声を上げたい気持ちに包まれた。

窓の外をみると、真下にワシントンD.C.を中心としたエリアが見えた。私の故郷がどんどん遠ざかっていく。くだらないことばかりだったけど、私が唯一知っている場所。きっと懐かしくなる日も来るでしょう。私が帰るまで、ママとレジーをよろしくね。私は小さくなっていく街に語りかけた。そして祈る。今度はうまくいきますように。



チャプター 6


さて。

ここはどこかというと、ケンジ・タカハラの家へ向かう車の中。成田国際空港でまたしてもお抱えの運転手さんが車の横で待っていて、開けてくれた高級車に乗り込んだの。フライト中はずっと寝ちゃった。見たい映画はいっぱいあったんだけど、一つも見れず終いだった。でもぐっすり眠れたおかげで、今はぱっちり目が冴えて、頭は聞きたいことで溢れている。日本は左側通行みたいで、車が道路の左側を走ってるから、じっと前を見て対向車が右側から向かって来るのを見ると、めまいがした。それで会話をして気を紛らわす必要があったし、それに聞きたいことが500万くらいあった。マサおじさんとエミコは、彼らから説明してきてもよさそうなことを放置したまま何も言ってこないので、仕方なく私から聞いた。「どうしてケンジ・タカハラは空港まで私たちを迎えに来なかったの?」

「今は朝の4時なのよ」とエミコが言った。日にちを確認すると、私たちがワシントンD.C.を飛び立ってから、一気に二日経っていることがわかった。太平洋を飛び越えるって、タイムマシーンに乗ったみたい。

マサおじさんが言った。「成田は車で来るには遠すぎるから、彼は来なかったんだよ。君が彼に会いに行けばいいさ」

「なんか、ものぐさって感じね」と私はつぶやいた。

「ものぐさじゃなくて、効率を考えてのことだよ」とマサおじさんが言った。

「ここで彼と暮らすんでしょ、彼に聞きたいことがいっぱいあるんだけど」

エミコが言った。「あなたのためにガイドノートを用意したのよ。今すぐ見たい?」

「もちろん」と私はつぶやいた。マサおじさんとエミコが私の質問の多くに答えられることはわかっていた。だけど私は、ケンジ・タカハラに答えてほしかった。

マサおじさんが後部座席のライトをつけてくれた。エミコが書類鞄から白の3リング・バインダーを取り出し、渡してくれた。バインダーの透明な表紙の内側には、エル・ゾエルナー:日本と書かれた紙が挟まっていた。バインダーを開くと、セクションごとに「エチケット」、「Tak-Luxxe」、「ICS」、「食事」、「交通手段」というラベルが付いて、区分けされていた。それぞれのセクションには、パンフレットとプリントがいっぱい詰まっている。プリントはすべてラミネート加工の上質な紙で、パンフレットはリングバインダーに付属のビニールシートに挟まっている。難攻不落って感じね。これ全部読み通すのに1週間以上かかりそう。「食事? 食事をするのにエチケットのガイドなんて必要なの?

マサおじさんが言った。「日本では食事の習慣が違うから。箸の持ち方とか、スープの飲み方とか、知っておく必要があるんだ」

「日本式の食べ方なら、なんとなく知ってるわ」と私は言った。(実際に箸を使ったことはないけど)

「食事のマナーだけじゃないわ。他にも日本の習慣について色々、そのバインダーに入れておいたから慣れていってね」とエミコが言った。「たとえば、日本では数字の4は不吉だとされてるから、あまり使わないのよ」

4が不吉と何の関係があるの? 適当に不吉な数字を選んだって感じね」

エミコが言った。「私たちの習慣はあなたたちから見たら奇妙に思えるものよ、それはお互い様。だけど、エチケットは日本人の生活の基盤となるものの一つだから、マナーは大切。日本人はきっちりとした、秩序だった生活様式に誇りを持ってるの。マナーを守って生活することが秩序をもたらすのよ」

私はエチケットのセクションを開いて、そこに書かれていることの一つを読んでみた。「家の中では靴を脱がなければなりません? 自分の家で? それとも他の人の家で?」

エミコは言った。「家に入るとき、玄関で靴を脱ぐのが日本の習慣よ。―アメリカの家でいうと、玄関ホールとかの入り口ね。そこで靴を脱いで、靴は外向きに並べて置くの」

「靴を脱いじゃったら、何を履けばいいの? 足が冷たかったらどうするの?」まだ飛行機から日本の地に降り立ったばかりだというのに、私はすでにパニックになりそうだった。この新しい世界に順応できる自信がまるでない。

エミコが答えた。「靴下を履くか、玄関にスリッパが用意されてるから、それを履けばいいのよ」

「スリッパがなかったら?」

エミコが返した。「必ず置いてあるわ。それが日本の風習だから」

「だけど、もしそこが畳の間だったら、靴下だけで上がらないとだめ。スリッパも脱がなくちゃ」とマサおじさんが言った。

畳の間がどういう部屋なのか、私にはよくわからなかった。私はガイドノートのページをめくった。お辞儀について書かれたイラスト入りのページで手を止める。なんと、お辞儀だけで3ページにもわたって書かれていた! お辞儀についてこんなにいっぱい知っておくべきことがあるの? 「私にはちょっと、お辞儀の仕方はわからないかな」と言った。こんなに細かくて長ったらしい説明、読む気しないわという意味を込めたんだけど、伝わるかしら。

「大丈夫。君は外国人だから、そこまで厳格なお辞儀は期待されないよ」とマサおじさんが言った。「これだけは覚えておいて。お辞儀っていうのは礼儀正しい挨拶なんだ。あるいは、ありがとうって言う代わりにお辞儀してもいいし」

「日本人にハグしちゃだめよ」とエミコが言った。「ハグはアメリカ人の習慣だけど、残念ながら、ここではその習慣はないの」

なんか私が彼女にハグしたい、みたいな言い方ね。誰があんたになんかハグするもんですか。次から次へとおかしなルールを言ってきて、私は不安で発作を起こしそうなのよ。

「彼女の新しい学校について話しておいた方がいいかな」とマサおじさんがエミコに言ったから、私は恐怖で青ざめてしまった。私のびくついた表情をマサおじさんは見て取ったようで、怪訝な顔をしていた。

そうか、学校があったんだ。学校のことなんてすっかり忘れてたわ。「こっちでも学校に行かないといけないの? 私は日本語を話せないわ」

マサおじさんが答えた。「君が行くのはインターナショナルスクールで、授業も英語だから大丈夫。世界中から日本に来てる子供たちのための学校だよ。みんな君みたいな、海外在住者だから」

「海外在住者って?」

「駐在員とか、自分の国を離れて外国で暮らしてる人たちってこと」

エミコが言った。「ICSっていうラベルが貼ってあるセクションを見て」私はガイドノートのICSセクションを開いた。そこにはパンフレットが挟まっていて、〈International Collegiate School Tokyo〉と書かれていた。私立学校のようで、写真にはお揃いの制服を着た子供たちが、緑の芝生の上で整列して立っている。彼らの後ろにはいくつもの国旗が掲げられていて、一番上に日本の国旗があり、その下にアメリカやイギリスなどのさまざまな国の旗がたなびいていた。「そのパンフレットはワシントンの大使館にあったもので、古いパンフレットなんだけどね。ICSは世界中にある学校だから、アメリカ人の親がどこに赴任しても、子供をICSに通わせれば、アメリカ式の教育が受けられるのよ」

「私が日本式の教育を受けられるほど、頭が良くないからってこと?」

この女性には皮肉とか冗談が通じないのかもしれない。彼女は真顔で答えた。「日本式の教育はとても厳しいわ。かなり頑張らないと、ついていけないかも」

オーケー、彼女は単に私を馬鹿にしてるのね。「私、学校の制服って嫌い」私はパンフレットの写真に再び目を向けて、お揃いの制服に身を包んだ子供たちを指差した。「こんな、みんなと同じ制服なんて着たくない」

エミコが言った。「日本ではね、子供は家族の代表みたいなところがあるの。あなたが制服を着るのを拒んだりしたら、あなたのお父さんの評判が悪くなるのよ。あなたのお父さんはみんなに尊敬されてる人なんだから、恥をかかせちゃだめ。ちゃんとルールに従っていれば、意に反して誰かの機嫌を損ねることもないから。これはそのためのガイドノートなのよ」

この会話全体が不愉快極まりないってことに気づかないのかしら? ケンジ・タカハラっていう男はいったい何を求めて私を呼び寄せたの?―娘? それとも従順な女芸者?

風景が都会っぽくなってきたから、エミコのエチケット談義は無視して窓の外に集中することにした。高くて幅の細いマンションらしき建物や、逆に低くて幅の広い建物、倉庫などがひしめき合っている。街の中心地に近づくと、建物が放つ光が明るさを増した。こんなに凝縮された空間に、これほど多くの建物が密集していることが信じられなかった。車は永遠に続くかのような高速道路をひた走る。建物はどんどん高くなり、街の明かりが空に向かって弾けるように光り輝く。その風景はとても活き活きしていた。退屈なワシントンD.C.には超高層ビルなんてなかったから、テレビでニューヨークの摩天楼を見たことはあったけど、この目でじかに高層ビル群を見るのは初めてだった。まだ暗い早朝の街に、無数の高層ビルがまたたくように光を放ちながら、垂直に空に向かってそびえ立っている。多くの高層ビルは正面に電子広告を掲げていた。若い日本人の女性が優しく微笑みながら化粧品を披露している。別のビルの広告には、ビジネスマンらしき男性が映っていて、彼の頭の後ろから巨大な白猫がひょっこり顔を覗かせた。下には日本語で何やらメッセージが表示された。意味はわからないけど、ピンクと赤でカラーリングされた文字は、何かハッピーなスローガンに見えた。車がその横を通り過ぎて行く。

ちょっと待って。猫好きの私の興味を強く引きつけた。

「あの広告は何の広告?」と私は聞いた。

マサおじさんが答えた。「あれは政治の広告だよ。あの人は国会議員に立候補してるんだ」

「じゃ、後ろの猫は何?」そう言われれば、ビジネスマンではなく政治家に見えなくもないけど、猫の意味がわからない。

エミコが言った。「日本では猫は崇められてるのよ。いろんなお店の入り口にああいう猫の置物が飾られてるから、街を歩く時、気をつけて見てごらん。〈招き猫〉って呼ばれてるの。こうやって手招きしてたでしょ。お客さんとか、幸運とか、福を呼び寄せる猫なのよ」

さっきまで聞いていた日本の習慣はすべてが好きではなかったけど、猫ちゃんを崇める国なら、好きになれる見込みがあるわ。

車は高架高速道路を出て、街の一般道に降りた。まだ夜明け前だというのに、たくさんの車やバイクが列を成していて、急に速度が遅くなる。横の歩道には歩行者もいっぱい見えた。だけど、高層マンションと高層ビルが立ち並んでいるだけで、一軒家の民家は見当たらない。「ケンジ・タカハラはどこに住んでるの?」

「『Tak-Luxxe』っていうラベルの付いたタブを開いて」とエミコがまたしても命令口調で言った。ちょっと神様、彼女が私に命令するのを禁止して。

ガイドノートの『Tak-Luxxe』のタブを開いてみると、英語で書かれた旅行パンフレットだった。Tak-Luxxe(タック・ラグゼ)は、高級ホテル兼住居施設の名称らしい。東京の港区と呼ばれる場所にある55階建ての〈ハーモニータワー〉の、上の方の階、最上階までをTak-Luxxeが占めているという。Tak-Luxxeはアジアで名高い高級ホテルブランドで、世界中から違いのわかる旅行者が集う、通好みの豪華なスイートホテルだと銘打たれていた。屋上のスカイデッキプール、趣ある庭園、それから、寿司バー、パティスリー、シャンパンバー、日本式ステーキハウスといったレストランの写真も載っている。「素敵!」パンフレットを一通り見終えて、私は言った。「でも、私が住む場所と、この豪華なホテルが何か関係あるの?」

マサおじさんが言った。「君はそこに住むんだよ」

ホテルに?」やっぱり騙されてるんだわ。こんな豪華なホテルに住むなんて、あまりに現実離れしてるから、わかったわ。これはあれね、私みたいな田舎者を、こういう豪華なパンフレットで釣って、一旦喜ばせておいてから、娼婦にするとか、工場で奴隷みたいにこき使うとか、そういうやつね。私は完全な田舎者ってわけじゃないのよ、それくらい知ってるんだから。人身売買ってやつでしょ、若い女の子が連れ去られてるって聞いたことあるわ。「実際に住む家だったら、こんな旅行パンフレットに載ってるわけないじゃない。私は誘拐されたの?」

マサおじさんは声を上げて笑ったけど、私には何がそんなに可笑しいのかわからなかった。

エミコが言った。「もし『誘拐』が、富裕層の限られた人しか住むことができない建物で暮らすことを強要される、という意味なら、そうね、私も誘拐されたいわ」

マサおじさんが続けた。「Tak-Luxxeは〈タカハラ〉の家業なんだよ。アジアのあちこちで高級ホテルを経営していて、中でもTak-Luxxe Tokyoは、旗が立つ電車なんだ」

一瞬、彼の言った英語に戸惑ったけど、すぐに理解した。「それを言うなら電車じゃなくて、船ね。拠点となる場所ってことでしょ?」

「そう、旗が立つ船! 君のお父さんは、そこの49階のペントハウスに住んでるんだ」

私はその言葉を嚙み締める:49階のペントハウス。私は建物のそんな高い階まで上ったことすらないし、そんなところに住むなんてとんでもないわ。めまいでくらくらするんじゃないかしら? だけど、私は14時間のフライトを生き延びて、2日後にタイムトラベルできた。もしかしたら私には、今まで気づかなかっただけで、凄いことをやってのける超能力があるのかもしれない。

パンフレットに載っていたのと同じ〈ハーモニータワー〉が目の前に近づいてきた。車が脇道の控えめな入り口に吸い込まれるように入っていった。Tak-Luxxeと書かれた制服を着たベルボーイがすぐに車のドアを開けてくれた。車から降りると、エミコとマサおじさんは、ベルボーイたちとお辞儀を交わしていた。ベルボーイが車から荷物を降ろし、真鍮が煌めく手押しカートに荷物を乗せた。

「私はここで失礼するわ」とエミコが言った。「私は一旦家に帰るけど、今日また後ほど会いに来るわ。それまでに何かあったら、ここに電話してちょうだい」彼女は名刺を差し出してから、私に向かってお辞儀した。

私はお辞儀なんてそんな面倒くさいことはしなかった。ハグもしなかった。特にハグはこちらからお断り。「今度はもっと分厚いパンフレットを持ってきて欲しいな!」と私は元気よく言い放った。

「わかったわ!」彼女が運転手さん付きの車に再び乗り込むと、車は彼女を連れ去るように、さっと走り去った。

私はタワーを見上げる。夜明け前の空に向かって高く高く伸びる建物の、49階はどこだろうと見極めようとするが、曇がかかっていて上の方まで見えない。

私のお父さんが、あの雲の中のどこかにいるんだ。



チャプター 7


「なんでエレベーターに種類があるの? ねえ、なんでこの建物にはいくつもロビーがあるの?」私は3歳児に戻ったように、際限なくなんでと聞いてしまいそうになる。

マサおじさんと私は小さなロビーに立っている。目の前には、44階から49階行きというマークの付いたエレベーターがあり、カードをかざしてください、と書かれている。反対側を見ると、もう一つエレベーターがあって、36階から43階行きとマーク付けされ、日本語と英語が並ぶ表示板に、Tak-Luxxe Hotelのロビーは36階です、と書かれていた。

マサおじさんが言った。「タック・ラグゼは単なるホテルじゃないんだよ。住居用の部屋も貸していて、君のお父さんはその中でも一番広いペントハウスに住んでる」マサおじさんは、44階から49階行きのエレベーターの機械にカードをかざした。「こっちはタック・ラグゼの住人専用のエレベーターなんだ。そっちのエレベーターはホテルのゲスト用で、カードは要らない。乗れば、ホテルのロビーに連れてってくれる」

また新たなルールの登場だ。まったくもう。

「じゃ、1階から35階に行くにはどうしたらいいの? 1階から35階のロビーは?」

「1階から35階は〈タカハラ・インダストリー〉が所有してるオフィス・フロアになってる。このハーモニータワー自体のロビーは大通りに面した正面にあって、とても広いロビーなんだ。ここは脇道から入る裏口だからね」

やけに入り組んだ建物ね。そんな迷宮みたいな超高層ビルに誰かが住んでるなんてびっくりだわ。っていうか、私も住むの?

何人かのビジネスマン風の日本人がエレベーターロビーに入ってきて、Tak-Luxxe Hotelのロビー行きのボタンを押した。彼らはマサおじさんに頭を下げ、彼もお辞儀を返した。彼らはそのエレベーターに乗り込み、私たちはもう一つのエレベーターに乗り込んだ。

「私は絶対あんなことしないわ」と私はエレベーターの扉が閉まった後で言った。「お辞儀がなんでそんなに大事なの?」

「お辞儀は相手への敬意を表しているんだよ。どれくらい深く頭を下げるかによって、相手への尊敬度を示すこともできる」

「相手への尊敬度って?」

「年齢とか、その人の経済的状況、職業にもよるね」

「出会ったばかりの人について、この人はどのくらいお金を持ってるとかわかるわけないじゃない。それでお辞儀の仕方を決めるなら、いったいどうすればいいの?」

「子供の頃からそういう判断を積み重ねていると、わかってくるものなんだよ。直感っていうのかな、ピンと来る」

「なんか複雑ね」

「そう、実際複雑なんだ」とマサおじさんが言った。「だけど、君の場合、日本人と同じようにお辞儀をする必要はないよ。周りも、外人だからってわかってくれる」

「外人って?」

「外国人」

「でも、私のお父さんは日本人よ」

「それはわかってる。君と私にはわかってることだけど、他の日本人が君を見たら、君は純粋な日本人じゃないって思う。それが正しいのか、間違ってるのかはわからないけど、ここではそういうことになってるんだ」

まじ!? それって新入りの人には受け入れがたい酷な情報よね。だって、純粋な日本人に顔がどう見えるかによって、どういう人間かって判断されちゃうってことでしょ。一目見ただけで、彼らの仲間じゃないって見なされるのよね。

ここに来たこと自体が大きな間違いだったってこと?

エレベーターがどんどん上昇するにつれて、私の中のパニックも溢れんばかりに膨れ上がる。もうすぐケンジ・タカハラに会うんだ。私のお父さんに。私は可愛く見えるかしら? 彼に一目で嫌われたらどうしよう? 彼がやばいやつだったらどうしよう? お辞儀の仕方を間違えちゃったらどうしよう? 何か馬鹿なことを口走っちゃうかもしれない。

エレベーターの扉が開いた。

私はゴクリと唾を飲み込む。

もう後戻りはできない。

ウッドパネルの壁が目の前に現れ、シンプルながらもエレガントな廊下に足を踏み入れた。大理石のテーブルがあり、その中央には大きな蘭の生け花が飾ってある。上品なクルミ色したカーペットには傷一つない。小さな染みや綻びすらない。清潔感溢れる廊下だった。―壁や床を舐めても平気なんじゃないかと思うくらい、きれいだった。私が育った家は、一応きれいに整頓されてはいたけど、イケアで買った安い家具とか絨毯には、あちこちに猫の毛が付いていた。その後、里親の家を転々とするようになってからは、どの家も家具自体があまりないような家だった。社会福祉士さんが来ることになってる日だけは、それなりに「きれいな家」を取り繕ってはいたけれど。そんなだったから、私はすでに、ここは私の居場所じゃない、という感覚に襲われていた。まだ私の住む部屋を見ていないというのに。

まさに外人になった感覚だ。

緊張感が半端じゃなくて、呼吸困難になりそうだった。

廊下を進むと、穏やかな表情で佇む仏像があり、そこでマサおじさんが立ち止まった。仏像の周りには小さな陶製の花瓶がいくつか置かれていて、ヒスイのような淡い緑色をした植物が植えられていた。玄関らしきドアに備え付けのパネルに、彼がカードをかざそうとした。とっさに私は「待って」と言って、彼の手を遮るように、手を上げた。

彼が手を引っ込める。「どうした? 中で君の父親が待ってるんだぞ」

「わかってる」私は気持ちを落ち着けようと、一旦大きく息を吸って、オエッと吐きそうになった。これって夢じゃないでしょうね? 私は高熱にうなされて寝てるとか。「私の身だしなみ、ちゃんとしてる?」

「ばっちりだよ」そういうことを言ってほしいんじゃないの。私はゴミみたいに見えないか?って聞いてるのよ。マサおじさんは私の表情から何かを感じ取ったようで、こう付け加えた。「君はいつも通り、強く見えるよ」

マサおじさんがドアのパネルに〈パスキーカード〉をかざした。ピコンと音がして、ロックが解除され、彼がドアを押し開けた。私も彼に続いてペントハウスの中に入る。床が大理石でできた入り口に足を踏み入れた。ここがエミコが言っていた「玄関」ね。そして玄関の向こうに、いかにも上流階級って感じの瀟洒なリビングが広がっていた。背の高い東洋風の花瓶には艶やかな生け花が飾られていて、インテリア雑誌の表紙で見るような、必要最低限の家具しか置かれていない洗練された空間だった。誰も人が住んでいないモデルルームのようにも見えた。私はその空間に入っていくのが怖くなる。私はそこら中を触って壁を変色させたり、すぐに家具を壊しちゃう気がした。

「靴を脱いで」とマサおじさんに言われて、思い出した。彼は靴を脱ぎ、壁際にきちんと揃えて置かれていたスリッパに履き替えている。

なんでそんなに靴を邪魔者扱いするの? 私も彼を真似てスリッパに履き替えてみる。その柔らかいスリッパは、私が今までに足を入れたことがあるものの中で、最も履き心地抜群だった。すると突然、「靴を脱ぐ」というルールが完全に意味のあるものに思えた。こんなに快適なスリッパなら、靴よりはるかに良いわね。マサおじさんがこっちと手招きして、私は恐る恐るリビングルームに足を踏み入れる。部屋の角に一人の男性が立っているのに気づいた。

彼は背筋をピンと伸ばして、窓の外を見下ろしながら、背中で手を組んでいた。その佇まいは、49階の王室から自分の領土の様子を眺める王様然としている。マサおじさんが日本語で何か声をかけて、ケンジ・タカハラが振り向いた。

彼は思っていたより背が低く、私より少し大きいくらいだった。私のママは170センチあるから、ママより小さいわね。スーツの隙間から覗くシャツ越しに、彼の胸板が上下に動いているのがわかった。本物だ。彼も私と同様に緊張しているのかしら? 彼はエレガントなダークグレーのスーツを着ていた。彼の体型にぴったり合うように特注して仕立てたって感じで、かっこよく決まっている。黒いシルクのネクタイとシルバーのカフスボタンも相まって、落ち着いた雰囲気を醸し出していたけれど、彼の表情は、私の緊張を映す鏡のように、ぎこちなくこわばっていた。

「こんにちは」と私は言った。

「ようこそ」とケンジ・タカハラは言って、私に向かってお辞儀した。

私がお辞儀をしなかったのは、頭の下げ方を間違ってしまうかもしれないと恐れたのもあるけど、彼の顔から一瞬たりとも目を逸らしたくなかったからで、彼の顔が私とよく似ていることが信じられない気持ちだった。目と口の形もそっくりだし、尖った頬骨もそう。彼も同じことを考えながら私を見ているのかしら? DNAテストなんて必要なかった。こうして見つめ合っているだけで、親子である証拠を突き付けられている気分だ。

だけど、彼の見た目は父親って感じがしない。お金持ちのビジネスマンには見えるけど、それ以上に、笑っちゃうくらいハンサムなモデルみたいだった。東京の超高層ビルに煌めく電子広告で、男性用のヘアジェルを髪に塗り付けている姿が似合いそう。

それから、彼がニコッと笑って、―その笑顔に私はやられてしまった。ママが一瞬で恋に落ちた理由がわかった。きっと彼は今私にしたみたいに、ママにもニコッと笑顔を投げかけただけで、そんな安上がりな方法で、ママを落としたんだわ。

誰かが何かを言うべきだとは思ったけど、私は何を言ったらいいのかわからない。彼も同じ気持ちなのか、何も言わない。こんな状況では、私の神経質なお腹が悲鳴を上げるかも、と不安になったけれど、実際はそれ以上にひどいことになった。私はわっと泣き出してしまったのだ。刑務所の面会室でママに会った時は、なんとか涙が零れるのを抑えることができたのに。それなのに、なぜ今になって、涙の洪水がどっと押し寄せてきたのか。こんな最悪のタイミングで。こんなつやつやした、空高く聳える建物で、王様みたいな人と面と向かって、私はこんな陰キャみたいな、じめじめした姿を晒してしまった。本当はさりげなく振る舞って、つんつん尖った態度で接するつもりだったのに。

ケンジ・タカハラがマサおじさんの方を向いた。どうしたらいい? と彼に目で聞いている。

マサおじさんが私の背中をそっと、慰めるように叩いてくれた。「一度に受け入れるのは無理だよ」と彼は私を元気づけようとする。マサおじさんがそばに寄り添ってくれて、私はどうにか平静を取り戻した。涙の洪水もなんとか鎮まってくれたけど、鼻水が垂れてきて仕方なかった。見ればケンジ・タカハラの胸ポケットから、完璧な角度で折り畳まれたハンカチが顔を出していた。私はそれをひっつかんで、思いっきり鼻をかんでやりたかった。マサおじさんが日本語で私の父親に何か言った。

「君に会えて本当に嬉しいよ、エル」とケンジ・タカハラがついに口を開いた。私は気恥ずかしさから、涙を急いで拭う。彼の英語はマサおじさんよりも日本人訛りが強かったけれど、同時に自信に満ちた喋り方だった。「私はずっと君に会いたかったんだ。君のことを知りたかった。君のお母さんに似て、君は凄く綺麗だ」

うわっ、なにこれ、涙の洪水の第二弾がどっと来た。

まじかよ。

さっき笑顔で殺されかけたけど、彼の言葉で、私、本当に死んじゃう

私の髪は黒くてチリチリだし、眉毛は太すぎるし、緊張すると爪を噛む癖があるし、私を綺麗だなんて言う人は今まで一人もいなかったわ。このハンサムな父親だか王様だか知らないけど、この人はあれね、私が着てる高価なブランドものの服を見て、そういうことを言ってるのね、私がどうとかじゃなくて。

「君は疲れてるんだな」とケンジ・タカハラが言った。

いや、そうでもないけど。っていうか、今すぐ彼を座らせて、椅子に縛り付けて、どうやったらそんな魔法を使えるのか聞き出したかった。私のママをとりこにし、私までこんな死にそうな気持ちにさせるなんて、絶対あやしいわ。おとぎ話みたいに、末永く幸せに暮らしました、なんて現実にあるわけないじゃない。

「私は元気よ」と私は言った。言ってから、ちょっと素っ気なかったかな、と後悔した。これじゃ、まるで実のない父と娘の会話みたいじゃない。元気か? 元気よ。学校はどうだ? まあまあね。誕生日に突然人生が一変した気分はどうだ? 前もって知らせなかったから、あれだったんじゃないか? べつに

「なら良かった。マサがこのマンションを案内してくれる。きっと君が今まで住んでいたところより快適だぞ。苦労してきたって聞いてるからな。私はそろそろ仕事に出かける」

待って、それってどういう意味? 私はこんな立派な場所で育ったわけじゃないけど、スラム街で育ったわけでもないのよ。高層ビルの王様だか、スカイスクレイパー卿だか知らないけど、私のことを知った風な口を利くのはやめてちょうだい。

「まだ朝の5時でしょ? こんなに早くから仕事するの?」と私は聞いた。

「さっき大口の顧客がドバイから日本に到着したと連絡が入った。ハーモニータワーのオフィスフロアを5階分も使ってもらってるお客様だから、彼らに直接会って挨拶したい」

だけど、あなたは長い間会いたくて仕方なかった娘が到着したって聞いても、空港まで迎えに来るのは煩わしかったのよね?

ケンジ・タカハラは私に向かってお辞儀をした。お辞儀の深さが私への尊敬度を示すらしいけど、彼が私をどのランクに位置づけているのか、私には全然伝わってこない。そして彼は何も言わずに、くるっと後ろを向くと、部屋を出て行った。

これっていったいどういうこと? 彼が私を呼び寄せたんでしょ? はるばる遠くから飛行機に乗ってやって来た私を放っておいて、さっさとどっかに行っちゃうなんて。「彼って失礼ね」と、ペントハウスのドアが閉まるとすぐに私はマサおじさんに言った。「なんか私がゴミ捨て場で育ったみたいな言い方だったわ。なんか決めつけてた。彼は一度も会いに来なかったんだから、わかるわけないじゃない」

「彼は失礼じゃないよ」とマサおじさんが言った。「極度に個人的な状況っていうのは、その当人にとってはいつでも大変なものなんだ。特に彼の場合は」それはそうでしょうね。ケンジ・タカハラは日本に帰って来いって家族に命じられたら、妊娠中の私のママを置き去りにして、さっさと帰っちゃうんだから。彼はまるでわがままな赤ん坊ね。「君はだんだんと彼に慣れていくよ」

なんて言い草なの。私がちゃんと大人になるまで育て上げるのは、親である彼の務めでしょ。「私が彼に慣れていくんじゃなくて、彼が私に慣れていくべきよ」

私はリビングルームと、それに隣接するダイニングを歩いて、―というか、こそこそと忍び歩くようにして、見て回った。初めての場所を見て回るのは、それなりにドキドキしたけど、案内役を務めるはずの父親がいないのは残念だった。ソファ、ガラス製のコーヒーテーブル、肘掛け椅子、テレビとテレビの下のキャビネット、植物が飾られた花瓶、壁には美術館に飾ってあるような日本画、ダイニングテーブルに手を置いてみたら、こんなに滑らかなウッドテーブル初めてって感じの手触りで、その周りに椅子が6つあった。そして特筆すべきは、写真とか、本とか、普通ならスペースのあちこちに散らばっていて、そこに住んでる人の趣味が垣間見れるはずのものが、全く何もなかった。

「彼ってインスタントラーメンみたいね」と私は言った。

「どういう意味?」とマサおじさんが聞き返した。

「調理に1分、味わって食べようと思ったら1分で食べ終わっちゃって、もういない」

「彼はラーメンとは少しも似てないよ」

「お腹が空いちゃった」ラーメンという言葉を口にした瞬間、何も食べていないことを思い出した。最後に食べ物を口にしたのは、いつだったかすぐには思い出せないくらい遠い昔に思えた。私はキッチンに入っていった。染み一つない、ピカピカのキッチンカウンター。ステンレス製の電化製品。洒落たデザインのオーブンレンジは、まだ一度も使ったことがないように見える。私は冷蔵庫を開けた。調味料の類いは一応揃っていたけど、豆乳と、あとはテイクアウト用の容器に入ったサラダがあるだけだった。

マサおじさんが私に続いてキッチンに入ってきて、私の横から冷蔵庫の中を覗き込んだ。「エミコに言って、食料品を買ってきてもらうよ。食べたい物のリストを書いておいて。彼女に渡せば買ってきてくれるから。日本はラーメンの本場だからな、本場のラーメンを味わってみるか?」

「もうお腹ぺこぺこだから、インスタントラーメンでいいわ。お湯も入れなくていいから早くちょうだい。麵をかじって食べるから」

「10分くらい待てないか? そうすれば本物のラーメンが食べられるぞ」

「え!? こんなに朝早くから、ラーメンを食べられるお店がやってるわけないじゃない」メリーランド州のレストランは夜10時までにはどの店も閉まって、午前11時にならないと営業を再開しないわ。なんてったって私はシングルマザーに育てられたカギっ子だからね。しかもママは元ウェイトレスだから、その辺の事情には詳しいわ。

「ここは東京だよ。ニューヨークと同じで、何時だって誰かが起きて働いてるんだ」

「10分って、またまた冗談でしょ?」

「ルームサービスって知ってるか? 見てろ!」彼はキッチンの壁に備え付けの電話機に近づき、受話器を取って、日本語で話し始めた。いったいどこにつながって、誰と話しているのだろう? 会話の途中で、彼はこちらを振り向き、私に聞いた。「君はアメリカ人だし、あの暗い砂糖水を食事と一緒に飲むんだろ?」

一瞬、何のこと? と思ったけど、マサおじさんが昔、コーラのことを「黒い砂糖水」と呼んでいたことを思い出した。「もちろん飲むわ!」そういえば、私がまだ幼い頃、ママはコーラは健康に悪いからって飲ませてくれなかったけど、唯一コーラを飲めたのは、マサおじさんが外に食べに連れて行ってくれた時だった。

電話が終わると、マサおじさんは私に向かって片腕をクイッと動かして、廊下に出るように促した。「ついて来て。食事が到着するまでの間に、このマンションを一通り案内しておくから」私たちは廊下に出て、広い玄関に戻った。そこには3つのドアがあり、中を見ると3部屋ともベッドルームだった。―真ん中の部屋は広々としたスイートって感じのベッドルームで、その隣の部屋は狭いベッドルームでオフィスっぽい内装になっていた。最後に開けたドアは、中くらいの広さのベッドルームで、ツインベッド、洋服箪笥、収納ケース、それに机と椅子があった。それらの家具は一目見ただけで最高品質だとわかる高級品で、部屋はちり一つないくらいに清潔だったけれど、それ以外は取り立てて目を引くものはなかった。私は実際にホテルに泊まったことはないけど、テレビで見たことはあって、このマンションは広くて家具が立派ってだけで、テレビで見たホテルの客室と同じ感じに見えた。マサおじさんがツインベッドの部屋のドアの前に立ち、廊下から中を指差して言った。「ここが君の部屋だよ。今はまだ何も施してない素の部屋だから、君が好きなようにアレンジして飾り付ければいい」

私は思い切って中に入ってみた。彼が明かりをつけた。私のベッドルームはそんなに広くなかったけど、私が必要になりそうなものはすべて揃っていた。クローゼットを開けてみると、中は衣服でいっぱいだった。―ハンガーにジーンズとスカートがかかっていて、ブラウスにはまだタグが付いていた。壁に吊るされた棚には、きちんと折りたたまれたシャツとセーターが置かれていた。小さなロッカーみたいな整理棚には、靴類が並んでいた。―スニーカー、サンダル、スリッパもある。「前にこの部屋を使っていた誰かが、ここに洋服を置いていったの?」と私はマサおじさんに聞いた。

「いや、全部君のためにエミコが買い揃えたものだよ。気に入らないものがあったら、彼女に言えば返品してくれるし、サイズが合わなければ交換してくれる」私の頭は爆発しそうだった。これって現実なの? 彼は付け加えた。「新しいiPhoneが机の引き出しに入ってる。君のスマホだよ」

まじで?」私は机に駆け寄ると、引き出しを開けた。本当に、まだ箱に入ったままの新しいiPhoneがあった。私はそれを手に取ると、iPhoneにキスした。「ありがとう、嬉しいわ。ほんとにありがとう」

「君がここで新生活を始めるのに必要な物は、エミコがすべて揃えてくれたと思う。彼女が何か買い忘れてる物があったら、彼女に言えばいい」

彼女は私に言い忘れたことがあるわ。私のお父さんは、今まで16回もすっぽかしてきた私の誕生日プレゼントを一気に穴埋めしてくれるって、彼女は前もって言うべきだったわね。

マサおじさんが言った「10分待てば食べられる」というのは、冗談ではなかった。玄関のベルが鳴った時、秒単位できっかり10分計ったんじゃないかとさえ思えた。Tak-Luxxeの制服を着たウェイターが玄関でマサおじさんとお辞儀ゲームを繰り広げた後、カートを押して入ってきた。カートの上にはシルバーのボウルがいくつかと、ガラスの瓶に入ったコーラが2本置かれていた。マサおじさんが彼に言った。「このままでいいよ。後は自分たちで準備できるから」彼らは日本語で二言三言交わし、それが済むと、ウェイターは私に向かってお辞儀をして、なんだか得意げに英語で、「良い一日を!」と言った。それからマサおじさんにもお辞儀して、部屋を出ていった。

マサおじさんがダイニングテーブルにランチョンマットを敷いて、私はカートの食べ物を運んできて、その上に置いた。ボウルからスープを掬って、シルバーのお椀に移す。湯気がぶわっと舞い上がって、この上なく美味しそうな匂いが鼻をくすぐる。他のボウルには、太くて新鮮そうな麺、やわらかいお肉、半熟卵と、卵の上にはねぎがこんもりと盛り合わせてあった。

私たちは席につくと、コーラの瓶を掲げて、軽くカチンと合わせた。「乾杯!」とマサおじさんが日本語で言った。

「どういう意味?」

「チアーズって感じ。喜びを分かち合おう、みたいな」

私はスプーンでラーメンの汁を掬って、最初の一掬いを口の中に入れてみた。まさに喜びを分かち合おうって感じだった。「オーマイガー!」と私は叫んだ。

マサおじさんは私の絶叫を誤解したようで、「君には辛すぎたか?」と聞いてきた。

「そうじゃないの! スープにこんなにいろんな味が詰まってるなんて信じられないのよ。待って。この麺も新鮮でモチモチしてて、こんなに美味しいヌードルがあったなんて、こんなの初めて食べたわ」私はごくごくとスープを飲んで、麺をずるずるとすすってから、続けた。「正直に言うと、本格的なラーメンも、どうせインスタントヌードルとそんなに変わらないんでしょって思ってたのよ。だけど、レベルが違いすぎる。これは私が人生で食べた中で最高に美味しい食事よ。あ、一つだけ例外があったわ。私たちのYMCAの水泳チームが地区大会で優勝した日に、コーチのヴィッカーズがみんなを〈レド・ピッツァ〉に連れていってくれたの。みんなで喜びを分かち合いながら食べたピザは、あれは最高に美味しかったな」

彼は笑った。「まだ水泳は続けてるのか? 覚えてるぞ、君はすごく泳ぎが上手だったよな」

「もうやめちゃった。ママが交通事故に遭って、引っ越さなくちゃならなかったし、久しぶりに泳いでみたら、体が付いて行かない感じで、もうみんなに追いつけないわ」

「ここでまた泳いでみるといい」彼が真剣な表情で力強く言った。私は一瞬感動しかけたけれど、マサおじさんのラーメンの食べ方を見て、噴き出すように笑ってしまった。このエレガントな男性は、オーダーメイドの埃一つない高級ビジネススーツを着ているくせに、世界中を飛び回り、外国語だって話せるっていうのに、3歳児みたいに麺をじゅるじゅると吸い、口の周りに、というか顔の下半分に、べちゃべちゃとスープの斑点をつけているから。

「信じられない! そんなに勢い良くじゅるじゅる吸い込まなくたって!」

「日本ではこうやってラーメンを食べるのが最適だと考えられているんだ。それに、こうするとすごく美味いんだよ...」彼は大きなボウルを持ち上げ、直接口に注ぎ入れるようにしてスープを飲んだ。私は目を丸くして見入ってしまう。次に彼はボウルをランチョンマットに戻すと、箸をお肉にグサッと突き刺した。箸がお肉の上にまっすぐに立つ。「これはやってはいけない事とされてる。それから、料理の横に醤油が入った小皿が置いてあった場合、食べ物を醬油に浸して食べるんだ。逆に醬油を食べ物にかけちゃだめ」

「かけちゃだめって冗談でしょ?」

「冗談じゃない」

エミコがエチケットノートを作ってくれたことに感謝しなくちゃと思った。どうやらあの分厚いノートをちゃんと読まないといけないみたいね。そして食べるわ。思う存分いっぱい食べるわ。

私は言った。「新しい学校のカフェテリアのメニューも、こんなに美味しいのかしら」

「明日になればわかるよ」

私の新しい父親も私に会ってから5分もしないうちに私を放置して出て行っちゃったけど、この人も次から次へと衝撃的なことを言って、私を戸惑わせるわね。「待って。そんなに急に学校に行くなんてあり得ないわ。もう少し時間が必要でしょ、ほら、新しい場所に慣れる時間っていうか」

「そんな悠長なこと言ってると、日本では怠けてるとみなされちゃうぞ。今日一日休んだら、明日から学校の勉強を再開させるんだ」

火曜日の夜にワシントンを出発して、フライトは14時間だったから、まだ水曜日のはずなのに、なぜかもう木曜日の朝で、明日は金曜日! 時間が速すぎて混乱しちゃうわ。それに、週終わりから新しい学校に入るなんて、なんか間抜けって感じ。でも、考えようによってはその方がいいかも。次の日はもう休みだから、新しい学校に馴染めるか(馴染めないか)、不安を抱えながら長い一週間を過ごさなくて済むし。急に飛び込みで入るのも悪くないわね。「ケンジ・タカハラが学校まで送ってくれるの?」

「たぶん無理なんじゃないかな。彼は明日も仕事だし、君の新しい学校は、ここから1時間くらいかかるから」

彼は私が生まれる前から私を拒絶した。だから、私が外国の学校に通う初日に、彼が時間を作ってくれなくても不思議じゃないはずなのに、こんなに胸が焼けるように苦しいのはなぜ?―1時間もかかるから私を送ってる場合じゃないってこと? なんかひどいわ。「じゃあ、あなたが送ってくれるの?」と私はマサおじさんに期待を込めて聞いた。

「すまない。私は明日の朝早くにジュネーブに戻るんだ。何週間かしたら、また君の様子を見に来るよ。それまではFaceTimeでいつでもビデオ通話できる」

何週間かしたら? ちょっと前にマサおじさんと再会したばかりなのに、もう彼とお別れってこと? 私は心のあちこちを踏みつけられたような、また彼を失う寂しさを感じた。「じゃあ、私一人で頑張れってこと?」

「そういうこと」

なんか、前の生活に逆戻りじゃない。

ここでは誰も、毎日シャワーを浴びることを禁止しないみたいだけど、それ以外で何か改善されたことってある?

私は窓の外に目を遣り、49階から東京の朝の街並みを眺めた。この高さからでも、近くにある他の高層住宅やオフィスビルの窓越しに、人の姿がちらほら見える。誰もがそれぞれの一日を始めようとしているようだ。建物がひしめくこの街には、何百万人いるのか知らないけど、たくさんの人がいて、そこには新たに見つけた父親も含まれていて、だけど、私は独りぼっち。前の世界に戻ったような気がする。そこで、ふとあることに思い至り、不思議と心が和んだ。

私はあの世界で生き残ったんだ。あっちでできて、こっちでできないはずがないじゃない。ここでも生き残る術を見つけてみせるわ。



チャプター 8


私は小さい頃から、身寄りのない子供が出てくるお話を読むのが大好きだった。まさか自分も小説の登場人物と似た、悲惨な境遇に陥るとは思ってもみなかった。里親の家で私は毎晩、この状況から魔法のようにパッと抜け出せたらいいのに、と祈っていた。実際にそんなことが起きるなんて思いもしなかったけど、それは実現した。

翌朝目覚めると、私は真新しい寝室にいた。49階のペントハウスの一室で、窓から東京を見下ろせる。私の寝室に付いている私専用のバスルームに入って、たっぷりと時間をかけて温かいシャワーを浴びた。二日連続で温かいシャワーを浴びられるなんて、それだけで魔法を浴びている気分だった。今日から新しい学校生活が始まる。私は身支度をして、エミコに渡された分厚いバインダーから、国際カレッジスクール(ICS)東京校のパンフレットを引き抜くと、パラパラとめくって校舎とかの写真をチェックした。ホグワーツ魔法魔術学校っぽくはなかった。どちらかというと、ディズニーランドに近い外観だった。私は時差ぼけのせいか、方向がつかめない感じで頭がぼんやりしていた。ここで私はどんな悲惨な末路を遂げるのか、今の時点では見当もつかないけれど、私は気にしないことにした。現状が快適すぎて、感謝しか湧いてこないし、この夢から早々と醒めるわけにはいかない。

ああ、さようなら、メリーランド州の公立学校へ向かう地獄のようなスクールバスに、私は別れを告げた。私の目の前には運転手付きのベントレーが待っていて、快適に初めての学校に連れて行ってくれる。さっき聞いた話によると、アケミ・キノシタ(木下明美)という、同じタック・ラグゼの46階に両親と住んでいる女の子が、学校まで一緒の車に乗せてくれるらしい。高級車で「相乗り通学」なんて、なんだかお洒落で気が利いてるし、そんな小粋な通学方法があるなんて今まで知らなかったわ。しかも、黒のスーツを着た運転手さんがナビゲートしてくれる。レジーに「ベントレーに乗って通学してるのよ」なんて話したら、彼は気絶するでしょうね。そういえば、私の新しい父親は初日の登校に私に連れ添ってくれないんだった。喜びのあまりすっかり忘れていたけど、相乗りの相手の子の父親が私に挨拶してきて、思い出した。

「君がエルかい?」とベントレーの横に立っている年配の男性が聞いてきた。私はうなずく。「私はアケミの父です。アケミは英語がまだ上手く話せないから、助けてやってくれるかな」彼自身の英語もつっかえつっかえで、日本人訛りが強かった。車内を見ると、私と同い年くらいの女の子がすでに座っている。私に挨拶してきた男性は、彼女の父親だと言ったけど、彼女のひいおじいちゃんでも不思議ではないほど年を取っていた。彼はエレガントなビジネススーツを着ていたけれど、顔にはしわが寄っていて、腰も曲がり、猫背で大変そうに立っている。

「わかりました!」と私は言った。「相乗りさせてくれて、ありがとうございます」

「どういたしまして。良い一日を。ごきげんよう」彼は私にお辞儀すると、その場を後にした。運転手さんが後部座席のドアを開けてくれたので、私はベントレーに乗り込んだ。

「こんにちは」と私は日本語で、隣に座っている私立学校のお嬢様って感じの女の子に挨拶した。こんにちはは今のところ、私が知っている数少ない日本語の一つだった。後部座席は高級感に満ちた空間で、座席だけでなく天井まで革張りになっていた。相乗りの相手の子は、目の前のタブレットでアニメ映画を見ていた。折り畳み式のテーブルが座席に備え付けられていて、その上にタブレットが立っている。

「ねえ、アケミ」(アケミという名前は私が今までに聞いた名前の中で、最も美しい発音の一つで、アーケーミーと発声するだけで気持ちいいんだけど、)アケミは、私にあまり関心を持っていないようだった。彼女の意識は目の前の映画に集中している。エミコの話では、アケミは高校1年生ということだけど、もっとあどけない感じで、中学生になったばかりに見えた。髪の毛を後ろで結び、リボンを巻いている。パステルピンクのかわいいリボンで、私は東京の「かわいいスタイル」を初めて見た。髪の毛だけでなく、学校の制服にも、リュックカバンにもレースのリボンを付けている。

見た目からして清楚な女の子って感じだけど、アケミが実はワイルドな女の子だったらいいのに、と思った。家族の目から離れた瞬間に髪のリボンをほどき、胸元のボタンをざっくりと真ん中辺りまで外して豊満なボディーを見せびらかし、スカートを折って短くしてパーティーガールに大変身するのよ。それもそんなに悪くないでしょ。その方が、車で送迎される大人しい女の子より楽しそうじゃない。二言三言しか喋らない女の子なんてやってて、つまらなくないのかしら?

アケミの英語の手助けをしてあげてって言われたけど、彼女はぽつりぽつりと、一言ずつ返すだけだから、どうやって手助けをすればいいのか手掛かりがつかめない。

私、「アケミ、ICS東京校はどんな感じ?」

アケミ、「まあまあ」

私、「好きな科目は何?」

アケミ、「美術」

私、「どんな絵が好きなの?」

アケミ、「青」

私、「ずっと東京に住んでるの?」

アケミ、「いいえ」

私、「この学校の制服、そんなに悪くないわね。もっとダサいと思ってた」

アケミ、「そうね」

それは冗談ではなく本心だった。私は制服なんて着たくないと思っていたけど、実際に着てみると、デザインも素敵だし、気分もうきうきしてくる。プリーツスカートは膝までの長さで両サイドに切れ目が入っていて、深緑と藍色のチェック柄だった。両サイドの切れ目は、バックルではなく、黒の安全ピンみたいな掛け金で留めてある。オックスフォードスタイルの白いシャツの肩口には、グリーンとゴールドの文字でICS-Tokyoと綴られている。ネイビーブルーのニーハイソックスはスカートの色と合っていて、寒い季節になったら、タイツを穿いてもいいし、藍色のベストを着ることもできる。ベストはカシミアで編まれたもので、見た目も全然悪くない。極めつけは靴で、サドルシューズと、コンバットスタイルの上まで紐で結ぶブーツの二種類あって、好きな方を選べるのよ。どちらもいけてるんだけど、私は登校初日にブーツの方を選んだわ。

アケミはリュックカバンから日本のファッション雑誌を取り出し、特定のページを開くと、それを私に手渡した。そのページの写真には、イモジェン・カトウという名前の10代の女の子が写っていた。名前だけはアルファベットの明るいフォントで書かれていたので読めたけど、他の部分はすべて日本語の記事だった。そのため細かい情報はわからなかったけれど、彼女の顔が、私みたいに、ハーフの日本人だというのはわかった。彼女は髪の毛をいろんな色で奇抜に染めている。彼女の後ろにはベッドルームのクローゼットが写っていて、おびただしい数の色とりどりの洋服がかかっていた。アケミが言った。「彼女の母親がICSの制服をデザインしたのよ」

イモジェン・カトウの母親が大物であるかのような言い方だったから、私は聞いた。「彼女のママって誰?」

「シャル・カトウよ」

「えー! あり得ないわ! シャル・カトウがこの制服をデザインしたっていうの?」世界中を席巻するファッションブランドの超有名デザイナーが、なんでわざわざ学校の制服なんてデザインするっていうの?

アケミが言った。「シャル・カトウはICSの卒業生なのよ。ずっと学校の支援をしていて、今は、彼女の娘さんのイモジェンも、この学校に通ってるわ」

うわ! 私が通う学校って東京の学校よね? ハリウッドにあるセレブな学校じゃないよね?

「イモジェン・カトウっていい子?」と私は彼女に聞いた。

アケミは肩をすくめた。「イモジェンは2年生だから、私は彼女と一緒になる授業はないわ。それに、彼女は人気がある女の子たちの一人だから。彼女たちは私に話しかけてこないし」

「ああ」なるほど。わかったわ。そういうのは前の学校にもあったから。「ICS東京校にどのくらい通ってるの?」

「去年タック・ラグゼに引っ越してきてからよ。前は大阪に住んでいて、普通の日本の学校に通ってたの。東京に引っ越してきた時に、父がもっとしっかり英語を学んだ方がいいからって、父がICS東京校を選んだの」

「あなたの英語はかなりいい感じよ」彼女の話し方は慎重で、やや日本人訛りもあったけど、言葉と格闘している感じはなかった。

「ありがとう。英語を話すのは好きだし、楽しいわ。だけど私は、英文法とか読むのが苦手なのよ」

「私がなんとかその辺を手助けできるように、何か方法を考えてみるわ。ICSに通ってみてどう? 気に入った?」

「日本の学校の方が良かったな。ICSはアメリカの学校みたいに、人気があるか、スポーツができるか、その二つだけが重要なのよ」

突然、私の頭の中でキラッと輝きを放ち、ひらめくものがあった。こんにちは!と日本語で叫びたい気持ちだった。私はまったく新しい大陸、新しい国の新しい学校で、新生活を始めようとしている。かつて住んでいた私の出身地から何千マイルも飛んで、広大な太平洋を越えて来たのだ。つまり誰も、前の学校での私の地位とか、人気度の低さを知らない。私はここでまったく新しい人になれるんだ。まっさらな地点から、新しいキャラクターで再スタートできるんだわ。

アケミが言った。「たぶんイモジェンはあなたを好きになると思うわ。彼女もあなたみたいにハーフなのよ」

「ハーフって何?」日本へ飛び立つ前の空港のラウンジでも聞いたし、日本の空港でもその言葉が耳に入ってきた。どの人もこそこそと、まるで悪口を言っているように、ささやき声でその言葉を口にしていた。

「半分日本人で半分外国人ってことよ。イモジェンは2年生のクラスで唯一のハーフだったんだけど、今日からあなたが入るから、クラスで二人ね」私が通っていたメリーランド州の学校には、いろんな人種の子たちがいたから、アケミの発言に違和感があった。私がクラスで二人のハーフのうちの一人になることを、なぜアケミは私に話しておく必要があると思ったのかしら? 日本人特有の差別意識ってこと?

「この学校の勉強量って大変?」と私は聞いた。

猫の手も借りたい」とアケミが日本語で言った。

「それってどういう意味?」

「忙しすぎる時に使う決まり文句よ。自分の手だけでは足りないから、猫の手でもいいから借りたい、手伝ってほしいってこと。ICSで宿題がどさっと出た時によく使うわ」

「猫の、手も、借りたい」と私はその日本語を真似て言ってみた。猫ちゃんが出てくるフレーズって素敵だわ。「あなたって猫のミャオね」と私はアケミに言った。

彼女は英語のフレーズに戸惑った様子で、顔をしわくちゃにした。「ちょっとよくわからないわ」

「あなたって素敵って意味よ」彼女の顔が満面の笑みに変わった。「そうだ。私たち、日本語と英語のことわざを交換できるんじゃない?」と私は提案した。「基本的な単語だけじゃなくて、お互いの言語の面白いフレーズとかをお互いに教え合っていきましょ」

あ、良かった」と彼女が日本語で言った。今度は私が混乱して顔をしわくちゃにした。「お、いいねって意味よ」

「あ、良かった」と私は繰り返した。「スイッチを入れて頑張るわ」

「スイッチを入れて頑張るわ」と彼女が私を真似て、アメリカのアクセントで繰り返した。すると彼女はあくびをした。「私はいつも学校に行く途中、車の中で寝てるのよ。今から学校に着くまで、目を閉じててもいい?」

「どうぞ」と私は言った。

「どうぞ」と彼女が私を真似た。この分だと彼女の英語はリズミカルなアメリカンイングリッシュになるわね。それからアケミはタブレットの停止ボタンを押して映画を止め、残りの通学時間ずっと目を閉じていた。

学校まではかなりの距離があり、東京の中心部の港区から、学校のある郊外まで30キロくらいあった。車が進むにつれて、集合住宅や工場っぽい建物が多くなり、高層ビルは減っていった。(私の新しいiPhoneのGPS機能によると、)車は西に向かって進んでいた。東京って広いんだな、と東京の新たな一面を知った気がした。一つの大きな都市というよりは、小さな町の集合体って感じね。

空に浮かぶようなペントハウスに住むのも気分良かったけど、東京の高層ビル群の向こう側を初めて見ることができて、その景色を楽しめた。車の窓を少し開けてみたら、地上の風が吹き込んできて気持ちいい。49階ではこうして新鮮な空気を肌で感じることはできないし、通りを目的地に向かって急ぎ足で歩いている人たちを見ることもできない。窓の外を観察していると、いたるところに猫のシンボルがあって、胸がときめいた。店先の窓辺に飾られた猫の置物、猫のポスター、猫の広告。建設現場の標識にも猫ちゃんがいた。―ピンクと白のハローキティが看板にぶら下がっていて、歩行者が道路に開いた穴に誤って落ちないように注意を促している。ハッフルパフ、私の愛する猫ちゃんを失って、今でも心が痛むけど、毛むくじゃらのハッフルちゃんは、もしかしたらここの方が住み心地良かったかもしれないわね。

マサおじさんが言っていた通りだった。道路は結構混んでいて、ICSまでの通学時間は1時間近くかかった。唐草模様を描いたような鉄の門扉をベントレーが通り抜け、学校の敷地内に入ると、私はわくわくしてきて、胸の鼓動がスキップするように高鳴った。なんてこと! スマホでもICSを検索して、予め校舎の写真を見てあったけど、写真は正確に物事を伝えないのね。実際のキャンパスがこんなに大きくて、これほど綺麗だなんて! 敷地は壮大で豪華絢爛に飾り立てられていて、緑も豊かだった。キャンパスの最前部、真正面に見える石造りの建物は、物語に出てくるような、古い英国の大学みたいな趣きがあった。メリーランド州で私はいくつかの高校に通ったけど、どの学校も中央に現代的で巨大な校舎があって、そこから見栄えのしない施設が周囲にくっついている感じだった。生徒が便利に使えるように、という配慮なんでしょうけど、どの施設も混雑していて、教室はぼろぼろだったし、シャワー室もなんか臭くて気持ち悪かった。アメリカの高校には必ずフットボール場もあったわね。それと比べて、ICS東京校は魔法がかけられた学校に見え、私はうっとりしてしまう。

私はアケミの肩を軽くつついた。彼女は目を覚まし、周囲を見て私たちがどこにいるかを確認した後、目をくるりと回した。「ちくしょう」と彼女がつぶやいた。

「それってどういう意味?」

「ファックってことよ」と彼女がささやく。

私は新しい隣人、相乗りの相手の子がもう好きになった。

長い車の列ができていて、規則正しく一台の車から数人ずつ生徒が出て来る。みんな相乗り通学をしているみたいで、アメリカではサッカー少年を乗せてママさんが運転するようなミニバンが目立った。その間に挟まれるように、メルセデス、BMW、レクサスなどの高級SUV車も見える。テレビドラマでロリー・ギルモアが、元々彼女は裕福な家で生まれたわけじゃないから普通では通えないんだけど、セレブな学校〈チルトン〉に初めて登校した日みたいだと思った。少なくとも私の人生が暗転して地獄の日々を送るようになるまでは、私はずっと良い子だったから、きっとその報いが訪れたのね。ロリーは〈チルトン〉を足掛かりにして名門イェール大学に進学したから、私もここから名門大学へ飛び立つかも。孤児だって夢見てもいいでしょ? エル・ゾエルナー、一生懸命勉強するのよ。私は自分に言い聞かせる。このチャンスをしっかりつかむのよ。漂流していたあなたがここに上陸できたのは、奇跡みたいなものなんだから。せっかく巡って来たチャンスをふいにしちゃだめ。

車の列が進み、ベントレーが降車口にたどり着いた。運転手さんが車から降りる。後部座席のドアを開けてくれるみたいだけど、私はそこまで待てない。今すぐに車から飛び出して、走り出し、ICSのキラキラ輝く緑の芝生の上を飛び跳ねるように越えたい。私はドアに手をかけ、自分で開けようとした。そこでアケミが言った。「運転手さんが開けるまで待って。それがルールよ」

新しく生まれ変わったエルは、そんな古いルールなんか構ってられないの。私はさっさとドアを開けた。何かが、どん、とぶつかって来た衝撃があって、私は子犬みたいな声を上げてしまった。勢い余ってドアを壊してしまったのかと外に出てみると、私と同じくらいの年齢の男の子が地面に倒れていた。私がドアを開ける時はドアの前には誰もいなかったから、彼はこの縁石に沿って走ってきたに違いないわ。倒れていた少年は、さっき車の中でアケミが見ていた日本のアニメのキャラクターに似ていた。乱雑なモップみたいな黒髪に、氷のような青のメッシュが何本も入っている。焦げ茶色の目が私を睨み付けた。

「ちゃんと見てから開けろ」と彼は怒りをあらわにした。彼は立ち上がると、私が新顔だと思ったのか、十分に時間を取って、じっくり私を観察した。すると、彼の顔が変に赤くなった。「今回は大目に見てやる。もう練習始まってるから俺は行く。次にここで相乗りの車から出る時は、俺を殺そうとするなよ」彼は膝をはたいて砂利を落とすと、私が開けたドアを勢い良く閉め、遠くに見えるプール施設の方へ走って行った。(この学校にはプールがあるのよ! 1時間目のチャイムが鳴る前に、プールを見る時間はあるかしら? 待って、この学校にもチャイムってあるの?)

「はじめまして。いやみなやつ」と私はつぶやいた。

運転手さんが反対側のドアを開けて、アケミが出て来た。「彼のことは気にしないで」と彼女が私に言った。「リュウ・キムラ(木村竜)っていうの。彼を好きな人はもう誰もいないわ」



チャプター 9


私は高等部の学部長、クロエ・レーラーと面談するため、学部長室の椅子に座って彼女を待っていた。学校の敷地は緑豊かで手入れが行き届いていたけど、彼女の仕事部屋は、本や書類やファイルが所狭しとあちこちに積み重なっていた。アメリカでも転校するたびにこういう乱雑な校長室で面談したから見慣れてはいたけれど、忙しそうな乱雑っぷりに私はわくわくしてしまう。壁には、彼女の大学と大学院の学位が額縁に収まって飾られていた。写真や表彰状の類いも額に入っていて、彼女は東京校の前に、ICS香港校で学部長をしていたことがわかる。それから、コネチカット州のミスポーターズ女子校と、スイス国際科学高校のドバイ校でも働いていたらしい。彼女の机の上に目を向けると、写真立てがいくつか並べられていて、ハーバード大学のキャンパスで撮った彼女の学生時代の写真が収まっていた。

「こんにちは。ようこそ、エル」私は振り向いた。そこには、今写真でじっくり見たばかりの若い女子学生が、年を重ねて30代後半になった感じの女性が立っていた。―赤茶色の髪、象牙色の肌をしていて、厳格な教師って感じの顔だ。「はじめまして」

「はじめまして、レーラー先生」

「クロエって呼んで。この学校ではファーストネームで呼び合うことになってるのよ」

「わかりました...クロエ」と私はためらいながら言った。メリーランド州の学校で、目上の先生をファーストネームで呼んだりしたら、確実に罰として居残りさせられるわ。

クロエは机に向かって座ると、私のファイルに一通り目を通した。「あなたの記録を見ると、標準テストの点数は大体いつも上位5パーセントに入ってるし、あなたはあらゆる面で模範的な良い生徒だったみたいね。メリーランド州で育ったのね。去年まではずっと良い成績だったのに、急にどうしちゃったの?」

「人生がちょっとおかしくなって」と私は言った。私は新しい学校に転校するたびに、こういう尋問みたいな面談を受けていたので、また馬鹿みたいな話を一部始終繰り返す気にはなれなかった。

「あなたはメリーランド州内の学校を何校か転校してるわね」

「今言ったように、おかしくなっちゃって」彼女が見ているファイルの中に、メリーランド州の社会福祉士さんからの手紙も挟まっているのが目に入った。ということは、このクロエ先生は私が東京に来ることになった事情を知ってるに違いないわ。それなのに、私に何を言わせようとしてるの? 私のママは今刑務所の中で、ずっと行方知れずだった父親が魔法のランプから出てきたみたいに突然現れて、この学校に来ることになりました。ここではまた良い成績が取れるように頑張ります、とか言えってこと?


「あなたが前みたいに良い成績の軌道に乗るには、少し時間が必要だと思うわ。じっくりコツコツと勉強を続けるしかないわね。一生懸命勉強しないとなかなか追いつけないってことだけど、その気はある?」

「満ち溢れるくらいあります」と私は、自信に満ちたロリーのように言った。

「それを聞きたかったのよ」クロエは椅子を回して振り向くと、壁に飾られた立派な大学の学位の下にあるファイル棚のロックを外して、棚を開けた。彼女は新品のMacBookを取り出すと、まだ元々の箱に入っていて封も開けていないそれを私に手渡した。「これはあなたの学校用のパソコンよ」

「本当ですか?」新入生に真新しいMacBookを授けるなんて、どんな女神なの?

「授業料に含まれてるのよ」それにしても嬉しいわ。時期的にはちょっと早いけど、メリークリスマス、ハッピーハヌカー、ハッピークワンザって、私、エル・ゾエルナーの血に流れるいろんな民族のお祝いの言葉を叫びたい気持ちだった。「ここまでで何か質問ある?」

「誰でも学校のプールを使えますか?」と私は、大事なMacbookが入った箱を膝の上で慎重にバランスを取るように抑えながら聞いた。

「プールはこの学校の生徒だったら誰でも使えるわ。もちろんあなたもよ」彼女は微笑んだが、私はなんだか馬鹿な質問をしてしまったようで気恥ずかしかった。「メリーランド州の社会福祉士さんからの手紙に、あなたは優秀な水泳選手だったって書いてあったから、朝の運動のクラスは水泳に振り分けておいたわ」

「ありがとうございます。いいですね」と私はなるべく平静を装って言った。毎朝プールを使えるくらい、そんなの私は慣れっこよって雰囲気を醸し出す。禁止しかない世界では、そんなのあり得ない夢物語だったけれど。

「あなたは水泳チームに参加する気はある? ここの生徒は大体みんな、何かしらのスポーツクラブに入ってるわ」

私は肩をすくめた。「たぶん入ります」また水泳チームに入ることを考えると、わくわくもしたけれど、怖くもあった。あの悪魔のような獣が私の人生を襲ってきて、YMCAの水泳チームを辞めてから、私は競技として競い合う水泳からは遠ざかっていた。

一人の10代の女の子がノックもせずに、クロエの仕事部屋にずかずかと入ってきた。彼女はMacBookを差し出すと、「これ壊れちゃったから、新しいのと替えてください」と言った。

「何があったの?」とクロエが聞いた。

「昨日、校外学習で皇居に行って、千鳥ヶ淵のお堀でボートに乗ったんだけど、馬鹿な男子たちが立ち上がって、ボードを揺すったから」

「ノートパソコンをボートに乗せるべきではなかったわね」

だって、宿題があり得ないくらい、馬鹿みたいにいっぱいあったから」

「汚い言葉は慎みなさい、イモジェン」とクロエが言った。

ちくしょう、と私は思った。この子があの有名なイモジェン・カトウか! 彼女は私を見てから、視線を落とし、さっきクロエを待っている間に私が見ていた雑誌をちらりと見た。ああ、神様、なんて恥ずかしい瞬間なの。開きっぱなしの雑誌には、彼女が写っているじゃない! 私は即座に雑誌を閉じた。目の前の女の子は、間違いなく雑誌の写真と同じ女の子だった。ただ、今の彼女の髪は、白に近いブロンドヘアーで、黒髪があちこちに透けて見える感じだ。雑誌の彼女の髪は、赤褐色に近いブロンドヘアーで、蜂蜜色と青リンゴ色の筋が縦に入っていた。彼女はチェック柄の制服のスカートの下に、濃い紫色と藍色と銀色が混在したタイツを履いていた。タイツには何頭もの疾走する灰色のユニコーンがプリントされている。ブラウスの上には、長い間着続けている感じの、大きめサイズでクリーム色のカーディガンを羽織っていた。制服のベルトは真ん中ではなく、横に結び目を持ってきている。どうやら、この学校の服装規定はそれほど厳しくないみたいね。

私が閉じたばかりの雑誌を彼女が見下ろしている。「なんてメタなの」と彼女が嘆くように言った。私には彼女が言ったことの意味がわからなかった。でも彼女は私に向かってにっこりと微笑んで、「こんにちは。私は...誰でしょう? そう、イモジェン・カトウよ」と言った。それから彼女は視線をクロエに戻した。「ごめんなさい。馬鹿な男子たちがふざけてボートを揺らしたから、水の中にパソコンを落としちゃって、すぐに拾い上げたんだけど、私のデータが全部消えちゃいました」

クロエは言った。「IT部門の職員に頼んで、あなたのデータを復元できるか調べてもらうから。その間は...」

学部長はファイル棚から、もう一台、新品のMacBookを取り出すと、それをイモジェンに手渡した。1,000ドル以上もする、私が自分で所有できるなんて夢にも思わなかった高価な機械なのに、彼女はまるで、飼い犬に食べられちゃったサンドイッチのお代わりを手渡すみたいに、気軽にそれを引き渡した。

ゴザイマース」とイモジェンは言ったように聞こえた。「こんにちは」と「さようなら」以外にも、私は「ありがとうございます」という日本語もすでに知っていた。どうやら、くだけた会話で日本人が早口で話すとき、最初の部分が省略されることがしばしばあるらしい。私の日本語の知識も段々と広がっていくわね。ただ、このインターナショナルスクールはすべての教科を英語で教えているみたいだから、急激に広がることはなさそうだけど。

クロエが言った。「エル、イモジェンをあなたの案内役に指名するから、仲良くするのよ。あなたは来週から通常のスケジュールを始めることになるから、その前に、今日はイモジェンに付いて回りなさい」

イモジェンはクロエの仕事部屋のドアを開けると、私のためにドアを押さえたまま言った。「お先にどうぞ、新人さん」彼女は今日一日私の案内役を言いつけられたわけだけど、その声の感じからすると、面倒が降りかかってきて最悪、みたいには思っていないようだった。私はクロエに感謝を述べてから立ち上がり、イモジェンと一緒に学部長室を出た。それから彼女の後ろを歩いて、管理棟の外に出た。「まずは、学校の敷地内を簡単に案内するわね。登校初日の案内役が、私みたいな人気者なんて幸運、まずないわよ。あなたはラッキーだって思ってちょうだいね」

私は言い返した。「私みたいな凄い子を案内できるなんて幸運、まずないわよ。あなたもラッキーだって思ってちょうだいね」

あれ? 私っていったい何者? と自分でも思ってしまう。この自信は一体全体どこから来るの? エル、ついこの間まで平凡な公立高校の生徒だったじゃない。新しい川を泳ぎ始めて、急に私立学校の有名人と張り合おうなんて、日本の水が私にスーパーパワーを授けてくれたのかしら?

イモジェンが笑った。「あなたって勇気があるっていうか、豪快ね。気に入ったわ」

「私もあなたのカーディガンが気に入ったわ」と私は言った。彼女のカーディガンは高級感はなかったけれど、年季が入っていて、愛着があるように見えた。

「凄くリボウスキっぽいでしょ?」とイモジェンが言った。私はついうなずいてしまったけど、彼女が何のことを言っているのかさっぱりわからなかった。「パパのなんだけど、内緒で着てるのよ」私たちは緑の茂みと色とりどりの花が両脇に植えられている小道を歩いていた。「それで、あなたはなんでここに来たの? ママが日本人で、パパがアメリカ人? で、ママがパパに飽きて、着古した服を捨てるみたいに置いて来ちゃったのね。東京という高度に文明化された世界に戻ってきて、ママは仕事を見つけてる最中ってとこかしら?」

「ちょっと違うかな。ママがアメリカ人で、私は生まれた時からずっと、ママと二人で暮らしてきたんだけど...」私はそこで止まってしまう。ママが刑務所にいることを、この雑誌に載ってる女の子に話していいのかどうか、私にはまだその心づもりはなかった。「ママはいくつか問題を抱え込んじゃって、今大変だから、私は日本人の父親と暮らすためにここに来たの」

「あなたのパパってどんな人?」

「私にもよくわからないの。昨日初めて会ったばかりだし。私は東京に来る前は、メリーランド州から一歩も出たことなかったのよ。あ、6年生の時の遠足でバージニア州のウィリアムズバーグに行ったことはあったけど」

私はメリーランド州からどれだけ遠くに来たんだろう? 自分が今立っている場所がうまく想像できなかった。距離的にだけではなく、実感として現実味がない。

イモジェンが笑った。それから彼女は笑いを止め、こちらを見た。私がもっと何か言うのを期待している感じだ。私が黙っていると、彼女は言った。「あなた、それマジで言ってる?」

「マジよ。先週の私は、父親が誰なのかさえ知らなかったんだから」

「わお」とイモジェンが言った。衝撃的な事実を突き付けられたみたいに驚いている。「じゃあ、もしあなたがその話をもっと詳しく話したくなったら、いつでも喜んで私が聞くわ。こうしてる間にも、あなたは私の一日の始まりを救ってくれたから」

「私が救ったってどういうこと?」

「あなたをこうして案内してるから、馬鹿らしいヨガの授業に出なくて済んだのよ」

「この学校にはヨガの授業なんてあるの?」

「朝の体育のクラスをヨガにしちゃったの。ヨガって寝転がってればいいんだと思ってたから、睡眠時間が増えるって期待したんだけど、全然違った。バランスを取ったり、立ち上がったり、わけのわからない反転のポーズをいろいろさせられるの。サバサナっていって仰向けになってリラックスするポーズもあるんだけど、それは授業の最後にちょこっとやるだけで、すぐにナマステって両手を合わせて挨拶して、急いでシャワーを浴びて、次のクラスへって感じ。まったく嫌になっちゃう!」

イモジェンは英語で話してくれたんだけど、私はヨガについて詳しくないから、よくわからない単語が含まれていて、彼女が日本語で喋っているんじゃないかと一瞬錯覚しそうになった。私たちは二つの校舎に挟まれた小道を歩いていた。爽やかな青空が建物の間に映えている。小道で生徒たちとすれ違い、みんながイモジェンを敬っているのがわかった。「やあ、イモジェン!」と声をかけたり、彼女の新しい髪色やファンキーなアクセサリーについて大袈裟に褒めちぎったり、彼女が通り過ぎるまで脇にどいて道を開ける子もいた。彼女はすれ違う一人ひとりに向かって、にこやかに挨拶していた。なるほどね、と私は思った。だから彼女は人気者なんだ。

私は言った。「あなたの英語はアメリカ人っぽいアクセントだけど、アメリカに住んでたの?」

「アメリカはほんの数ヶ月よ。パパがシリコンバレーで空間芸術のプロジェクトを手掛けていた頃、家族でサンフランシスコに住んでいたんだけど、それ以外はずっと、ママの実家があるロンドンで暮らしていて、数年前に日本に来たの。専制主義的なヨーロッパより日本の方が暮らしやすいってパパが」

政治的な言葉を入れ込まれてもよくわからないけど、そう言うのならそうなんでしょう。「じゃあ、あなたのアメリカ人っぽいアクセントはどこから?」

「それはここの誰もが抱えてる共通の悩み。インターナショナルスクールに通ってるとね、アメリカ人以外の子も大体みんなアメリカのアクセントで話すから、知らずにそうなっちゃうのよ。喋り方って周りからの影響で流動的にどんどん変わるからね。たとえば、私はママと話す時はイギリスのアクセントで話しちゃうし、パパとは日本語で話してる。ただ、パパは私の喋り方がオーストラリア人っぽいって言ってからかうわ。学校ではアメリカ人っぽく聞こえるみたいだけどね」

「日本語は子供の頃から話してるの?」と私は聞いた。ロンドンから東京に引っ越してきてから日本語を学んだのだとしたら、どのくらい大変だったのかを知りたかった。

もちろん!

「は?」

「Of course!って意味よ」

授業はもう始まっていたので、校舎の外でぶらぶらしているのは私たちくらいだった。遅刻した生徒がちらほらと校舎に駆け込むのが見えた。この緑豊かな、人里離れた豪華なリゾートみたいな学校が、大都市の真ん中にあるという考えに私は心を奪われていた。―しかも、私自身がここの生徒であるという事実が信じられない。私は怖くもあった。教室に入った瞬間、生徒たちが私を見て、手の平を返すように「匂い爆弾!」と一斉攻撃を仕掛けてきたらどうしよう。私は今朝、長めにシャワーを浴びて、その後すぐに良い香りがするローションを全身に塗ってきたから、クチナシの花の香りをまき散らす天使みたいな匂いがするんだけどな。

滑らかな曲線で縁取られた3階建ての建物にたどり着いた。銀色の壁が太陽の日差しを反射している。出入口の上の日よけの部分に「高等部」と書かれていて、その文字が日光により、黄色くキラキラと輝いていた。「この建物はなんか、学校の校舎っていうより、現代アートの美術館って感じね」と私は言った。

「たしかに! ICS東京校の生徒数がぐんと増えたからね、校舎を増設しなければならなくなって、高等部の校舎を新たに造ったのよ。学校の理事会は最初、フランク・ゲーリーにデザインを頼もうとしたんだけど、予算の関係でしょうね、形だけそれっぽい校舎を建てたってわけ」

「なるほど」と私は知ったかぶりをして言った。フランク・ゲーリーって有名な宇宙船のデザイナーかしら? この校舎が今にも宇宙空間に向けて地面から飛び立って行くような形をしているから。

イモジェンが言った。「高等部のほとんどの生徒は朝の体育の授業に行ってるから、空の教室をチェックできるわ」私たちは校舎に足を踏み入れた。建物の中は、よくある学校の廊下と同じように教室とロッカーが両側に並んでいた。ただ、すべてに光沢があり、真新しく、傷一つない清潔感あふれる空間だった。イモジェンが最初の教室の扉を開けた。「ここはテクノロジーとロボット工学の実験室よ」

その教室には天井にプロジェクターが取り付けられていて、それが指し示す方向の壁には大型のスクリーンが掲げられていた。反対側の壁一面は巨大なホワイトボードになっていて、ホワイトボードを埋め尽くすようにいくつもの数式が書かれていた。両側の壁にはキャビネットが並んでいて、その一つひとつにルーター、マザーボード、メモリーカード、グラフィックカードなどと、備品の名称がラベル付けされている。教室の真ん中には大きなテーブルがあり、その周りにいくつも椅子が置かれていた。教室というより、共有空間といった趣ね。壁の空いたスペースには、ロボットや通信機器のポスターや写真が何枚も貼られ、プロジェクトの作品とともに生徒たちも写っている。

「凄いわ!」と私は叫んだ。「あなたもここでロボットを作ったことあるの?」

「私はそっち系の人じゃないから。テクノロジーの授業は退屈で、あくびが出ちゃう。あなたは美術と音楽は好きな人?」

「理論的に言って、私はどっちも苦手」

「ちょうどよかったわ。じゃあ、その二つの教室は飛ばしましょ。美術も音楽もごまかしが利かないから、気分が悪くなるのよね」

その教室を出ると、彼女に導かれて廊下を歩いていった。建物の奥まで来ると、図書室があった。壁には横長で透明な窓が並んでいて、そこから図書室の中の様子がうかがえた。「図書室の中までは案内できないわ。中で大声で喋ってたら、二週間出入り禁止をくらっちゃったの。1階には自習用の個室があって、2階には誰も読まないような本がずらっと並んでる。そして、3階には〈日本センター〉があるわ。日本について知りたいことがあったら、大体どんなことでも調べられる。吐き気がするほど世話焼きな司書さんたちが、どんな研究プロジェクトでも相談に乗ってくれるわよ」

私たちは再び外に出て、フットボール場の横を歩いていると、イモジェンが言った。「このフィールドではね、アメリカンフットボールと、サッカー、それからオーストラリア式フットボール、いわゆるフッティーもやってるわ。南オーストラリアのルールに則った正式のフッティーよ。シドニーとかクイーンズランドの人たちがやってるインディアン・ラグビーはバッタ物ね」

「でしょうね」と私は相槌を打った。私の何も知らない脳が痛み始めていた。イモジェン・カトウとこうして歩きながら会話するまで、私の脳みそがこんなにもすっからかんだったなんて、思いもしなかったわ。

ランニング用のトラックがフットボール場の周りをぐるりと縁取っていた。生徒たちがトラックに置かれたハードルを飛び越えながら走っている。それを横で見守っている一人の先生が、大声で発破をかけていた。

「もっと速く走れ!」

「もっと高く飛べ!」

「昨日より2秒遅いぞ! お前は絶対もっと速くなる、俺が言うんだから間違いない

「あの先生、なんか厳しそう」と私は言った。

「彼はトレーナーよ、学校の先生じゃないわ」

「この学校って、内部にトレーナーを入れてるの?」

「トレーナーは何人もいるわ。この陸上競技好きの、走るしか能がない子たちは、トライアスロンが専門のトレーナーに教わってるの。至れり尽くせりなのよ」

私たちと同い年くらいの二人の女の子がトラックから外れ、息を切らしながら、私たちのところに近寄ってきた。一人はインド人で、赤のメッシュが入った長い黒髪を、後頭部のところで大雑把に巻き上げている。もう一人は黒人で、コーンロウヘアーといって、髪の毛をビーズ状にして細く編み込んでいる。二人とも顔の色つやが完璧だった。彼女たちの綺麗で滑らかな肌を崇めるように見ているだけで、私の顔には条件反射でニキビが出てきそうなくらい、彼女たちは艶やかだった。イモジェンが私に言った。「エル、この子たちは、ジャンビ・カプールと、ヌトンビ・アマティラよ。二人ともEx-Brats(エックス・ブラッツ)のメンバーで、私たちは仲良しなのよね。で、こっちの子は私が今日から面倒を見てる、エル・ゾエルナーよ」

「ハイ」と二人の女の子が私を見て言った。

私は身構えてしまい、すぐには返事が出てこない。転校生が避けて通れない通過儀礼として、侮辱的な言葉を浴びせられるのではないかと予想したが、とげのある言葉が飛んでくる気配は全くない。私はなんとか「ハイ」と返した。私がどれほど話し上手な会話の達人かってことを示したかったんだけど...失敗した。

インド人の女の子、ジャンビがイモジェンに聞いた。「ラテン語の宿題やった?」

「サニークウィーデム」とイモジェンが答えた。

「それってどういう意味?」とヌトンビが聞く。

「Sane quidemは、もちろんって意味よ」とイモジェンは言ってから、私の混乱した顔を見て、「ラテン語よ」と付け加えた。

「5時間目の前にあなたの答えを写させてもらえる?」とジャンビが聞いた。

「もちろん」とイモジェンは言った。「あなたのロッカーに入れておくね」

ジャンビは言った。「ありがとう。昨夜は一晩中、微積分のテスト勉強をしてたから、ラテン語まで手が回らなかったのよ」

彼女たちの後方から、ピーッと笛の音が激しく鳴り響き、さっきのコーチが彼女たちに向かって怒鳴った。「おい、ジャンビとヌトンビ! 今は授業中だぞ、懇親会の時間じゃない。トラックに戻れ」

二人の女の子は目をくるっと回すと、私たちにさよならと言って、トラックに戻っていった。

イモジェンが私に言った。「あなたは今日、多くの先生とかスタッフ、生徒たちに会うでしょうけど、実際に重要なのは、〈エックス・ブラッツ〉のメンバーだけよ」

彼女の自信たっぷりに上からものを言う感じの態度は、怖くもあり、同時に刺激的で、私に力を与えてくれるようでもあった。

「エックス・ブラッツ? それって、つまり...あなたのグループの名前?」この学校にもステータスとか、カーストとか、派閥があって、人気のあるグループが自分たちをそう呼んでいるってことでしょう。ラテン語のグループ名もあるのかしら?

「そうよ。私のママも、今の私の年齢の時、この学校に通ってたの。ママの父親が外交官で、東京のイギリス大使館に勤めていたから。で、〈エックス・ブラッツ〉は、ママの父親が名付け親で、ICS東京校のママの友達を、『元やんちゃっ子』ってからかう感じで、そう呼んでいたんですって。それを聞いて、私のグループの名前にぴったりだと思って使ってるのよ」

「気が利いてるわね」

「でしょ?」

私たちはキャンパスの反対側まで来て、アスレチック専用の建物に入った。それぞれの部屋で体育の授業が行われていた。私たちは窓越しにそれぞれの室内を覗いていった。私がメリーランド州で通っていた学校はどこも、中央体育館が1つあるだけだったけど、この建物は、なんだか屋内フィットネスの総合施設みたい。ICS東京校はヨガ、ピラティス、ダンス、武道に熱心で、それぞれに専用のスタジオルームがあり、あらゆる設備が整ったジムまであった。ジムの中には、ウェイトリフティング、ランニングマシーン、エアロバイクなどが揃っている。さらにバスケットボールのコート、それからレスリングルームもあった。私たちは建物の反対側に出た。そこには8面のテニスコートがあり、中学生の男子たちがコートの半分を使ってテニスをしていて、もう半分で女子がプレーしていた。テニスコートの脇の歩道を歩いていたら、フェンスの内側で何人かの女の子が座って見学していて、私たちに気づいて振り向き、手を振ってきた。「ハイ、イモジェン!」と声を上げる。

「ハロー、私の可愛い後輩たち」と彼女は答え、彼女たちに向かってお辞儀をした。彼女たちもお辞儀を返した。

私たちの散策は、ようやく私の個人的な聖なる場所までたどり着いた。プールよ。私はすでにICS東京校が好きになりつつあったけれど、プールを見た瞬間、ライクがラブに変わった。もう愛おしいわ。プールは10レーンある競泳用の25メートルプールで、水面がキラキラときらめいている。懐かしい塩素の匂いを吸い込むと、全身がゾクゾクとふるえ立った。ほとんどの選手はプールサイドで、先生の前に集まって座っていた。先生が柔らかい浮き棒を手に持ち、それを足に見立てて、水面でのキックの仕方を指導している。一人だけ一番外側のレーンで泳いでいる男子がいた。彼はバタフライで泳いでいて、自信が満ち溢れるように水しぶきを上げながら、力強く水面を進んでいく。

私は今すぐプールに飛び込みたい衝動に駆られた。あちらこちらから顔を出す見知らぬ生徒たちから隠れてしまいたかった。ここの生徒は何でも知っているみたいで、私は何にも知らないから、水の中にダイブして、地上の世界から姿を消したい。

「この学校にはもっと日本人の生徒がたくさんいると思ったんだけど」と私は正直に言った。ICS東京校で今までに見かけた生徒たちの顔は、この学校の所在地がある国を反映していないという印象を受けた。

イモジェンが笑った。「そりゃそうよ! 両親がともに純粋な日本人だったら、普通は自分たちの子供を純粋な日本の学校に通わせるでしょうね」

「でも、あなたは日本人でしょ」私はかなり混乱していた。

「私のパパは日本人だけど、ママはイギリス人だからね。私はハーフなの、純粋な日本人じゃないわ。だけど、これだけは言わせて。ハーフにしろ、純粋な日本人にしろ、ICSに通ってる日本人っていうのは、両親が外国で育ったとかで、国際教育に熱心というか、世界に広く心を開いてる家庭の子供なのよ。まあ、中には両親がめちゃくちゃお金持ちで、子供に英語を学ばせたいからって通わせてる人もいるみたいだけどね」アケミがそれに当てはまるんでしょう。イモジェンはそこで話を一旦止めると、いわくありげに目を輝かせて、ここだけの話よ、みたいな感じで私の耳に顔を寄せてきた。「もしくは、両親がそっち系のこわい人っていう子もいるわ。普通の日本の学校より、ICSの方が社会的ステータスが上だと思って、子供を通わせてるみたいね」

正直に言って、ハーバードの大学院を出たエミコがまとめてくれた分厚いバインダーよりも、イモジェンとの1時間の会話の方が、日本について多くのことを学べたわ。それから、気になって仕方がなかった言葉について聞いた。「そっち系って?」

ヤクザ

「ヤクザって何?」

何?じゃなくて、誰?ね。リッチな暮らしをしていて、豪華なオフィスを所有してるギャングよ」私はクスクスと笑ってしまった。イモジェンは本当におかしなことを言う人ね。それとも、聞いてる私の方が浮かれておかしくなってるのかしら? それから、彼女は言った。「冗談じゃないのよ。あの男子のパパも、そっち系だから」イモジェンはプールの一番向こう側のレーンで、一人バタフライで水を搔き分けている男子を指差した。彼がプールの端でターンをして、空中に顔を出したところで、あ、と私は思った。リュウ・キムラだった。さっき私が車から降りようとして、誤ってドアをぶつけてしまった男子だわ。

「彼って、凄くいい選手ね」と私は彼の泳ぎの感想を言った。

「あいつにはかかわらない方がいいわ。彼はウザイから」

「ウザイって何?」ウザイって、見事な上腕二頭筋を持つ、ギャングのたくましい息子って意味かしら?

「うっとうしくて、イラつくって意味よ。リュウはアラベラ・アコスタと付き合ってたのよ。アラベラは私の親友だったんだけど、彼に振られた後、精神的に滅入っちゃって、静養するためにボリビアに帰っちゃったの。可哀想に、彼に心を壊されちゃったのね。彼女があのむっつり野郎の中に何を見たのかまでは私にはわからない。だけど、アラベラが〈エックス・ブラッツ〉を抜けてからは、グループのメンバーはみんな彼を冷ややかな目で見て、かかわらないようにしてるわ」

「彼って激しい人なのかしらね」と私は言った。相乗りの降り口で私をにらみつけてきた彼の顔を思い出しながら、まっすぐな意志を持ったように水面を突き進む彼の泳ぎを眺めていた。

「リュウはおそらく社会病質者よ。将来、反社会的なことをしでかして、ニュースの見出しに名前が出るわ」



チャプター 10


Sane quidem(もちろん)、イモジェンがそれほどまでに忌み嫌っている、いわば宿敵が、彼女の科学実験のパートナーでもあると知って、私は目を丸くして驚いてしまう。

「もちろん、私が選んだわけじゃないのよ」とイモジェンが2時間目の環境科学のクラスへ向かいながら言った。私は今日は彼女のスケジュールに合わせて行動することになっている。彼女は成績優秀者向けの環境科学のクラスに入っているらしい。「ラボパートナーは自分では選べないことになってるの。なんて言うか、ほら、そういうのって政治的な選択でしょ」

「パートナーを替えてもらうことはできるの?」と私は聞いた。私は実験室の二人用のテーブルに一人ぽつんと座っているリュウ・キムラをじろじろ見てしまう。二人用のテーブルといっても、幅広の椅子が一つしかなく、二人で並んで座るらしい。1学期中ずっと毎日のように、軽蔑してる人と一つの椅子をシェアするなんて、私には信じられない。

イモジェンが言った。「彼は実際、賢いから役立つのよ。ラボパートナーとしては本当に有能よ。私たちは教室では休戦協定を結んでるの。ビジネスってことね。私としては、この科学の成績もAを取りたいわけよ。彼がラボパートナーだと、Aを取れる可能性がかなり高くなるから」

「なるほど」私は彼女の明快な論理を聞きながら、胸の高鳴りを覚えた。私が通っていたメリーランド州の学校では、私が真面目に勉強しようとすると、からかわれた。でもここでは、学生は真面目に学問に打ち込むもので、それを誇りに思っているみたいだ。

私たちは研究室のテーブルに近づき、イモジェンは折りたたみ式の椅子を持ってきて、テーブルの横に置いた。イモジェンはその椅子に腰を下ろすと、リュウ・キムラに言った。「ハイ、ラボパートナーくん、この子はエルっていって、私が案内役をやってるの。今日はエルが私の代わりに、あなたの隣に座るから、おならは我慢してちょうだい。彼女にちょっかい出しちゃだめよ」

リュウが言った。「今朝は大豆入りのブリトーを食ったからな、どんな匂いがするかな」彼は視線を落として、私との間にわずかしかない隙間を見遣ってから、視線を上げ、私を見つめてきた。「幸運を祈るよ」

彼の瞳は茶色味が強く、まつげは黒くて濃かった。モップみたいにもっさりした黒髪には青のメッシュが入っている。髪はまだ濡れていて、塩素の匂いが立ち込め、私は大好きな匂いにやられ、うっとりと気を失いそうになる。私はアラベラの心がなぜ壊れたのかわかった気がした。こんなにゴージャスで、影がある感じの男の子に振られたら、そうなっても不思議じゃないわ。

科学の先生が私たちのテーブルまでやって来た。背が高く、髪はブロンドヘアーの細身で、気取った感じの男性だった。その容姿は、アイオワのトウモロコシ畑ですくすくと伸びるトウモロコシを思わせた。「君がエルだね?」と彼は言うと、私に向かって手を差し出してきた。私は彼の手を握る。「私はジム。高等部で科学を教えてる。君の通常のスケジュールでは、このクラスには参加しないみたいだけど、来週から5時間目の海洋科学で、君に教えることになるよ。海洋科学はきっと君も気に入るぞ! 今はザトウクジラの繁殖行動について勉強してるんだ。授業中に水中カメラの映像を見せるけど、クジラは巨体を揺らして、オスとメスがかなり激しくじゃれ合ってる!」

私は自分の顔が恐ろしく真っ赤になるのを感じた。オスとメスが交わるとか、リュウ・キムラがすぐ隣にいる席で、クジラの交尾の話は聞きたくなかった。

「すごいですね」と、私は全く興味ない感じでつぶやいた。

ジムは私に一枚のプリントを手渡した。「これは、このアドバイス環境科学のシラバスだから、このクラスでどんなことをやっているのかが、ざっと書いてある。気に入ったら、次の学期で取るといい。ICS東京校へようこそ!」それからジムは授業を始めるために教室の前へ戻った。

リュウが私に言った。「今日は、気候変動によるバイオーム分析に取り組むんだ。地球上の環境によって生態系が違うからね。面白いよ、きっと君も好きになるんじゃないか」どういう風の吹き回し? 今朝、相乗りの降り口では私に嚙みついてきたくせに、急に優しくなっちゃって。

「彼女を口説こうとしないで」とイモジェンがリュウに警告口調で言った。(え? 彼は私を口説いてるの?)「エルは私の担当だし、個人的に親しい仲なんだから、手を引きなさい

「俺は口説こうとなんかしてないよ」と彼は答えた。憤っている感じはなく、淡々と事実を述べただけといった様子で、イモジェンの発言に動じている素振りは全く見受けられない。彼はお尻をイモジェンが座っている即席の椅子の方へずらすと、彼女に向かってガスを放った。

おならは不快だったが、私は思わず笑ってしまう。

「あんたって最低ね」とイモジェンが彼に言った。

「ゴザイマース」とリュウは返した。

ジムが声を張り上げてみんなを黙らせ、授業が始まった。彼が講義をしている間、私は私自身のスケジュール表を初めて見た。今朝、クロエ・レーラーにもらったものよ。まず、選択の体育は水泳ね。それから、代数2(三角法)、スペイン語(私はメリーランド州の学校でも選択でスペイン語を取っていたから合わせてくれたのね)、海洋科学、英語11、自由研究の時間、そしてデザイン・アート。私のスケジュールには、成績優秀者向けのアドバイスクラスは一つもなかった。イモジェンが受けてる授業は、ほとんどがアドバイスクラスだった。私はこの国に来たばかりだから、あまり負担をかけないように、という配慮で易しめのスケジュールを組んでくれたんでしょうけど、いつまでも進度がゆっくりなクラスに留まってるつもりはないわ。ここでは猛烈に勉強を頑張るんだから。

それから私は、目の前で行われているアドバイス環境科学のシラバスをちらっと見て、一瞬でやる気がそがれてしまう。このクラスで課される作業量は、膨大だった! 専門用語みたいな難しい英単語が散りばめられていて、半分も意味がわからない。一瞬ラテン語か日本語で書かれているんじゃないかと思い、目を丸くした。私は教室をぐるりと見回して、生徒たちの様子を観察した。退屈そうな人は一人もいないし、スマホをいじってる人もいない。みんな真剣なまなざしで、ジムに注目している。ジムが話していることに心底興味があるみたいで、生徒たちの熱意が教室に充満している。私がメリーランド州で通ったどの学校にも、こんなにエネルギーが満ちた空気感はなかった。

まだ授業が始まって5分しか経っていないというのに、私はもう疲れてしまった。こんなところで、どうやって勉強に追いつけっていうの? いきなり打ちのめされたって感じ。それとも時差ボケかしら? きっと両方ね。

頭がぼんやりしてきて、体が重く、ぐったりと疲れがのしかかってくる。一瞬気持ち良くなって、まぶたが重くなり、ふっと意識が遠のく。気づくと体が横に傾いていて、危なかった、と頭を振る。しかし、眠気の襲来に抗えるだけのエネルギーは残されていなかった。

数分もしないうちに、私はリュウ・キムラの肩の上で眠り込んでいた。



チャプター 11


噓じゃないのよ!」とイモジェンがランチを食べながら、〈エックス・ブラッツ〉のメンバーに向かってまくし立てた。「エルちゃんがリュウ・キムラの肩に寄りかかって寝ちゃったの、直接よ!

ジャンビとヌトンビは可笑しくて仕方ない様子で笑い続けている。私には何がそんなに可笑しいのかわからない。私のことをあわれんでいるのか、それとも単にその状況が面白いのか、私には全然面白い状況だとは思えない。私はこれ以上ないってくらい恥ずかしい思いをしたから。

「それで彼はどうしたの?」とジャンビが聞いた。

「彼はそっと彼女を寝かせておいたわ!」とイモジェンが言った。「そのまま10分くらい彼に寄り添うように寝てたんだけど、ジムが気づいて近寄ってきて、軽くトントンって叩いて起こしたの」

「どうしてあなたは彼女を起こさなかったの?」とヌトンビがイモジェンに聞いた。(それ、私も思った!)

イモジェンが答える。「彼女の寝顔がとっても可愛かったから、すごく気持ち良さそうに寝てたのよ。それに、私はリュウの困った表情を見るのが大好きなの。彼はどうしたらいいかわからないって感じで、もじもじしてたわ」

「ああ、心外だわ。恥ずかしい」と私は言った。

「そんなに恥ずかしがらないで」とイモジェンが言った。「ここの生徒たちはみんな、どこかのタイミングで時差ボケに襲われるのよ。周りを見れば誰かしら、机に突っ伏して寝てるわ」

「ただ、リュウ・キムラの肩の上で寝てる子はそうそういないわね」と、ジャンビはまだ笑っている。その横でヌトンビがオエッと嫌悪感を表す表情をした。

私が可笑しいと思ったのは、中庭のテラス席で、人気の女子たちのグループに私が普通に溶け込んで座っていることだった。こんなのいつものことよ、みたいな雰囲気で馴染んでいる。たまたまイモジェンが案内役をしてくれたおかげで、新生エルは、即席の人気者になれた。数日前までのエルにはあり得ないことで、その奇跡を思うと、リュウ・キムラの肩で寝ちゃったことくらい、なんてことないと思えた。

ヌトンビは、さっきから気もそぞろといった感じで、イモジェンの話に半分耳を傾けながら、手元でスマホをいじっている。すると突然、彼女が甲高い声を上げた。「ルークの両親が今週末、東京に来るわ。彼も一緒よ。両親を説得して、OKが出たんですって!」彼女の手首にはジャラジャラといくつかのブレスレットが巻かれ、コーンロウヘアーの毛先にはたくさんのビーズもついていて、彼女が動くたびに、それらの金属が絶妙なコーラス音を鳴らし、彼女の周りに魅惑的な雰囲気を醸し出す。

イモジェンが説明してくれた。「ヌトンビのママはナミビアの大使として日本に住んでるの。前は韓国のナミビア大使館で働いてたのよ。その時に彼女はルークと知り合ったの。彼女のボーイフレンドで、ICSのソウル校に通ってる。ヌトンビも去年まではソウルにいたのよね」イモジェンはヌトンビの方を向いた。「あなたはボーイフレンドが同じ街に来たとたん、女子の友達のことは忘れちゃうような子たちの仲間入りをする気?」

「そりゃね、私もそうなっちゃうわ」とヌトンビは言って、楽しそうな笑顔でスマホに視線を落とし、指を動かす。

「今週末はフィールドホッケーの試合よ。対戦相手はブリティッシュ・インターナショナル・スクール、わかってるでしょ?」とジャンビがヌトンビに言った。「あなた、まさかすっぽかさないでしょうね?」

ヌトンビは肩をすくめた。「すっぽかすかもしれない!」

「ちょっと、冗談はやめてよ」とジャンビが言う。

「私はあなたみたいに、フィールドホッケーに情熱を燃やしてないの」とヌトンビが言い返す。

ジャンビは言った。「ああ、これじゃあ、サン・パオロの時と同じじゃない。私たちのチームはリーグ戦優勝に向けて順調に突き進んでいたのに、キャプテンのサン・パオロが、大して有名でもないサッカー選手と付き合い始めちゃって、それから負け続きよ」

「サンパウロは、彼氏のことで頭がいっぱいで、試合に集中できなかったの?」と私はジャンビに聞いた。

ジャンビは混乱したような表情を浮かべた。「サンパウロじゃなくて、サン・パオロよ。サンパウロは私が住んでた都市の名前」

「そうね」と私は、そんなこと知ってるわ、と言う感じで言った。「いつサンパウロに住んでたの?」

「リスボンに住む前ね、ベイルートの後よ」

「わお、あなたっていろんな場所で暮らしてきたのね! あなたの親って軍隊の人?」

ジャンビは鼻で笑い飛ばしたけど、私には、自分の親が軍隊で働いてるってほのめかされて気を悪くする人の気持ちがわからない。レジーのパパも軍人だったし、名誉ある立派な仕事なのに。「いいえ、私のパパはエンジニアよ。入隊はしてないわ。軍隊って志願して入るものでしょ。パパの場合、世界中の大企業がパパに依頼するの。パパは高層ビルの設計をしてるのよ。一つのビルが完成したら、次の都市に家族で引っ越すの。その繰り返しだけど、東京は今までで最高の都市だから、ずっとここにいたいわ。東京の新しいビルが完成しても、私はここに残ろうかしら

「その時は私の家に住んでもいいわよ」とイモジェンが彼女に言った。

「ありがとう、ジョーシ」とジャンビが言った。「大好きよ。でも、あなたはフィールドホッケーのチームには入ってくれないけどね」

イモジェンが返した。「週末は空手のトレーナーに空手を習ってるのよ。それに、フィールドホッケーのスティックって、原始人がマンモスを倒す時に使うやつみたいなんだもん」

ヌトンビが言った。「アラベラがボリビアに帰っちゃったとき、センパイがアラベラのポジションに入ってくれれば良かったんだけどな。アラベラが抜けて、チームの攻撃力が一気に下がっちゃったから」

「ジョーシって誰?」と私は聞いた。私たちのテーブルに誰かが新しく加わったのかと思って、キョロキョロ辺りを見回してしまう。

ヌトンビはスマホのメッセージを見たまま顔を上げずに、イモジェンを指差した。「ジョーシ(上司)は日本語で、ボスとか、リーダーって意味よ」

あなたはどこ出身なの?」とジャンビが私に聞いた。

「ワシントンDCよ」と私は答えた。メリーランド州って言うより、ワシントンDCの方が世界的に名前が通ってると思ったから。

「世界で最も退屈な都市ね」とジャンビが言った。「だけど、全米を制覇したフィールドホッケーチームは、メリーランド州の高校が多いのよね」そっちか、メリーランド州出身って言っておくべきだったわ。

「ICSのワシントン校に通ってたの?」とヌトンビが私に聞いた。

私は首を横に振った。

ジャンビが聞いてきた。「じゃあ、シドウェル高校? ジョージタウン寄宿学校? それとも、ホルトン・アームス女子校? サン・パオロの転校先だから、彼女経由でフィールドホッケーをしてる友達がいるのよ」

それらの学校に私のことを聞ける友達がいるのなら、話を合わせて嘘をついてもばれてしまう。私は言った。「テンプルパーク...寄宿学校」本当は公立のテンプルパーク高校なんだけど、ちょっと変えて寄宿学校って言った方が、私立の名門校っぽく聞こえると思った。

「聞いたことないわね。どうしてここに来たの?」とジャンビが聞く。

「父と一緒に暮らすために来たの。彼は東京のタック・ラグゼっていう建物のオーナーだから」

ついに...ついに...今までとんちんかんなことしか言えなかったけど、ついに、彼女たちの胸に響くことを言えた感があった。一目置かれるというか、私の株が急上昇したというか、彼女たちが一瞬きょとんとしたのがわかった。「なかなか悪くないじゃない」とジャンビが言った。「パパが、タック・ラグゼは東京で最も素晴らしい建物の一つだって言ってたわ」

「私、タック・ラグゼに入ってるレストランで食事したことがある」とヌトンビが言った。「あそこからの眺めは、めっちゃ良かった」

イモジェンが言った。「私たちはそのうち、タック・ラグゼで豪華なパーティーを開けるわね。エルちゃんを〈エックス・ブラッツ〉に入れようと思うんだけど、どうかしら? 私はもちろん賛成に票を投じるわ。みんなも賛成ね?」ヌトンビもジャンビも、答えなかった。「よし、可決! さあ、ランチを食べましょ」

そこは今まで見てきたICS東京校の他の施設と比べても、何の遜色もないほど立派な食堂で、素敵なレストランのビュッフェみたいだった。安っぽいハンバーガーや生ぬるいポテト類は一切なく、ビュッフェコーナーには、チキン、魚、豆腐、野菜などの健康的で、見るからに美味しそうなお惣菜が並んでいた。豪勢なサラダバーと、エスプレッソが出てくる機械もある。私の今日のランチは、昨日新たに大好物になったばかりの、ボウルに入った熱いラーメンにした。タック・ラグゼのルームサービスほどではなかったけれど、それでも満足できるくらい十分に美味しかった。私はずるずるとラーメンをすすり続けていたので、口の中はずっと麺でいっぱいの状態だった。喋ることもままならなかったけど、下手に喋るよりも、もぐもぐしていた方が、タック・ラグゼの新たな住人という一撃必殺のステータスをまとったまま、教養の無さをひけらかさずに済むかもしれない。

〈エックス・ブラッツ〉の女の子たちはみんな、お揃いの容器を持っていた。―チョコレートの箱と同じくらいの大きさの長方形の容器で、中にはプラスチックの赤い仕切りがあり、お寿司、天ぷら、ご飯、餃子などが綺麗に区分けされ入れてあった。普段のランチというより、華やかに飾り立てた贈り物みたいだった。このまま黙っていた方がいいと警告する自分もいたが、好奇心が勝った。私はどうしても知りたくて聞いた。「ねえ、みんなは何を食べてるの?」

コンビニ弁当よ」とイモジェンが答えた。「コンビニエンスストアで買ったお弁当」

「ICSの食堂で買うより、コンビニ弁当の方が格段に安いのよ」とジャンビは言うと、お寿司と枝豆が隙間なく綺麗に詰められた容器から、箸でお寿司をつまんで口に運んだ。

いただきます!」とイモジェンが言って、餃子を口に近づけたところで、その日本語を私のために説明してくれた。「フランス語だとbon appétitに当たる言葉よ。美味しく召し上がれってこと」

「それで、あなたのママはどこにいるの?」とヌトンビが私に聞いた。

別れちゃった、とか?」とジャンビも聞いてきた。

「彼女は、更生施設にいる」と私は露骨な表現を避けて、無難な名称で答えた。その話はしたくなかったけれど、嘘をついても無駄だろうと感じた。この子たちはありとあらゆることを知ってるみたいだし、今隠しても、そのうち暴き出されてしまうでしょう。それなら最初から自分で本当のことを言っちゃった方が、人間関係も良くなると思った。

彼女たちは声を上げて笑い出した。

「またまた、エルちゃんったら、そんな子供じみた冗談言って」とイモジェンが言う。

「本当のことよ」と私は返した。彼女たちの顔にショックの色が浮かぶ。「っていっても殺人を犯したとかじゃないわ。ドラッグ」

「わお」と、〈エックス・ブラッツ〉のみんなが一斉に大声を上げた。そこで不思議な感覚があった。ヌトンビとジャンビの私に対する視線というか、私に向けられるエネルギーの質が変化したのだ。この二人は私にずっと素っ気ない感じだったのに、急に...私に恐れおののいたのが伝わってきた。

「それって辛いことだけど、凄くかっこいいわね」とイモジェンが言った。

「あのドラマみたいじゃない? ほら、女子刑務所を舞台にした『オレンジ・イズ・ニュー・ブラック』」とジャンビが言う。

「あのドラマ、超好き」とヌトンビが続く。

私は刑務所に母に会いに一度行っただけだけど、かっこいいなんて全然感じなかったわ、と言いそびれてしまった。テレビより100万倍簡素で味気ない感じだった。その時、二人の下級生が〈エックス・ブラッツ〉のテーブルに近づいてきた。―学年によって制服のチェック柄が微妙に異なっているので、その二人は中学1年生だとわかった。―彼女たちが差し出してきたランチボックスには、さまざまな種類のキットカットがいっぱい入っている。

「いらっしゃい。今日の交換は何にする?」とイモジェンが二人に聞いた。

片方の女の子が言った。「今日はジンジャーエール味と醤油味がありますよ」

イモジェンがランチボックスの中を探るように調べている。「面白いじゃない。ジンジャーエール味なんて珍しい」

「それにしましょう、ジョーシ」とジャンビが言った。

イモジェンが二人の女の子に言う。「じゃあ、そのジンジャーエール味と醤油味の2つと、私の小豆味を2つ交換しましょう。お互い2つずつね

数は同じでも、味が2種類と1種類では不公平な取引に思えたけれど、その下級生は自ら進んで4つもキットカットをイモジェンに手渡した。イモジェンはリュックサックに手をつっこむと、底の方で潰れていた小豆味のキットカットを2つ引っ張り出して、お返しに差し出した。中学1年生の二人は、キャーと興奮した声を上げ、バラバラに砕けているはずのキットカットを持って走り去った。

「世話が焼ける子たちね」とイモジェンが言った。

「なんで彼女たちはこんな交換をするの?」と私は聞いた。

ヌトンビが、あんたってほんと馬鹿ね、みたいな視線を私に向けてくる。ジャンビが説明してくれた。「〈エックス・ブラッツ〉のメンバーからもらった物はね、みんなに自慢できるから、すごく貴重なのよ。特に中学1年生にとっては、私たちは憧れの的なの」

イモジェンは私たちに一つずつキットカットを配りながら言った。「私はまだ醤油味を食べたことがないから、超楽しみ」

ジャンビが言った。「先週、豆腐味を食べたけど、甘くて激ウマだったわ

ヌトンビが続いた。「いい交換をしたわね、ジョーシ。小豆味は激マズだから」

イモジェンが私に聞いてくる。「私は醬油味にするけど、エルちゃんはどの味を食べたい?」名前の後ろに「ちゃん」をつけるのは、親しみを込めた愛称だと知っていた。そういえば、タック・ラグゼのスタッフが、マサおじさんのことを「アラキさん」と呼んでいた。「さん」は敬意を表すらしい。私はまだ日本に来て間もないけど、日本式の呼び方にも慣れないと。それから、このグループの気取った感じの言葉遣いにも。

私はどれを選んだらいいのかわからなかった。そもそも、キットカットにこれほど多くの興味をそそる味の種類があったなんて、想像もしていなかった。どれも、食べてみるのが怖い気もする。「ジンジャーエールにしようかな?」

イモジェンが私にジンジャーエール味のキットカットを手渡した。私はそれを開封して、かじってみる。すると、口の中で甘さと苦味が同時にスパーンと、破裂した。「どう?」とヌトンビが聞いてくる。

「びっくり、激ウマ」と私は嚙みながら言った。「ソーダ感より、ジンジャー感が強いわね」

「ちょっと席を詰めて」と、二人の男子が私たちのベンチの両端に座ってきた。二人ともスポーツをやってそうな見た目で、―細身でありながら筋肉もついてそうで、名門私立校のお坊ちゃんって感じの髪型をしていた。二人はコンビニで買ってきたらしいお弁当、いわゆるコンビニ弁当をテーブルに置いた。

「その新人さんは誰?」と、黒髪でオリーブ色の肌の男子が聞いた。清潔感のある髪型で、昔ながらのイケメンって感じだ。ラルフローレンの広告からそのまま出てきたみたい。

イモジェンが答えた。「エルちゃんよ。今日ICSに来たばかりだけど、彼女も仲間に入れることにしたの。だって私たちって寛大だし、人を見る目もあるじゃない。彼女のパパはタック・ラグゼのオーナーなのよ」

「いいじゃん」と彼は、慣れてる感じで言った。なんかしょっちゅう、きらびやかな高級ホテルのオーナーの娘に会ってるような物言いね。「俺はオスカー・アコスタ。よろしく」

「週末の遠征の時、あの子に会った? みんな心配してるんだから」とジャンビが彼に聞いた。

オスカーは言った。「いや、アラベラは試合を見に来なかったよ。まだ引きずってて、あいつのことが頭から離れないみたいだな」そう言うと、彼は頭の向きを変えた。視線の先には、リュウ・キムラが一人で中庭の木の下に腰を下ろし、食堂のビュッフェコーナーで売っていたおにぎりを食べながら、村上春樹の小説を読んでいた。―よく見ると、フランス語版みたいだ。〈エックス・ブラッツ〉の面々は、ニヤニヤしながら彼の様子を眺めている。彼はほんの少しの間、顔を上げ、辺りを見渡し、私たちの視線に気づいた。しかし何事もなかったかのように、彼は本に視線を戻してしまう。見られていても全然気にしていないみたいだ。私は、凄い、と思い、彼のその精神力に尊敬すら覚えた。

イモジェンが私に言った。「オスカーとアラベラは双子なのよ」

「じゃあ、週末にボリビアに帰ったの?」と私は彼に聞いた。そんなに世界を飛び回って、この人たちはいったい何者なの?

「もちろん帰ってないよ」とオスカーが答える。

もう一人の男子が私に説明してくれた。「俺たちはブエノスアイレスに行ったんだ。ポロの遠征試合でね。はじめまして、俺はニック」

「はじめまして、ニック」と私は言った。ニックは気取った感じのイケメンで、ハッとするような青い瞳をしていた。斜めにカットした黒髪を揺らし、ウェイトリフティングの選手みたいな筋肉隆々の体をしている。

「ねえ、エルさん」とニックは言って、色っぽい目つきで私に微笑みかけてきた。「君って可愛いね」

「まだ早いわよ、ニック」とイモジェンが言った。「彼女はまだ来たばっかりよ」他のみんなが笑い声を上げた。

「あなたたち、午前中どこにいたの?」とジャンビが二人の男子に聞いた。「国際関係の授業にいなかったじゃない」

オスカーは言った。「飛行機の到着が遅れたんだよ。嵐でブエノスアイレスからの出発が遅れたから」彼の英語のアクセントは、アメリカ寄りではあったけど、どことなくイギリス英語とスペイン語のアクセントも混じっているように聞こえた。

「民間の飛行機に乗ったの?」とヌトンビが二人に聞く。

「そうとも言える!」とニックが答える。「ズホノフ・エアー」

私以外の〈エックス・ブラッツ〉のメンバーが、また一斉に笑った。私は一人取り残されたように、混乱してしまう。今のところ、ちっとも会話についていけていない。もしかしたら彼らはずっと、私を抜け者にするために日本語で話していたのかしら?

イモジェンが、きょとんとしている私に助け舟を出してくれた。「ズホノフのプライベートジェットって意味よ。彼の家が所有している飛行機。彼のパパは、アレクセイ・ズホノフなの」

突然、シャル・カトウの娘さんと仲良くしていることが、ごく普通の日常に思えてきた。キットカットにあんなにたくさんの種類があるなんて知らなかったけど、全然洗練されてないポンコツの田舎娘のこの私でも、アレクセイ・ズホノフのことは聞いたことがあった。彼は世界中のほぼすべてのスマホとかの通信機器で使われているらしい、最新のマイクロチップを開発した人だ。そういえばついこの前、エミコ・カツラが空港のラウンジで、私にフライト中読ませようと差し出してきたハーバード・ビジネススクールの雑誌の表紙に、彼の顔写真が載っていた。

「あなたのボディーガードも世界中を飛び回って大変ね。あなたの周りの人たちはみんな、時差ぼけなんじゃない?」とヌトンビがニックをからかった。「もしかして学校にも黒衣たちを引き連れてきたとか? それとも彼らは、今日は久しぶりの休日かしら?」

「実に面白い考察だね、全然笑えないけど」とニックが返した。「俺は第三世界の発展途上国を旅行する時は別として、それ以外ではボディーガードを引き連れてないよ。ウクライナに行った時も、俺とママとパパが自家用ジェットから降りた後は、彼らは飛行機を降りずに待機していたくらいだし」それからニックは私を潤んだ瞳で見つめてきて、言った。「でも、俺はいつの日か、君のボディーガードになるよ、新人さん」

「黙れ、この女ったらしのキモい変態!」とイモジェンが言った。

「君のことも愛してるよ、ジョーシさん」とニックはイモジェンに言うと、彼女のすきをつくようにサッと、彼女の弁当箱から餃子を素手でつかんで口に入れた。イモジェンは「ちょっと」と言って、じゃれ合うように彼の手をはたく。

他のテーブルを見回してみると、近くのテーブルでアケミが熱心に勉強していた。彼女のテーブルに座っている他の子たちは、彼女に無関心といった様子だ。なんだか彼女が寂しそうに見え、今朝車の中で彼女が、「人気のある子たちは私に話しかけてこないし」と言っていたのを思い出した。「あそこにいるアケミっていう子は私の友達なの。私たちのテーブルに招いてあげましょうよ」と私は提案して、こう付け加えた。「彼女は私と同じところに住んでるの」彼女もタック・ラグゼに住んでるとわかれば、ブラッツのメンバーに入りやすくなるかもしれない。

ブラッツの子たちは、何を言ってくれちゃってるの? みたいな怪訝な視線を送り合っている。イモジェンが言った。「ここは第三世界じゃないんだから、人道主義の精神を発揮して行動しなくてもいいのよ、エルさん」



チャプター 12


私もママと同じように囚人として収監されたの? とはいえ、設備の充実度はかなり違うから、不思議な気分になってしまう。

放課後、新しいMacBookを使って、Gチャットに早くアクセスしたくて、うずうずしてくる。レジーはGチャットを開いているかしら? ICS東京校での初日を終え、新居のペントハウスに戻ると、エミコ・カツラが待っていた。私に話があるらしい。

ここがママと暮らしていた家だったら、と想像した。野獣に出会う前のママだったら、きっと仕事を休んで、私が初日を終えて校舎から出てくるのを待っていてくれただろう。そして、私を乗せて車で家に帰ったら、ホットココアと焼きたてのクッキーを出してくれる。私はそれを食べながら、新しい先生や、クラスの他の子たちや、どんなことを勉強するかについて話すんだ。私は今すぐ、ママに電話したい気持ちに駆られた。イモジェン・カトウのことや、ラップトップパソコンを自由に使えることも話したいし、それから、成績優秀者向けの環境科学の授業中に、隣の男子の肩の上で寝ちゃったことも、「彼って無愛想だけど、セクシーなの」と笑って言いたい。私はママができるだけ早く仮釈放されることを強く望んだ。今この瞬間にママが何をしているのかはわからないけれど、どんな作業をしているとしても、きっと彼女は模範的にこなしているはずだわ。本来はそういう人なんだから。

ケンジ・タカハラは私の一日について、親として一目散に知りたいという好奇心はないのだろうか、代わりに彼のアシスタントであるエミコが、ビジネス口調で話しかけてきた。「今からあなたにタック・ラグゼを案内します。さあ、行きましょう」

「今日はこれから自分のことをやりたいの」と私は言った。

エミコは首を横に振った。「自由時間は後で取れるから、今はスケジュール通りに行動してちょうだい。タカハラさんが、この建物の仕組みをあなたに教えてほしいと言ってるのよ」

「じゃあ、彼が自分で教えればいいじゃない」と私は言った。いったい何なの? 彼が私を招き入れたんでしょ。それなのに、なんてひどい、親なの。

「時間があれば、彼はきっとそうするわ」

「全然時間ないの?」

エミコの完璧に整った顔に、私の心を覗き込むような表情が浮かび上がった。「そうよ。やっと理解したようね」

私はレジーとチャットしたかったし、寝室の整理も始めたかったんだけど、ここで口論しても無意味だとわかった。それに、タック・ラグゼを探索して回るっていうのも、興味をそそられた。私は物分かりの良い模範囚のように、監視官の後についていった。人類史上類を見ない高級でおしゃれな刑務所巡りが始まる。

タック・ラグゼは空に浮かぶ独立した小さな街のようだった。私たちは50階からスタートした。制服を着た従業員、ビジネスマン、洗練された服装の旅行者や居住者たちがせわしなく行き来している。エミコの説明によると、下の方の階(36階〜45階)はホテルになっていて、上の方の階(46階〜49階)には、私が引っ越してきた部屋みたいな、居住者用のプライベート空間がいくつもあるそうだ。そして、タック・ラグゼの最上階(50階~55階)には、レストラン、クラブ、スパなどの施設が入っているらしい。

エミコが最初に案内してくれたのは、50階の〈生け花カフェ〉だった。そこは24時間営業のレストランで、中央には巨大な生け花が飾ってあり、窓の外には、鳥が街を見下ろしているかのような、東京の絶景が広がっていた。ビュッフェコーナーには、今まで見たことがないほどぜいたくを尽くした料理が並んでいた。保温トレイに、繊細で美味しそうな牛肉や魚の料理、野菜のソテー、餃子、ポテト、パスタなどがこんもりと盛ってある。麵類のコーナーを見れば、シェフがひたむきにラーメンとうどんのスープを作っている。お客さんの注文に合わせてスープの味を調整し、そこに、お肉や豆腐や野菜を盛り込んでいる。本格的なサラダバーもあって、瑞々しい生野菜を提供していた。果物コーナーには、刻んだフルーツと並んで、多種多様なチーズやクラッカーもきちんと揃えて置かれていた。極めつけは、デザートステーションでひときわ目を引くチョコレート・ファウンテンだった。噴水のようにとろとろのチョコレートが、見るからに甘そうな光沢を放ち、3段になっている滝から流れ落ちている。その横では、自家製のクッキーやペストリー類がずらりと並び、艶めき立つチョコレートに浸させるのを今か今かと待っているようだ。

レストランは、さまざまな年齢や国籍の人々で賑わっていた。広々とした空間では、ざっと耳にしただけで十以上の異なる言語が話されているようだった。大体みんな、エミコと同じようにビジネス風の洗練された服を着ていて、私だけ学校の制服姿だったから、なんだか場違いに感じた。言語に関しても一人だけ取り残されたようで、誰が何語を話しているのか、私の知識では区別がつかない。フランス語、日本語、韓国語、アラビア語、それから妖精語も飛び交ってるのかしら?

「あのエッフェル塔っぽいのは何?」私たちは〈生け花カフェ〉の最奥まで来ていた。私は窓の向こう側、近距離のところに建っている先の尖った赤と白の塔を指差した。私たちの目の前には遠くまで街が広がっている。せっかく隣にハーバードの大学院を出たアシスタントがいるのだから、この景色の素晴らしさを解説してもらった方がいいかもしれないわね。私はガラス瓶の内側に永遠に閉じ込められたように窓の外を眺めながら、思う。こんなに居心地いい場所、一旦入ったら、もう抜け出せなくなりそうだわ。誰だってそうなっちゃうでしょ?

エミコが言った。「あれは東京タワーよ。テレビ塔として建てられたんだけど、展望台もあって、観光名所にもなってるの」

「遠くに見えるあの山は見覚えがあるわ」

「あれが富士山。日本を最も象徴している場所の1つね。日本のアート作品には必ずと言っていいくらい富士山が描かれているから、見覚えあるわよね。日本で最も誇れるシンボル的な存在ね。今日は眺めがいいわ。曇ってたり、あっち側に雲がかかってたりすると、富士山は全く見えないのよ」

「あそこの明るい光が密集した場所は何?」遠くに緑の公園が見え、その向こうに、ネオンサインが集まったような場所があった。高い建物がいくつも建っていて、どの建物も横一面がホログラフィック広告になっているようだ。音声はないのかもしれないけど、カラフルな映像が絶えず流れている。

「あそこが渋谷で、その向こうが新宿よ。ニューヨークのタイムズスクエアって見たことある?」

「テレビでなら、あるわ」

「あの辺りは、タイムズスクエアっぽいわね。たくさんの明るいライトがキラキラ光っていて、凄くせわしい街よ。本当にせわしなく人々が行き交ってる。通りに人々が詰め込まれたみたいな混雑ぶりよ」

彼女は窓から振り返ると、部屋の中央に飾られている巨大な生け花の方へ歩き出した。

「タック・ラグゼって、建てられてから大体どのくらい?」と私は彼女の後を追いながら、聞いた。「何もかもがピカピカだし、真新しいビルって感じ」

「そうね、真新しいビルよ。この場所にこれが建ってから、まだ1年くらい。クアラルンプールと、シンガポールと、それから上海にもタック・ラグゼのビルはあるけど、ここがタカハラ家にとって、要となる本拠地ね」

「それはどうして?」

彼女は手首にはめているアップル・ウォッチを見た。私の知識不足にうんざりしている感じだ。彼女は言う。「タカハラさんのお父さんがここ東京で、このビジネスを始めたからよ。この街は一族にとって特別な場所なの。でも前は、東京のタック・ラグゼは古い建物だったのよ。こんなに大きなビルじゃなかったし、こんなに壮大な景色も、あそこからは見えなかったわ。今のタック・ラグゼのホテルは、大体いつも予約でいっぱいなのよ。このビルには〈ディスティニー・クラブ〉も入ってるから、そこを目当てにやって来るお客さんも多いわね」

「それって何? 運命のクラブって、なんか〈約束の地〉みたいな、聖地メッカっぽい名前だけど」

「たしかに、そうね。聖地メッカには、はるばる大地を横に渡って行くんだけど、ここは上に昇って行くのよ。東京っていう街は、建築基準からして上にスペースを広げるしか方法がないの。横には物理的に広げられない。アメリカにあるような、広大なカントリークラブはここには作れないの。それでタック・ラグゼが高層ビルを使って、東京で〈ディスティニー・クラブ〉を提供してるのよ。あなたは今その中にいるの!」彼女に付いて歩いて行くと、エレベーターの扉が並ぶロビーにたどり着いた。私たちのそばを従業員がせわしなく通り過ぎる。シェフ、ウェイター、接客係、他の係の人たちも、みんなタック・ラグゼと書かれた制服を着ている。

「よくわからないわ」私はエレベーターの表示を確認しながら、言った。「ディスティニー・クラブなんてどこにも書いてないじゃない」

エミコは「上」ボタンを押すと、言った。「50階から55階までのフロアが、ディスティニー・クラブよ。タック・ラグゼの宿泊客と住人が利用できて、それから、年会費を払ってメンバーになれば、泊まらなくても施設だけ使えるわ」

「待って。レストランで食事をするためだけに、年会費を払うの?」

「レストランはほんの一部に過ぎないわ。ディスティニー・クラブは体験型の総合施設なの」私は彼女に向かって、「もう勘弁して」みたいな表情をした。私のママに、その顔やめなさいってよく注意されたのを思い出した。エミコは続ける。「タック・ラグゼのパンフレットを読み上げてるみたいになっちゃって、ごめんなさいね。でも本当のことよ。ここは娯楽施設と社交の場を兼ね備えたクラブなの。世界的に有名なレストランも入ってるし、プライベートクラブ、ビジネスラウンジ、会議室、いろんなゲームを楽しめるスペース、スパ、それから、最先端のジムもあるわ」

「メンバーになるのにいくらかかるの?」

「ディスティニー・クラブの会費は、1年で約1,000万円よ」

ちょうどエレベーターのドアが開いたところで、私はびっくりして息が止まりそうになった。「は?」

「あ、1,000万ってドルじゃなくて円よ。1,000万円はドルに換算すると、たったの約10万ドル」

いやいや、それにしたって息が止まるわ。「それだって、十分馬鹿みたいな金額じゃない」

私たちはエレベーターに乗り込んだ。エミコが言う。「ここのお客さんクラスの層にとっては、それほど馬鹿みたいな金額ではないのよ」

私のママは、あと50ドル給料が高ければ、その50ドルを元手に一獲千金を当てられるってよくぼやいていた。世界には50ドルに苦慮している人がいっぱいいるっていうのに、10万ドルもの大金を贅沢な娯楽にぽんと出せる人たちがいるなんて、そんなの犯罪に思えてくる。だってそうでしょ、本当に苦しんでいる人たちが一方にいて、彼らには潤沢なお金があるなんて、どうしてそんな幸運が彼らの人生に訪れたのかしら? っていうか、この私がなんでそんな世界の一員になってるの?

私はディスティニー・クラブに感銘を受けたのと同じくらい、怖くなる。この場所が現実のものとは思えない。不当に裕福な人たちが、他の誰からも邪魔されずに優雅に過ごすための、現実離れした安息の場所に思えてきた。あらゆるものが秩序正しく整っていて、どこにも欠点が見受けられない。綺麗だけど、魂がない。

エミコはスマホを見て、メッセージを確認すると、「タカハラさんが今夜はあなたと食事できるそうよ、夜7時から」と言った。

私たちは55階でエレベーターを降りた。壁に〈スカイガーデン〉と書かれた看板が掲げられている。

「これからもずっとそんな感じなの?」と私は彼女に聞いた。「父親が娘にいつ会えるかを、そうやってあなたから知らされるわけ?」

私は苛立ちを込めて言ったつもりだったんだけど、彼女は私の不満なんかお構いなしって感じで、淡々と「そうなるでしょうね」と言った。

「私が今すぐ彼に会いたいって言ったらどうする?」

彼女はスマホでカレンダーを確認した。「無理ね。彼はこれからプライベート・メンズクラブで会合が入ってるから」

彼女の後について行くと、そこは文字通り...スカイガーデンだった。空に浮かぶ庭園だ。ガラス張りの空間に都会的な公園がすっぽりと収まっている。地上の公園ほど広くはないけど、青々とした植物が生い茂り、プライベートな会話を楽しめるように配置されたベンチがそこかしこにある。しかし、私はその空間の美しさにうっとり見とれてはいられなかった。私は言った。「プライベート・メンズクラブって? それはどこにあるの?」

「ラケットボールってわかる? 壁にボールを打ち付けるテニスね。そのコートを通り過ぎたところに隠し扉があって、そこから入るのよ」

「今から行ってもいい?」

「だめ。私だって扉の中には入ったことないんだから。私はここで2年働いてるのよ」

「誰がそこに入れるの?」

「ビジネス関係の男性よ」

「そんなところに隠れて、その人たちは中で何をやってるの?」

「タバコを吹かしたり、ビジネスの話とか」

「ここには、女性のためのそういうクラブもあるの?」

「女性はスパのロッカールームで内緒の話をするからいいのよ」

「いや、そういう意味じゃなくて、タバコを吸ったり、ビジネスの話をする専用のウーメンズクラブはあるの?」

「日本人の女性はそういうのを必要としてないわ」あれ? この女性ってハーバードを出てるんじゃなかったっけ?

「まあ、私はべつに構わないけど」私たちは庭園を突っ切るように歩いて行った。庭園の反対側まで来ると、ドアのついたガラス張りの壁があって、見れば、ガラス張りの屋根の下にプールがあるではないか! プールは可愛らしい感じで素敵だったけど、小さかった。隣には温水の浴槽もある。この時間帯だからか、その空間にはお客さんは一人もいない。もったいない。ガラスの壁越しに眺めているせいか、プールは一段と煌めくように目に映った。やっぱりICS東京校の、あの大きな競泳用プールで思いっきり泳ぎたいけど、あそこが使えない時に、ここで軽く泳ぐのもいいかも、と私は名案を思い付き、わくわくした。

エミコは、メンズクラブはあるのに、同種のウーメンズクラブがないということについて、どうとも思っていないようだった。それってフェミニストだったら怒るポイントじゃない? と思ったけれど、彼女はそういう議論には興味ないらしい。彼女は上辺は、過度に礼儀正しく振舞っているけど、私のフェミニズム的な質問をどぶに捨てるみたいに軽くあしらったということは、内面は大して洗練されていないみたいね。私は逆に自信をもらった気がした。彼女は手に提げていた書類かばんから、茶封筒を取り出すと、私に手渡してきた。「あなたがここで生活するのに必要な、カード類よ。これが、あなたの部屋やタック・ラグゼのいろんな施設に入る時にセンサーにかざすカード。これはPASMOっていって、タクシーとか地下鉄に乗る時に使うカードよ。それから、アメリカン・エクスプレス・カードね。洋服とか食べ物とか、何でもこれで支払いできるわ」

「私のクレジットカード? そんなの使っても、私には後から払うお金がないわ!」私はポケットに1ドル札が数枚入っていれば多い方で、それ以上持っていることは稀だった。そんな私がクレジットカードなんて持てるわけがない。

「タカハラさんの口座よ。あなたの...お父さんが支払うから大丈夫」彼女は、お父さんという言葉を使うのをためらった。まるで彼が私のお父さんであるはずがないと思っているかのようだ。

私には彼女のためらいが理解できた。私は父親に会うために日本にやって来たわけだけど、彼のアシスタントが世話係みたいに登場して、私には手に余るクレジットカードを渡されただけで、私自身も、彼が私の父親だなんて本当のことだとは思えない。あの男性は私にあまり注意を向けていないみたいだし、彼の実体がよくつかめないから、私はエミコに聞いた。「彼ってどんな人?」

「誰のこと?」

彼女につられて私まで、お父さんという言葉をすんなり言えなくなってしまった。「タカハラさん」

「とても仕事熱心よ。良い上司だし」

「そういうことじゃなくて、人として」

エミコは返答に困った様子で少し考え込んでから、言った。「彼は冗談が好きよ。面白いことを言ったりするし。彼は、ここでお客さんが楽しい時間を過ごしていることが、何より好きみたいね」私は彼が面白いことを言ったりするなんて全く想像していなかった。十分に素敵な人だとは思ったけど、ビジネスのことばかり考えている人だという印象だった。

「彼には恋人はいるの?」

「さあ、そこまで私は知らないわ」

「ここに彼の家族はいるの?」

「ええ、いるわ。あなたもすぐに会うことになるでしょうね。彼の母親と彼の妹が48階に住んでる、あなたの部屋の一つ下の階よ」

待って。私の祖母と叔母がここに住んでるの? なんで今まで誰も私にそう言ってくれなかったの? っていうか、彼女たちが今まで私に会いに来てないのは、なんで?

王家の人みたいな待遇で、ゴールドのアメックスカードまで手渡されたにもかかわらず、私は〈空に浮かぶ運命の場所〉で、家族の一員にはなれないのではないか、という疑念を振り払うことができずにいた。



チャプター 13


ディスティニー・クラブの52階にある〈リョウガ〉という名前の寿司バーに、どうにか私がたどり着いたのは、ちょうど午後7時だった。店内はこじんまりとしていた。―長めのカウンターが1つあるだけで、背もたれのない椅子が8つ並び、すべての席がお客さんで埋まっていた。カウンターの向こうでは、シェフがお寿司を握っている。男性客はスーツ、女性客はドレスといった出で立ちで、私だけジーンズにTシャツという軽装だったから、なんだか自分が浮浪者のように思えた。

お店の隅にプライベートブースがあって、クリーム色ののれんで中央のカウンターエリアから遮断されていたけど、のれんは完全には閉まっていなかったので、そっと中を覗いてみると、ケンジ・タカハラが座っていた。私は中に入っていくのを躊躇して、のれんの隙間から、「ハイ」と声を掛けた。「あなたが待ってるのは私?」

彼はテーブルにスマホを置くと、おもむろに立ち上がって、お辞儀をしてきた。「私たちがようやく会えるのを楽しみにしていたよ」

私たちがようやく会えるのを? もう私はあなたと一緒に住んでるんですけど、そんなことも忘れちゃったの?

じっと彼の顔を見つめているわけにはいかないと思いつつも、どうしても彼の顔から目が離せない。彼の顔は私にとって、馴染み深い感じでもあり、同時に全くの異国の人という印象も受けた。私はまだ、彼が目の前に存在していることが信じられず、彼が私を彼の世界に招き入れてくれたのは、何かの間違いではないかと思ってしまう。彼の人生ではなく、あえて彼の世界と言ったのは、やはり彼の顔には王様みたいな威厳があったから。

私たちは2人で、8人くらい座れそうな大きなテーブルに向かい合って座った。「どうしてメインのカウンター席じゃなくて、奥の個室で食べるの?」

「この店はシンプルな造りに見えるかもしれないが、実は非常に高級な店なんだ。座席は数ヶ月前に予約で埋まってしまう。この店のシェフはミシュランで星を獲得してるから」

「ミシュランで星を獲得した人って誰? 有名なシェフ? もしかして、『トップ・シェフ』とかの料理対決番組に出たことある人?」

彼は笑った。温かみのある笑い方だった。「いや。ミシュランっていう、とても重要な旅と料理のガイド本で評価されたシェフなんだ。彼の祖父の代から続いている寿司職人だよ」

「そんな凄い人を、よくここに引っ張ってこれたわね! あなたも凄いじゃない!」

彼はまた笑って、「ありがとう!」と言った。彼の困惑したようなハニカミを見て、私は一気に幸福感に包まれた。彼からそういう笑顔を引き出したのは、紛れもなく私だったから、私は喜びで死にそうなくらいだった。彼が私たちのテーブルを指差した。「このテーブルは特別なお客様専用なんだ。あるいは、私が特別なお客様と会食する時に使ってる」彼はそこで少し間を取ってから、続けた。「それに君のその服装は、メインのカウンター席には相応しくないからな」

私は特に何を着て行けとも言われなかったから、適当に過ごしやすそうな服を着て来ただけよ。少なくとも、ICS東京校の制服を着てディナーの席に現れるほど世間知らずではないわ。「それはすみませんね」と私は皮肉を込めて言った。

「謝る必要はない」

「すみませんね」

ウェイターが入ってきて、お辞儀をすると、私のお父さんに日本語で話しかけた。高級なゴブレットグラスに入った水を私たちの前に置く。「メニューはどこ?」と私は聞いた。

「この店にはメニューはないんだ。寿司の種類は何が好き?」お寿司は〈セイフウェイ〉とかのスーパーマーケットで、調理済み食品のコーナーに置いてあるのを見かけたことはあるけど、値段が高すぎて私は毎回手が出せなかった。小さなパックにいくつかお寿司が入っているだけで、値段が見合っていないと感じた。

「わかんない。食べたことないから」

「大丈夫。それなら〈リョウガ〉のおまかせにするといい」

「それってお寿司の一番美味しい種類?」

「シェフに任せるっていう意味だよ。シェフが君のためにネタを色々選んでくれる。最高の食材を使って、君に介入(intervention)してくれる」

「それって、創作(invention)してくれるってこと?」

「そうだな。さて、今日はどんな日だった?」

ついに、真っ当な父親っぽい質問が来た。

「楽しかった。同級生にイモジェン・カトウっていう女の子がいてね、校内を案内してもらったの。彼女のママが有名なデザイナーなのよ」

「シャル・カトウだろ!」彼はにっこりと笑って瞳を輝かせた。「彼女のお嬢さんだったら、君の友達としてぴったりだ。今、タック・ラグゼの従業員用の制服を一新しようと計画中なんだけど、シャル・カトウにデザインを頼もうと思ってる。ただ、彼女は忙しいからな。そうだ、君から彼女のお嬢さんに頼んでもらえないか?」彼が本気で言ってるのか、それとも冗談なのか、もはや私にはわからない。

「それで、あなたの一日はどんな日だったの?」と私は彼に聞いた。

「昨年、私の父が亡くなって、私が会社の経営を引き継いだんだ。私の人生はすっかり仕事一色になってしまったよ。四六時中仕事に追われてる。このままだと俺は...」そこで彼は戸惑ったように言い淀んだ。適切な英語が見つからないのかもしれない。「日本語では、過労死って言うんだ」

「それってどういう意味?」

「働きすぎで死ぬこと。大体は心臓発作で」

「それは大変。過労死しないで」ママも働きすぎだった。野獣に襲われる前の話だけど、彼女は忙しい合間を縫って、私のために時間を見つけては一緒に過ごしてくれた。「そんなに忙しかったら...私はいつあなたに会えばいいの?」

「今会ってるじゃないか! 毎晩一緒に夕食を食べよう。そうすれば、こうしてお互いを知っていける」まあ、それは確かに大事ね。彼は仕事と結婚しているようだった。でも、少なくとも私と一緒に過ごす時間を取ろうというつもりはあるみたいね。私たちは、いわゆる「普通の」家族にはなれないかもしれないけど、―というか、普通の家族ってどんな家族か知らないけど、―私はこの状況に感謝した方がいいみたいね。彼が私をここに招き入れてくれて、凄く素敵な学校に入れてくれて、それだけで十分に有り難いことだし、その上、本物の父親みたいになってって望んだら、罰が当たるわね。っていうか、本物の父親ってどんな父親か私にはわからないけど。―私は今まで父親という存在自体に縁がなかったんだから、わかるわけないでしょ? ケンジが言った。「君自身のことを聞かせてくれ。君は何が好きなんだ?」

「食べることね、何よりも大好きよ」お寿司が乗った最初のお皿が、私たちの間のテーブルに置かれた。

彼は私にお箸を手渡してくれた。「箸の使い方わかるか?」

「練習してるところよ」二つのお寿司のうち、一つを私がお箸で慎重につまむと、もう一つを彼がお箸ですんなりとつまみ上げた。

「一貫をこうして一口で食べるんだ」彼が私にアドバイスして、お寿司を丸ごと口に入れた。

「心配しないで。あのバインダーに書いてあった。お寿司の部分はちゃんと読んだから。他にも色々知ってるわ。お寿司は出された順に食べること、一皿をちゃんと食べ終えてから次に手をつけること、醤油は控えめに使用すること、お寿司をひっくり返して、ネタの部分を醬油に浸すこと、それから、食事の後にぐずぐず長居しないこと」

「優秀だな!」と彼が成績を発表するように言った。私はわけのわからないルールを小馬鹿にしたつもりだったんだけど、そこまでは伝わらなかった。

私は最初のお寿司を口に入れてみる。すると、天にも昇るような美味しさが、口の中いっぱいに広がった。いろんな味と食感が、天国でダンスを繰り広げているみたい。―塩味と甘さの芳醇な絡み合い。歯ごたえがありながら、絹のような柔らかさ。地上の食べ物だとは思えない。「これこそ、私が今まで食べた物の中で、最高に美味しいかも」と、私は口に含んだお寿司を咀嚼し終わってから言った。こんなに美味しい食べ物なら、あれだけ細かい食べ方のルールに縛られていても、致し方ないわね。それぞれの味が連続攻撃のように、私の舌の味覚受容細胞に大規模な錯乱状態を引き起こした感じ。ラーメンは受容限度ぎりぎりいっぱい最高の味だったけど、お寿司の爆撃にこっぱみじんに壊されちゃった。

「食べることは俺も大好きだよ」と彼が言った。「他に何が好き?」

「猫。水泳。ビヨンセ。あなたは?」

「犬。野球。ビヨンセ」

犬派か。でもビヨンセ好きなら、相性が全く合わないって悲観する必要はないわね。それより、もっと緊急を要する関心事があった。「ねえ、あなたこと何て呼んだらいい?」つい、うっかり恋人感覚で聞いてしまった。日本語には、こういう状況にぴったりの呼び名があるのかしら? つまり、会えただけで、まだ打ち解けていない間柄の父親の呼び名。

「君は何て呼びたい?」

「ケンジ、かな?」

彼は微笑んだ。そのカリスマ的な微笑みとハンサムな顔をもってすれば、J-Popのミュージックスターになれたのではないか、そっちの方が彼の天職だったのではないか、と真面目に思ってしまう。「じゃあ、『ケンジカナ』って呼んでくれ」

私はくすくす笑ってしまう。なかなか良いユーモアのセンスしてるじゃない。ユーモア合格! 新しいお皿がテーブルに運ばれてきた。さっき食べた物よりもさらに美味しそうに見える。「コカ・コーラも頼みたいな、ケンジカナ」と私は言った。

彼はウェイターに「コカ・コーラも」と言って、指で2本の合図をした。それから、彼はウェイターに日本語で何か、私にはわからないことを言った。ウェイターがいなくなってから、彼が説明してくれた。「シェフの史郎には、コカ・コーラを頼んだことを言わないでくれってウェイターに頼んだんだ。彼は一流の寿司職人だから」

「それもお寿司のルール? お寿司を食べながらコーラを飲んじゃだめなの?」

「いや。高級な食事全般のマナーかな。食材の絶妙な味をじっくり味わうっていうか。でも、俺はボスだからな。マナーを破っても問題ない」

いいじゃない! ケンジのそういう反抗的な側面も気に入ったわ。

私は彼に聞いた。「私くらいの年齢の時、あなたはどんな学生だったの? どこの学校に行ってたの?」

「アメリカに留学していた。マサチューセッツ州のアンドーバーっていう町の全寮制の学校で、私の姉も同じ学校だった。両親の指導方針っていうか、私たちに英語をマスターさせたかったみたいだね。姉はスター的な学生だったよ。それに対して、俺はまあ、そこそこだな。成績が最悪ってわけでもないけど、優秀でもないって感じ。俺はスポーツが好きだったし、友達とパーティーを開いて盛り上がるのも好きだったから。君は?」

「私は、前は良い学生だったわ。お母さんの状況が悪くなるまでは、私はほとんど全科目で、Aを取ってたのよ」私はそこで一旦間を置いた。彼が私と一緒に過ごす時間を作って、心を開いて話してくれていると気づき、感謝したくなった。「私をあんなに素敵な学校に通わせてくれてありがとう。私は本当にICS東京校が気に入ったわ」

「どういたしまして」と彼は満足そうに言った。それから彼は深呼吸をすると、重大事項を発表するように改まって、言った。「良い成績を取ることよりも重要なことがある。それは、私の母と仲良くすることだ」

「え、彼女って、仲良くするのが難しい人?」そういえば、彼の母親について、まだ何も聞いていなかった。気難しい人だから、彼が私に会わせないようにしていたの?...それとも逆に、彼女が?

「彼女は...いつも機嫌がいいわけじゃないんだよ」ケンジははぐらかすように言った。「彼女がタカハラ家の実質的な、真のボスなんだ。君のお母さんがどういう状況にいるかわかった時、私はすぐにエルをここに呼び寄せて、まず様子を見ようって言ったんだ。でも私の母は違う考えだった。君を全寮制の学校に入れて、お金を送ればいいって」

私は急に喉がカラカラになった。私の母だったら、この会話のこの時点で、「早く持って来てよ!」って叫んでいたでしょうね。私の母の場合、コカ・コーラよりも、もっと強いやつでしょうけど。

「じゃあ、なんで私はここにいるの?」と私は聞いた。さっきまで感じていた感謝のレベルが不安定に揺れ動いていた。緊張と不安がどんどん入り混じってくる。私はなんだか、また新たな里親の家に送られようとしている気分だった。

「ようやく母を説得できたんだ。一時的だけど、君をここに呼び寄せて、それでどうなるか様子を見るってことで、彼女はうなずいてくれた」

私はショックで、心臓がお腹の底まで落ちた気がした。一時的? 私はとりあえず様子見で、一時的に東京に来たの? そういうことは、私が飛行機に乗るって決める前に、言ってよね!

「そんなに心配そうな顔するなよ! きっと君と彼女は、仲良くやれる」

彼はあんまり確信があるような言い方ではなかった。でもいいわ。私がなんとかしてみせる。私は今ここにいるんだし、一時的ではなく、ずっとここにいられるようにしてみせる。少なくとも、高校を卒業して、大学の奨学金を得られるまでは、ここにしがみつくわ。そしたら、家に帰ろう。ママが出て来るのを待って、また二人で一緒に暮らそう。

「そうね。きっと仲良くやれるわ」と私は自信を込めて言った。新しい祖母がどんな人でも、私はどんなことをやってでも、私を好きにしてみせる。



チャプター 14


日本の料理を食べる時のエチケットに従って、私たちは食事の後、ぐずぐずと長居はしなかった。舌がとろけそうなお寿司の最後のお皿を二人で平らげると、ケンジが腕時計をちらっと見て、諦めたように言った。「まだ君が会っていない家族に、そろそろ会いに行く時間だな」

「その前に、何か食後のドリンクを飲んでからにしない?」と私は聞いた。彼があまりにも変に緊張した面持ちだったので、一旦先延ばしにした方が良いと思った。「あなたはお酒でも飲んだら?」

初めて、ケンジが手を伸ばしてきて、テーブルの上で私の手にそっと触れた。彼の感触が初めて脳まで伝わってきたと思ったら、彼はすぐに手を引っ込めてしまった。彼が真正面からじっと私の目を見つめてくる。「お酒は飲まない。アルコール依存症から、やっと回復しつつあるんだ」

マジか。

それは思いもよらない告白だった。ケンジは見るからに健康そうで、自信に満ちた男だったから、私のママがかつてそうであったように、お酒に溺れるような壊れやすい心の持ち主だとは思わなかった。超高層ビルの王様でしょ? いったいどうしちゃったのよ! 待って。アルコールが一時的に忘れさせてくれるストレスとか、麻痺させてくれる痛みってどんなものかしら? 彼はきっとそういう痛みに囲まれていたんだわ。

そうすると、私の両親は二人とも中毒患者ってことじゃない。遺伝的に言って、体質的に私もそうなる確率は、100%。シャレにならないわ。

彼は付け加えた。「そんなだったから、俺は君の父親になれなかったんだ。3年ほど前になんとかしらふに戻るまでは、ずっと具合が悪かったから」

それがまともな言い訳ではないことはわかっていたけれど、私の中にすっと入ってきた。彼が今まで私の人生の一部になれなかったのは、冷たい放置とかではなく、そういった事情があったのだ。

「お酒の悩みを順番に言っていくミーティングとか行ってるの? 私もあなたと一緒に行ってもいいわ...付き添いとして」ママが野獣と闘いながら、まともな状態に戻ろうともがいていた時、私は彼女のために何かできたかもしれない。同じような境遇の人に頼んで、ママをアルコール依存とか麻薬依存のサポート施設に一緒に連れて行ってもらうこともできたはず。その間、その人の子供の世話は、私がすればよかったわけだし、その子にクッキーを焼いてあげることもできたわ。

「そういうつもりで言ったんじゃないんだ」とケンジは言った。それから、おもむろに立ち上がって、続けた。「この件はこれでおしまい。ただ君に知っておいてもらいたかっただけだから」

私は彼がなぜ秘密を打ち明けようと思ったのか、その理由を考えた。心を開いて私の前では正直でいたかったのか、それとも、どこかのタイミングで、彼がついお酒に手を出しそうになったら、私に注意してほしいってことか、あるいは、その両方かもね。だけど、お酒の問題っていうのは、私から押し付けるみたいに言わない方がいい。知りたいことはたくさんあったけど、彼が言う必要があると感じた時に、彼から言ってくれるのを待とう。今の彼は明らかにしらふなんだし。そんなことを考えながら、私は彼の背中に付いて、ロビーをエレベーターの方へ歩いていった。

「彼女たちの名前は何て言うの?」と私は彼に聞いた。「あなたのママと妹さん」

「母親はノリコ(紀子)で、妹はキミコ(貴美子)。だけど英語で話す時は、キミって呼んでる。キミはタック・ラグゼで俺に次ぐ地位にある、いわばナンバー2だな」ノリとキミ!? キンバリー・カーダシアンの家族と同じじゃない! 私はテレビでパーソナリティをしているキンバリーに絡めてジョークを言いたい衝動を、なんとかこらえた。私たちはエレベーターに乗り込むと、タック・ラグゼ・ホテルのロビーがある36階で降りた。「コンシェルジュのデスクに立ち寄ってから行く。ちょっと忘れ物をした」

私はケンジに続いて、受付に向かって歩いていく。その空間を颯爽と歩く彼には、威厳に満ちたオーラがあった。彼が横を通り過ぎるたびに、従業員たちが次々に深々と頭を下げた。受付の前まで来ると、ハッとした。私はそのコンシェルジュに見覚えがあった。今日の午後だ。「あなた、〈生け花カフェ〉でもウェイターをしてなかった?」と私は彼に聞いた。彼は大学を卒業したばかりといった年頃で、薄茶色の肌、黒髪、深緑色の瞳をしていた。

「確かに」と彼は言った。「僕はデーブ・フラーハティ。僕はここで細々としたことを何でもやってるんだ。ボスが僕を必要とすれば、どこへでもすぐに駆けつけますよ」彼はケンジに向かって敬礼をし、それを見てケンジは笑った。

「あなたってアメリカ人?」と私はデーブに聞いた。

「そう。ボストン生まれのアメリカ人。アイリッシュ・インディアンの上質な血筋を受け継ぐ、先祖たちの代表だよ」

ケンジが彼に言った。「彼女は私の娘で、エル。最近こっちに来て、これからここで暮らすことになってる」

デーブの顔がパッと明るくなった。私も自分の顔が赤くなるのを感じた。確かに彼は、名前の通り、フラーッとなびいてしまいそうなキュートな顔をしていたけれど、私が赤面したのは、彼のせいではなく、ケンジが私を娘として紹介したからだった。

デーブは言った。「それはそれは、お嬢様にお目にかかれるとは。何でも必要な時にお声掛け下さい。私はあなたに仕える者ですから。内線で私を呼び付けてもらえば、すぐに伺いますよ。私は英語、日本語、ヒンディー語、スペイン語、フランス語を話せますので、何語でも、宿題が出て困った時とか、お手伝いします」それから彼はケンジに日本語で話し掛けた。二人で何やら日本語を交し合った後、デーブはコンシェルジュ・デスクの後ろの棚からギフトボックスを取り出し、ケンジに手渡した。ギフトボックスは花柄の包装紙に包まれていて、それとは別にギフト用の手提げ袋も手渡した。「グラシアス(ありがとう)」とケンジがデーブに言った。

ディナーダ(どういたしまして)」とデーブが答えた。

「ちょっと君のスペイン語をテストしてみたんだ」とケンジが笑いながら言った。

ケンジはギフトボックスを手提げ袋に入れると、それを私に手渡してきた。「さあ、行こう。すでに約束の時間を過ぎてるな。母は遅刻が大嫌いなんだ」

デーブがびっくりしたように目を細めたのを私は見逃さなかった。そして、私も同様に驚いてしまう。ケンジが明らかに慌てているからだ。普段は堂々としていて、落ち着き払っている男があたふたしているのを見ると、こっちまでまごついてしまう。

「これって何のための贈り物?」住人専用のプライベート・エレベーターに乗り込んだ後、私はケンジに聞いた。

ケンジは言った。「君が母に渡す贈り物だよ。マサに頼んで、空港でおみやげを買ってきてもらえばよかったな。日本では、誰かの家や職場を訪れる際、敬意の印として贈り物を持参するっていう伝統があるんだ」

「なんでさっきギフトボックスを手提げ袋に入れたの? ただ上の階に持っていくだけでしょ? すでに包装紙にくるんであったし」

「手提げ袋に入れたまま手渡すのが、礼儀なんだ」と彼は真剣な表情で言った。まるで中には貴重な宝石とか、とても高価で大切な物が入っていて、包装紙でくるんだ上に、さらに手提げ袋に入れなければ、傷でもついてしまうと言わんばかりの真剣さだ。

「そういうことなら、私、ギフト代わりに何か作れるわ」と私は提案した。「とっても美味しいチョコレートチップ・クッキーとか! 美味しさの秘訣はね、カルダモンをちょっと入れるの。〈ピンタレスト〉で誰かが作り方を投稿してるのを見たから、作れるわ」

「いい考えだが、遅すぎた。俺がもっと早く準備しておくべきだった。今すぐ渡さないとまずいんだ。コンシェルジュのデスクには、俺がお客さんに渡す用のギフトが常にストックしてあるから、これでいこう。君はこれを母に渡すんだ」

「これって何が入ってるの?」

「ダラスの空港で売ってるチョコレート。母も妹も、どうせ食べないんだけど。彼女たちはアメリカのチョコレートが好きじゃないから」

「え、食べないのに、なんであげるの?」

「それが日本の伝統だからさ。贈り物より、贈り物を贈る行為が重要なんだ」

「そんなの意味ないじゃない」

どうやら、ケンジには意味があるらしく、こう付け加えた。「両手で差し出すように手渡すんだ。でも、すぐに渡したらだめ。一旦席に着いて、その場の空気が落ち着いた頃合いを見計らって、つまらないものですけどって差し出すんだ」

「相手が好きでもない、つまらないチョコレートを手渡すのに、そんなに細かなルールがたくさんあるなんて、さすが伝統ね」

ケンジが微笑んだ。「さすが君は飲み込みが早い」

「アメリカのチョコレートは最高よ」と私は誇らしげに言った。実は今すぐにでも、〈ハーシー〉のチョコレートバーにかぶりつきたいくらいだった。

ケンジが意味深にくすくすと笑った。私たちはエレベーターに乗り込む。「それはあれだな、君はおそらくアメリカのチョコレート以外食べたことがないから、そう思うんだな。最高のチョコレートは、ベルギーか、スイスのチョコだな。イギリスのも美味いぞ。日本のチョコレートも確かに素晴らしいが、ベルギーとかスイスの最高のチョコレートメーカーから輸入して、それを日本で販売してることも多いんだ」

「あなた、自分の国のチョコレートを侮辱しちゃってるわ」

「アメリカのチョコレートよりはましだよ。君の国のチョコは、なんだかワックスみたいな味がするからな。彼女たちに挨拶したら、その後パティスリーに行ってチョコを食べよう。今言ったことを証明してあげるよ」

「ほんとに?(Really?) ケンジカナ」彼は教皇のような過密スケジュールを無視してでも、私と一緒にチョコを食べたりして、長い時間を過ごしたいってこと?

ほんとさ(Rilly)」と彼は、私のアメリカン・アクセントを真似て言った。彼って面白い。私も面白いから、また一つ、私たちの共通点が見つかったわ!

エレベーターのドアが48階で開き、私たちは外に出た。広間の両側に2つの部屋があり、ケンジは右の方へ歩いていった。彼はそっとため息をつき、諦めたように、ドアベルを鳴らした。貫禄のある日本人女性がドアを開けた。彼女は品のある洋服を着ていて、黒髪を後ろでお団子に束ねていた。そして前髪は、年配女性が好む感じで、額のところでふわりとカールさせている。彼女はいかめしい顔つきをしていた。眉毛を黒くはっきりと描き、干しぶどうみたいな紫掛かった口紅を塗っていた。なんだか、あの酸っぱくて甘い〈サワーパッチキッズ〉を食べた時の顔みたいだ。と思った瞬間に、彼女はアメリカのお菓子が嫌いだったんだ、と思い出した。「あなたたち、遅刻ですよ。もう10分も過ぎています」彼女は英語で、ケンジを叱りつけた。それから彼女は、どうせ私のせいだと言わんばかりに、私に一瞥をくれた。

「ごめんなさい」と私はぼそぼそと言った。私のママの両親は、どちらも私がまだ小さい頃に亡くなっちゃったから、母方の祖父母はいなかった。おばあちゃんがいるってどんな感じだろう? と想像したことはあった。もし私におばあちゃんがいたら、きっとロッキングチェアに座って、私に素敵なケープを編んでくれるんだわ。そのケープには、スーパーマンのマントみたいに、「おばあちゃんのお気に入りのスーパーガール」って刺繡されていたりして...まさか、初めて会った瞬間に、怒られるとは思ってもみなかった。

ケンジとおばあちゃんは日本語で二言三言、会話していた。それから、彼が英語で言った。「母さん、この子がエル。エル、こちらが私の母。彼女はミセス・タカハラと呼んでほしいと言ってる」

オーケー、おばあちゃん。ここまで来たら、何とでも呼んであげるわ。こんなに温かい歓迎を受けるなんて、逆にエネルギーを無駄に使わなくて済んで、感謝しちゃう。東京で新しい家族と対面して、感極まって抱き合うようだったら、さぞかし大変だったでしょうね。省エネに感謝。

私は、お辞儀をした方がいいのかなと感じ、少しだけ頭を下げた。その間、ミセス・タカハラが値踏みするように、私の顔をじっくりと見ているのを感じた。そして、あれ、と思った。彼女のこの表情って、私が初めてケンジに会った時の、私の表情と似てるかも。やっぱり血がつながっているんだわ。私は、私たちの反応の類似性を否定できなかった。彼女の不機嫌そうな表情からは、ぱっと見、孫に会えた喜びのようなものを見つけることはできなかったけれど。

ケンジと私は玄関に足を踏み入れた。靴を脱いで、床の端に並べられていたスリッパに履き替え、リビングに入っていった。室内のレイアウトは、ケンジのアパートメントと全く同じだったけど、家具類は、より格調が高い感じで和風だった。そしてリビングルームで私たちを出迎えてくれた女性は、目を見張るほど綺麗だった。彼女は、ケンジの妹よ、と言って挨拶してきた。見た感じ、ケンジよりも2、3歳若そうだ。彼女が私に手を差し出してくる。「ようこそ、日本へ。エルね。私はキミよ」彼女の言葉遣いは親しみやすく、本当に私を歓迎しているようだった。ミセス・タカハラとは違って、彼女は英語にも自信があるようで、日本人訛りもない。ただ、彼女の礼儀正しい立ち居振る舞いからは、姪に会えたという高揚感は全く伝わってこなかった。

「ハイ」と私は言った。「はじめまして」どうか私を好きになって、私の味方になって!

キミコ・ナカムラと比べてしまうと、エミコ・カツラのビジネススーツが古臭く思えてしまう。キミは淡いピンク色のスーツを着ていた。それは、彼女のすらりとした体の線をそのまま引き立てるように、完璧に仕立てられていた。下に目をやると、彼女の靴には金のロゴが付いている。あのロゴは確かフェラガモだ。彼女の長い黒髪は、さらさらと滑らかで光沢があった。ヘアーモデルが彼女の髪を見たら、羨んで、彼女の髪を引っ掴んで奪おうとするんじゃないかしら?

彼女はジェスチャーで、ソファーに座るように私を促した。私たちの訪問を待ち構えていたかのように、ティーセットがテーブルの上に用意されていた。「お茶は、あなたはどんな風に飲む?」とキミが私に聞いた。テーブルの反対側の椅子にミセス・タカハラが、すっと腰掛けた。

「コーラはありますか?」と私は聞いた。

「ないんじゃないかしら」とキミは答えた。「母はソーダ類を認めてないから」

私に向かって、ミセス・タカハラが言った。「今のあなたは痩せていて、可愛いわ。お茶を飲みなさい。ソーダはだめよ。そうすれば、あなたは今の体型を維持できるから」

「じゃあ、水は?」私はお茶を恐れていた。日本ではあらゆるものが儀式化されているようで、作法を間違えたくなかったし、間違えて彼女たちを怒らせたくもなかった。私の足が貧乏揺すりを始めた。指も神経質にピクピク動いてしまう。

「俺が君に水を持ってきてあげるよ」とケンジが言って、キッチンに向かって歩いていった。彼はコップ一杯の水を持って戻ってきて、私の隣に座った。キミは母の隣の椅子に座り、私たちは二人ずつ向かい合う形になった。

みんな座ったし、今が良い頃合いかなと思い、私は紙袋からギフトボックスを取り出し、両手でミセス・タカハラの前に差し出した。「つまらないものですけど、あなたへの贈り物です」と私は言った。しまった! 紙袋に入れたまま渡すんだった!

ミセス・タカハラは両手で裸の箱を受け取ったけれど、げせない表情をしていた。「アメリカのチョコレートかしら?」

私は頷いた。ミセス・タカハラが日本語で何やらぼやき始めた。たぶん、ふん! 何よ、こんなもの! みたいな言葉でしょう。それから彼女は、その箱を椅子の後ろの床の上に置いた。あらら、もう忘れられた過去の産物になっちゃった。「あなた、そんな恰好でディナーに行ってきたの?」とミセス・タカハラが私に聞いた。私は自分が着ている真新しいジーンズとブラウスを見下ろした。―これだって、私のママがレストランでウェイトレスをしていた時の、一週間分の給料よりもお金がかかってるわ。

「はい?」と私は言った。

ミセス・タカハラがケンジに言った。「あなた、ディスティニー・クラブにそんな服装で入ることを許したの? もっと服装に気を付けなさい。ディナーに自分の...」どうやら彼女は、「」という言葉をどうしても使う気にならないらしい。「お客さんをこんな格好でディナーに連れて行っちゃだめじゃない」

それからケンジとミセス・タカハラは、日本語で話し始めた。その間、ケンジはずっとイライラしている様子だった。会話の内容は理解できなかったけれど、「ハーフ」と「外人」という言葉は、すでに耳に馴染んできたのか、はっきりと聞こえてきた。

きっとケンジの妹さんを味方に引き込んだ方が、私にとって得策ね。私は彼女に言った。「あなたの髪の毛、私が今までに見た中で一番さらさらしてる感じ。何か特別なシャンプーを使ってるの?」

キミは言った。「特別なシャンプーは使ってないわ。大学に入学した年からずっと、日本式のヘアートリートメントを受けてるのよ。あなたより何歳か年上の頃から始めたことになるわね。どう? もしあなたも受けてみるなら、予約してあげるわ」

日本式のヘアートリートメントとはどんなものなのか、想像もつかなかったけれど、私は、「やってみたいわ! ありがとう!」と、なるべく礼儀正しく言った。

「あなたの髪はワイルドね」とミセス・タカハラが私に言った。「手直しが必要ね」

まったくもう! このレディーは何でもずけずけと言ってきて、礼儀ってものを知らないの?

ケンジが部屋を見回してから、キミに言った。「母さんはお茶と一緒にウィスキーを飲みたいんじゃない?」それから彼は、ちょっと微笑んで私に目配せした。ビヨンセ好きの私はピンときた。ビヨンセの『Daddy Lessons』の歌詞をもじった冗談だ! 一瞬高まりかけた私の心拍数がすっと鎮まり、私の口元から自然と笑みがこぼれる。

「ウィスキーはだめよ!」とミセス・タカハラがケンジに言って、それから、彼らは再び日本語で、口げんかを始めたようだった。

丁寧な口調で、キミが私に聞いた。「ICSでの初日はどうだった?」

「楽しかったわ。キャンパスが素晴らしいの」

キミは言った。「高等部の学部長はクロエ・レーラーでしょ? 私はハーバードの1年生の時から、クロエを知ってるのよ。私がケンジと彼女の間に入って、それであなたの入学がすぐに認められて、ケンジがあなたを呼び寄せたってわけ」

そういうことだったのか。私にとってはあまりに突然で、衝撃的な展開だったけど、マサおじさんが私を迎えに来るまでには、私の知らないところで、たくさんの交渉や根回しをしてくれていたってことね。そっか。ママが刑務所に入って、私が里親の家に行ってからずっと、たくさんの人が私にとって、より良い解決策は何なのかって考えて、行動してくれていたのか。私は色々なことに気づき始めた。私の両親が同じ部屋で一緒に過ごすことは、おそらく今後もないのでしょうけど、二人が別々の場所で私のことを思って、こんなに素敵な新しい人生を用意してくれたなんて。

「ありがとう」と私は、心から感謝を込めてキミに言った。

「朝の学校までの相乗りはどうだった?」キミが相乗りのことまで気にかけているとは思わなかった。というか彼女は、ケンジと母親の日本語の口喧嘩みたいな会話から、私の気を逸らそうとしているようでもあった。

「まさかベントレーに乗って通学するなんて、思ってもみなかったわ!」

「本当に?」キミが笑った。

ミセス・タカハラは、一通り息子を𠮟り終えたのか、今度は私の方に向き直った。「あなたの肌はどうして浅黒いの?」

私の肌は浅黒くないわ。ユリみたいに真っ白ってわけでもないけど、1から10の色合いで表すと、1が最も明るい白で、10が最も暗い茶色だとすると、私は白に近い方の、3といったところよ。「私のお母さんの父親の家系に、アメリカ先住民と、アフリカ系アメリカ人の先祖がいるから」と私は説明した。

ミセス・タカハラは不快感を隠そうともせず、ショックを受けたように言った。「黒人のようなものってことかしら?」

「母さん!」キミとケンジがミセス・タカハラに向かって大声を張り上げたが、彼女は動じる素振りを見せない。

ミセス・タカハラは言った。「六本木のナイジェリア人たちを知ってますか? 彼らは素行が悪いし、誠実ではないわ」

ケンジが私に説明してくれた。「六本木はここから近いんだけど、夜の繫華街なんだよ」それから彼は母親の方を向き、英語で言った。「六本木で怪しげなナイトクラブを経営してるナイジェリア人たちは、エルと何の関係もない。それに、ナイジェリア人だからといって、全員が六本木でクラブを運営してるわけでもないだろ」

彼が母親に向かって正論をぶつけてくれたことに感謝する一方で、私は彼女からのメッセージを受け止めた。彼女には黒人や外人に対する固定観念があり、自分たちとは違うと思っているんだ。だからママが妊娠した時、彼女はお金だけ送って、ケンジを日本に連れ戻したんだ。―孫娘の私が純粋な日本人ではないから。だけど皮肉なものね、おばあちゃん。遅ればせながら、私はこうしてあなたの元へやって来てしまいました!

私は捨て台詞を吐いて、ここを立ち去りたかった。でもケンジを見ると、私に向かって、我慢してくれ、と訴えかけるような表情をしていたから、私は深呼吸をして気持ちを抑えた。実際のところ、私はこの鉄の女に礼を尽くす義理はないんだけど、ケンジが明らかに私を守ろうとしてくれているから、彼の顔を立てて、なるべく行儀よくしていることにした。

私は言った。「せっかく日本に来たことだし、今から日本語を勉強したいと思ってるの」

ミセス・タカハラが、きっとした目で私を睨み付けた。「無理ね。言葉を学ぶって並大抵のことではないし、あなたはここにどれくらい長くいるのか、まだわからないのよ」

心臓がドクドクと高鳴った。凄まじい勢いで鼓動してるから、胸が内側から破裂するんじゃないかと怖くなるくらいだった。私は父親のことをもっと知りたかった。ここに住んで、ICSに通いたかった。そうすれば、素敵な人生になる予感がする。ただ、この意地悪なレディーに媚びを売って、好かれるように振る舞うだけの価値があるかしら? 私はもうすでに彼女が好きではなかった。

ケンジが私の顔色をうかがっている。私の気持ちをくみ取ろうとしている様子だ。やっぱり彼には基本的に父親の本能があるんだわ。彼はミセス・タカハラに向かって英語で言った。「エルが私たちの言葉を学びたいと言ってるんだから、尊重すべきだし、それは日本人としても喜ばしいことだろ」

柔らかい物言いで、キミが私に言った。「今のところ、日本語は学ばなくても大丈夫じゃないかしら。お母様の言う通り、言語を学ぶのは大変よ。タック・ラグゼとICSを往復してる限り、英語を話す外国人がたくさんいるから、英語だけで事足りるわ。あなたの学校はね、日本語を学ばなくても十分大変よ、課題もたくさん出るし」

そうして今、ミセス・タカハラはケンジとキミを二人まとめて、日本語で叱っている。たぶん𠮟っているんだと思う。

突然、私はこれまで以上に彼らの言語を学びたい衝動に駆られた。私が日本語を理解できれば、彼らは、私がここにいないみたいに、私の存在を無視して会話できなくなる。そうすれば、私は人種差別主義者の祖母に向かって、彼女の国の言葉でビシッと言い返せる。



チャプター 15


ようやく祖母のアパートメントを後にして、開口一番ケンジが言ってくれた言葉に、私は救われた気がした。殺伐としていた私の心が、まさに求めていた言葉だったのだ。「あんな時間を過ごした後は、チョコレートを食べるに限るな」

ディスティニー・クラブのパティスリーは、〈Delights〉(喜び)という名のお店だった。〈Delights〉は午後7時が閉店時間らしく、すでに閉まっていたが、ケンジが特権付きのキーカードをかざすと、閉店後にもかかわらず、私たちはすんなりとスイーツ・ショップに入店できた。〈Delights〉の店内は、ピンクと白の縞模様の壁紙に囲まれ、天井にもピンクと白のランタンがいくつも飾られ、棚やショーケースまでピンクと白だった。(それにしても、ディスティニークラブのお店の名前って、なんでこうも陳腐な名前ばかりなの? 私でも、もっとひねった名前を付けられるわ。まあ、これはケンジには言わないでおくけど。)ガラス張りのショーケースには、高級そうなティーケーキや、それぞれ個性溢れるチョコレートがずらりと並べられ、壁の棚にはぎっしりと、色とりどりの包装紙に包まれ、リボンが付いたお菓子の箱が置かれていた。お店は全体的に、『チャーリーとチョコレート工場』をモチーフにした若い女の子のベッドルームといった印象で、「かわいい」を過剰摂取ぎみにとことん詰め込んでいた。

おそらく今後も、私はあの祖母を「家族」だとは思えないでしょうが、こうしてスイーツ天国へ連れてきてくれるこの男性はどうかしら? 彼は忙しいスケジュールに縛られているとはいえ、私の父親だと見なせるだけのポテンシャルは十分にありそうね。ケンジは明らかに〈Delights〉の常連客のようで、手慣れた手つきでガラスケースのロックを解除して、ショーケースを開けると、トングを使って、チョコレートを一つずつ取り出し始めた。ガラスケースの横の引き出しには磁器製のプレートが入っていて、彼はそのプレートの上にチョコレートを一つずつ綺麗に並べていった。

私は言った。「あなたって甘い歯をしてるでしょ?」彼は面食らった様子で、自分の前歯を触り出した。「英語では甘党のことをそう表現するのよ。その手慣れた感じからすると、あなたは甘いものが大好きでしょ?」

彼が素敵に微笑んでくれたから、私は彼が感心することを言えたんだ、と思えた。「たしかに! 俺は甘党だな!」

「私も甘党よ。私のママは甘いものが好きじゃないから、きっとこの甘い歯は、あなた譲りね」

この特質を私が彼から受け継いだと聞いて、彼は喜んでいるように見えた。「〈Delights〉がオープンしてから体重が増えちゃってな。夜中にここに忍び込んでは、むさぼるように食ってるから」なかなか興味深いじゃない。ケンジのことをもっと知るには、彼のスケジュール表を眺めていてもだめね。スケジュールが終わった後のデザート事情を知る方が、彼の核心に近づけるわ。私はすでに彼がもっと好きになっていた。

「あなたは太ってるようには見えないわ」

「〈Delights〉がオープンする前、今から1年くらい前は、もっとスリムなズボンを穿いていたんだ」そう言うと彼は、プレートの中央に置いたミルクチョコレートっぽいケーキを指差した。「最初にこれを食べてみるといい。俺のお気に入り、プラリネのムースだ」

その聞き慣れない「プラリネ」と「ムース」という言葉には、Delights(喜び)をもたらしてくれそうな響きはなかったけれど、ケンジがそう言うのなら、と私はそれを食べてみた。すると、確かに彼のアドバイスは的を射ていた。ナッツっぽい旨味と、クリーミーで繊細な美味しさが同時に口の中に広がった。「ワオ! すごい!」

「ワックスの味はしないだろ」とケンジが言った。

「アメリカのチョコレートだって、ワックスの味なんかしないわ」と私は反論した。私はもう一つ別のチョコレートを口の中に入れた。ピスタチオが上に散りばめられ、中身はぎっしりと詰まった食感だった。その目を見張る味わいには、食べてはいけないものを食べた背徳感さえある。ケンジが祖母の部屋に行く前に言っていたことが、なんとなく腑に落ちてきた。これらのチョコレートは、次のレベルの美味しさなのね。ペントハウスに住む人たちの次元、といってもいいかもしれない。(それでも私は、〈ハーシー〉のチョコレートバーへの思いを断ち切ることはできない。特にアーモンド入りは格別。あれがUSAの味なのよ!)

「カプチーノはどう?」とケンジが聞いてきた。

私はカプチーノ味のチョコレートがあるのかと思った。「どのチョコ?」

彼は首を横に振った。「いや、カプチーノを飲むか?って聞いたんだよ。実は俺は深夜のバリスタ、コーヒー淹れの名手なんだ。内緒だけどな」彼が私に向かって微笑んだ。「くれぐれも従業員たちには、俺がコーヒーマシンの使い方を知ってるって言わないでくれよ。彼らはスケジュールの空き時間に次々と俺のところにやって来ては、『コーヒーを淹れましょうか?』ってしつこく言ってくるんだ」

「みんな親切ね」

「まあ親切ではあるんだが、俺が自分で機械をいじくると、また壊すんじゃないかって彼らは心配してるんだよ」

「壊したの?」

「一回だけな。今はエキスパートだぞ」

私は彼の腕前をテストすることにした。「じゃあ、カフェイン抜きの豆乳カプチーノをお願い。ドライでね」

「泡たっぷりにするか? 蒸気処理しないで生のミルクを使うっていう手もあるぞ。あまり乳製品を好まないようなら、アーモンドミルクっていう選択肢もある」

それも悪くないわね、高層ビルの王様。「でも豆乳ミルクでいいわ、ありがとう。あなたは何を飲むの?」

彼はエスプレッソマシンの方へ歩いて行くと、機械を操作して下準備をしてから、コーヒー豆を挽く作業に取りかかった。「俺は泡たっぷりの全乳カプチーノにするよ」

私は彼が二人分のカプチーノを淹れているところを観察した。彼は正真正銘のプロだった。迷いなくミルクを蒸気処理すると、一滴もこぼすことなく、薄い金属の棒を使ってマグカップの中に落とし込んだ。そして、泡の上部にコーヒー色のハートを描いてくれた。出来上がったカプチーノが私の前にすっと差し出される。私は一口飲んでみた。完璧な温度だった。ほどよい熱さで、熱すぎない。泡がいっぱいに膨れ上がっているけれど、ふんわりと舌に溶け、泡が邪魔にならない。私は彼に言った。「これならスターバックスで働けるかもよ、応募してみたら?」

「君は面白いな」

あなたも面白いわ」と言って、私はもう一口カプチーノを口に含んだ。ケンジはまだ父親になるコツはつかめていないみたいだけど、コーヒーを淹れるコツは熟知してるし、スイーツの王様でもあるし、私からすると素晴らしいの一言で、文句のつけようがないわね。と思ったら、一つだけあった。「気づいてるでしょうけど、あなたのお母さんって、人種差別主義者よね?」

彼はため息をついた。「それは申し訳ない。予め君に言っておくべきだったな。孫を前にすれば、彼女ももう少し礼儀正しく振る舞ってくれるかと期待したんだが。彼女は日本の北の方の小さな町で育ったんだ。40年以上前に大学に進学するために上京したんだけど、たぶんそれまでは、外国人なんて見たこともなかったんだろうな。ただ、俺は彼女が本当に人種差別主義者だとは思っていない。単に居心地が悪いだけなんだよ、自分とは違う人間と一緒にいるのが」

「違うって、日本人ではないってこと?」

「そう」

「彼女はスリザリンみたいね、純血主義者っていうか」

私の喩えにぴんと来るほど、彼がハリーポッターに詳しいとは期待していなかったんだけど、完全に通じたみたい。彼は言った。「スリザリンは必ずしも悪者ってわけじゃない。彼らは強い信念に突き動かされているんだ。自分たちの信念を固く信じているんだよ。彼女もそうだ。彼女のサポートがなかったら、親父はこのビジネスを立ち上げることができなかっただろうな。君に頼みがあるんだ」え、何でも言って、と私は思った。本心から、私はこの人に何かしてあげたかった。昨日会ったばかりだけど、私の注文通りにカプチーノを作ってくれて、ハートまで描いてくれて、彼の母親がスリザリンだって言ったら、完璧に話が通じたんですもの。私はうなずいた。「もう少し彼女を長い目で見てくれないか。すぐに彼女を、ああいう人だって決めつけないでほしいんだ」

「彼女がすぐに私を、こういう人だって決めつけたみたいに?」

「彼女は何十年もそうしてきたから、自分のやり方に慣れ切っているんだ。君は若くて、心も外に開いてる、そうだろ? そんな君と過ごしていれば、彼女の心もほぐれて、変わっていくと思うんだ。君と一緒にいることも、居心地よく感じるようになっていく。俺はそう信じてる」

「たぶん、あなたの考えは間違ってるわ」

「チョコレートに関する俺の考えは間違ってたか?」

さすが頭が切れるわね。確かにチョコレートについても間違ってる。


・・・


デザートでお口直しをしたら、祖母の家での嫌な気分もすっかり晴れて、ケンジと私は彼の―私の―アパートメントに戻った。すると彼が、「俺は仕事に戻らなきゃ」と言い出した。は? もう午後10時よ! この男は眠らないつもり? 「一人で大丈夫か?」と彼が聞いてきた。こういう親らしい質問が、ようやく彼の頭にも浮かぶようになったらしい。

本当は、彼と一緒に寝る前の時間を過ごしたかった。肩を寄せ合うようにして、テレビを見るの。きっと彼は『ゲーム・オブ・スローンズ』を見たいって言い出すわ。あのドラマは中毒性があるからね。でも私は彼に『ギルモア・ガールズ』を薦めて、一緒に見るの。一度見れば、きっと彼もあのドラマのとりこになるはず。

だけど、私は14歳の時から自分のことは自分でやってきたんだし、今さら甘えられる? しかも、一人で過ごすといっても、今までとはわけが違うのよ。何か必要なものがあれば、いつでもルームサービスを呼べるんだし、広々としたペントハウスで過ごすのは、里親の家の狭い寝室で一人縮こまっていた時より、はるかにましだわ。あるいは、もっと時間を遡って、ママがリビングルームのソファで野獣に溺れている間、寝室で五感をふさぐようにして怯えていた時とは、全然違うわ。「私は平気よ、ありがとう」と私は言った。「でもこんな夜中に仕事って、何するの?」

「デスティニークラブのプライベート・ゲームパーラーに行って、麻雀テーブルを一つずつ回って、お客さんに挨拶するんだよ。大金を落としてくれるお客さんと交流することは、これからのビジネスにも重要なんだ。彼らにとっても、ボスと、つまり俺と仲良くするのは気分がいいものだから。特に、彼らが大金をすってしまった夜にはな!」

「ディスティニークラブって、カジノもあるの?」その情報は初めて聞いた。エミコがこの建物内を案内してくれた時にも、そんな言葉は出なかった。私のママが好きな映画『グッドフェローズ』を思い出した。ママと一緒に何度も見たから、台詞まで覚えている。「これでギャングの仲間入りだな―」

「エミコが言っていたが、君は猫が欲しいのか?」とケンジが私の思考に割り込むように言った。「なんで猫なんだ?」

忘れていたけど、そういえば、そんなことをエミコに言ったわね。私が東京でも猫を飼いたいって言ったら、彼女は私をたしなめるように、タック・ラグゼでペットを飼うのは禁止されてるのよ、と言ったのだ。というか、そんな雑談で出た発言まで、彼女はわざわざケンジに報告してるなんてびっくりね。もしかして、私が発言した一字一句をすべて書き留めて、レポートにして提出してるとか? ケンジがカジノからペットに話題を変えようとしているのは、私も気付いていた。でも、ここでもう一度カジノの話を振るより、ペットで押した方が得策だと感じた。ケンジから猫の話を言い出したということは、ペット禁止のスタンスを柔軟に曲げてくれるかもしれない。私は会話の流れに乗って、言った。「子供の頃に猫を飼ってたのよ。すごく可愛くて、大好きだったわ。オスの猫だったんだけど、彼が私の一番の親友だったの」

「何て名前だったんだ?」

「ハッフルパフ」

「君は本当にハリー・ポッターが好きなんだな」私はうなずいた。ケンジは片手を握り締めると、それを彼の胸に当てた。心からの同志の証ね。「俺もなんだよ。〈組み分け帽子のハリーポッタークイズ〉をやったことあるか?」

え!? この人、まじ!「あるわ。あなたも?

「オンラインで見かけるたびにやってるよ」え、私も!「何度やっても俺は、レイブンクローに入寮することになるけどな」

「私もいつも同じ答えよ! 私はハッフルパフ」

「そっか。じゃあ、君はとても忠実なんだな」

「そして、あなたは賢いってことね」

「レイブンクローとハッフルパフはすごく相性がいいんだよな。ってことを知ってるくらいには俺は賢いぞ」

私は新しいスマホを取り出して、私のメールフォルダーにアクセスし、保存してあった写真を彼に見せた。私が8歳の時、私の膝の上で眠っているハッフルちゃんの写真。「この時のハッフルパフは、まだ1歳くらい。最高に可愛いでしょ」

「誰がこの写真を撮ったんだ?」ケンジの英語はとても上手だけど、マサおじさんと同じように、節々に変な音が挟み込まれている。

私は懸命に笑いをこらえながら、言った。「ママが撮ったのよ」

「いい写真だ。君はとても可愛い女の子だったんだな」彼は私が指差す猫じゃなくて、違う部分に焦点を合わせて、写真を見ている様子だ。彼の顔に悲しげな色が浮かんだ。「実はマサが君の写真を送ってくれていたんだ。それを見るたびに、俺は幸せな気持ちになったよ」

「そうなんだ」それしか言葉が出てこなかった。いわば、彼が私の人生の中に入ってきたかった、という告白だったけれど、写真を眺めているだけで実際には入ってこなかったわけだし、私は返す言葉が見つからない。マサおじさんが私の写真を、見ず知らずのこの人に送っていたと知って、私はくすぐったいような変な気持ちになった。ケンジは前にも、写真の私に手を伸ばす感じで、本気で私に会いたいと思ったことがあるのかしら? でも実際には一度も会いに来なかったわけだから、私の写真を見て、自分の罪悪感を慰めていたのね。こんな俺は会わない方がこの子のためだ、とか、わかった風なことを思いながら。「じゃあ、猫を飼ってもいい?」

「だめだ」

まだ娘の気持ちがわかってないみたいね。

今はまだ。



チャプター 16


東京での最初の夜は長旅で疲れきっていたので、ころっと眠り込んでしまった。でも二日目の今夜は、部屋に一人置き去りにされてしまったとはいえ、体も疲れを感じてはいるけれど、この二日で経験した様々な新しい出来事が私の内側でぐるぐると渦を巻いているようで、神経が高ぶって眠れそうもない。ICS! エックス・ブラッツ! 高原家! 眠れるわけないわ。私はリビングに行って、窓から東京の高層ビル群や、夜空を照らすビルボードの数々を眺めた。街のエネルギーがふわっと風に乗り、私が一人寂しく過ごす49階の止まり木まで立ち昇ってくるのを感じた。誰かと一緒にいたい。誰かがいれば楽しく過ごせるのに。

東京は午後11時だった。ということは、メリーランド州は今、金曜日の午前10時。そうだ! この時間レジーは、昼食前の自習時間で図書室か、コンピューター室にいるはず。彼が学校のコンピューターで私からのメッセージをチェックしてくれれば、Gチャットでやり取りできるわ。今ビデオチャットできる? あなたはきっと信じないでしょうけど、見せたいものがあるの!

彼からの返事を待つ間、何はともあれやってみたかった事をした。つまりルームサービスのことなんだけど、私は壁に付いてる受話器を上げると、0をダイヤルした。男性の声が応答し、まず日本語で、それから英語で話してくれた。「こんばんは。どんなご用でしょうか?」

「コンシェルジュ・デスクのデーブさんですか?」

「そうですよ。何をお持ちしますか?」

「日本にもアイスクリーム・サンデーはあるの?」

「もちろんありますよ。生け花カフェから、あなたの部屋に届けさせます。それでいいですか?」

「はい、お願いします!」

「何味にしますか?」

おまかせ!」と私は日本語で言った。「あなたが選んで」

彼が受話器の向こうで笑うのが聞こえた。それから彼は言った。「10分でお持ちします」このデーブという男は、異国の地に降り立った魔法使いかしら。

「ありがとう!」

私は寝室に入った。窓にカーテンが掛かっていない。これでは、どこかのビルからこの部屋の中が丸見えじゃない、と思ったところで、窓際のボタンが目に入り、押してみた。すると、天井から自動でブラインドが降りてきて、私はびっくりして、飛び退いてしまった。凄い仕掛けだわ! 私はさらに目が覚めてしまう。

私のスマホが着信音を発して、レジーからのビデオ通話を知らせた。私は通話ボタンを押す。「オーマイガー! レジー・コールマン!

レジーの顔が私のスマホ画面に映し出された。私たちはGチャットでメッセージのやり取りはしていたけれど、私が里親の家に行ってから、一度も彼の顔を見ていなかったから、久しぶりの対面だ。彼の上唇の上にはうっすらと口ひげが生えていて、若者から大人の男への階段をまた一段登った感が顔から滲み出ている。髪はレイザーカット風に短く切り揃えられていて、彼の深みのある茶色の瞳が、その髪型により、いっそう引き立っている。彼の普段は薄い茶色の肌は、最近日光をよく浴びているのか、前より濃い茶色に見えた。彼がたっぷりと水泳の時間を確保できている証ならいいな、と思った。泳いでいる時の彼が、一番幸せそうだから。

エル・ゾエルナー!」背景から、彼が学校のコンピューター室にいることがわかる。「いったいどんなクレイジーなことが起こって、日本に行くことになったんだ?」

「本当にクレイジーな話よね。私の担当の社会福祉士さんがやって来て、それから、マサおじさんと一緒に日本へ、―」

「その人って、俺たちがまだ子供で、同じチームで泳いでいた頃、たまにプールに来ていた人?」

「そう! その彼が、私の実の父親のいとこだったのよ。で、彼に勧められて、私は父親と暮らすことにしたの。ほら、ママはまだ当分の間、一緒に暮らせないから」

「君の言いたいことはわかるよ」

彼は私より2歳年上で、あと数ヶ月後には18歳の誕生日を迎える。それはメリーランド州にいた頃の私より大変な状況だともいえる。ほとんどの10代の若者にとって、18歳になるということは、大きな意味を持つから。法的に自由に自分で何でも決められるばかりでなく、責任も押し付けられる。彼は、今は身寄りのない子供のための「ホーム」で暮らしているけれど、18歳になったらそこを出て、独り立ちしなければならない。心の準備ができていようがいまいが、上手くやっていけるだけの器量があろうとなかろうと、ぽいっと世の中に放り出されてしまう。

「あなたもこっちに来て、東京で暮らしましょうよ」と私は提案した。

「は? 俺なんかがのこのこ行ったら、君の新しい父親は、さぞかし喜ぶだろうな。それより、カメラをぐるっと回して、君がどんなところに住んでるのか見せてくれよ」

「これを見て」と私は言って、窓際のボタンをもう一度押した。ブラインドが自動で上がるのをレジーに見せる。東京の摩天楼が徐々に、二人の目の前に広がっていく。

「おぉ、すげぇな。素晴らしい。ずっと眺めていたいけど、先生がもうすぐ戻ってくるんだ。この通話ができるのも、あと2、3分かな。他に何を手に入れた?」

次に向かうべき場所はちゃんと頭に浮かんでいた。「見て、私専用のバスルームよ!」と私は宣言して、スマホのカメラをバスルームのドアに向け、ドア横のスイッチに軽く触れて明かりをつけた。「私の部屋の中なのよ!

「マジかよ」

「マジなのよ!」私はスマホを持ったまま、バスルームに入っていった。まさか私の寝室に、こんなに贅沢な個人的空間を持てるなんて、生まれてから一度だって、夢にさえ思ったこともなかったわ。バスルームは、アリスが不思議の国に落ちていったウサギの穴みたいに思えたけれど、これはサンタクロースがくれた贈り物で、幻想世界には繋がっていない穴なんだから。シャワー室のガラス扉を開けると、小さな部屋がすっぽりと入りそうなくらい広い空間になっている。「水圧も完璧だし、いつでも好きな時に温かいシャワーを浴びられるの」

「羨まし過ぎるな」

私はシャワー室からバスルームの脱衣室に戻ると、大理石でできた洗面台をレジーに見せた。ピカピカの鏡が壁一面を覆っている。収納棚を開けて、中も見せた。タオルがぎっしりと詰まっている。その柔らかくて、贅沢な肌触りは、私がくすねてきたあのタオル以上だった。ダレス国際空港のファーストクラス・ラウンジの浴室にあったタオルが、あれだけ感動したっていうのに、今では二流のタオルに思えてしまう。別のクローゼットの引き戸も開けた。そこにあったのは...

乾燥機付き洗濯機?」とレジーが驚きの声を上げた。

そうよぉぉぉぉ!

男子は普通、洗濯機なんかにそんなに興奮しない。それくらい私も知ってる。ただ、私たちみたいに里親の家とか施設で生き延びてきた子供にとっては、洗濯は切実な問題なのだ。自分の服をいつ洗えるのか、そもそも洗うことが叶うのか、そんなことばかりを気にして生きてきたのだから。「レジー、ここを開けると、最大の見どころよ」

「まさかトイレは見せようっていうんじゃないだろうな」

「おお、その通り! 凄いんだから、ちゃんと見ててね」

私はまだ2日しか東京で暮らしていないけど、すでに日本のトイレのとりこになっていた。玄関ホールのように広々としたトイレの個室に入っていく。壁には操作パネルがあって、「TOTO」というロゴが刻まれ、ボタンがいくつもついている。ボタンにはそれぞれの機能を表すシンボルマークと、日本語の文字表示もある。私は最新のゲーム機を実演紹介するナビゲーターになったつもりで、操作パネルのボタンを解説していった。「このボタンを押すとね、お尻に水がプシューッと噴射されるのよ! ここを押すと、鳥のさえずりが聞こえるの。森林の中で癒されてるような、心地よい気分になるわ。あなたも一度経験してみるとわかるわ。このボタンを押すと、便座がお尻をじんわりと温めてくれる! さて、これは何のボタンでしょう?」

「ロボットが代わりにおしっこしてくれるとか? 薬物検査に引っ掛からないように」

「ほぉ、それもいいわね! でも残念、芳香剤が個室全体に噴霧されるのよ! ほら、うっとりするような、泡風呂の中みたいな香りがするでしょ、って匂いまでは伝わらないか」

私はスマホの向きを変えて、自分の顔が映るようにした。レジーの顔も見える。彼が呆れた顔で首を横に振りながら、「トイレ情報多すぎ」と言った。

「絶対、あなたも一度体験すれば、このトイレの素晴らしさがわかるわ」

「死ぬまでにやりたいことのリストに加えとくよ。1:歌手のリアーナと結婚。2:日本のトイレを体験」

玄関のインターフォンが鳴った。思わず私は、キャーと歓声を上げてしまう。「来たわ。見てて」

私はレジーも玄関の様子が見えるように、スマホのカメラをアウト側に切り替えてから、玄関に向かった。制服を着たウェイターが私に向かってお辞儀した。デーブではなかった。銀色のドーム型ボウルが上にのったカートを押して、玄関の中に入ってくる。「どちらまで運びましょうか?」と彼が私に聞いてきた。

「俺のお腹の中まで頼むよ!」とレジーがスマホ越しに叫んだ。

「ダイニングテーブルまでお願いします」と私はウェイターに言った。

彼は銀色のドーム型ボウルをダイニングテーブルの上に置くと、お辞儀をして、去っていった。

私はレジーに見えるようにスマホをかざしながら、銀色のドーム状のふたを持ち上げた。中には、綺麗な球状のバニラアイスクリームが3つ、ガラスの器にのっていた。アイスの側面から、とろりとチョコレートソースがしたたり落ちている。さらにホイップクリーム、刻んだナッツ、マラスキーノ・チェリーがアイスの上にのっていた。

レジーが言った。「いったい君は今どこに住んでいるんだ? もしかしてバッキンガム宮殿か?」

「お父さんがホテル事業の経営者だってわかったの。東京の高層ビルに住んでるのよ。49階!」

「もう一度見せてくれ!」

私はリビングルームに走り、レジーのリクエストに応えて、東京の摩天楼を見せた。さっきよりスマホを窓に近づけて、彼がよく見えるようにする。「俺が日本の沖縄に配属されたら、必ず君に会いに行くよ」とレジーが言った。

私は再びスマホを自分の顔に向けた。「それってどういう意味?」

「親父と同じ道をたどることにしたんだ。高校の卒業証書をもらったら、すぐに入隊する。軍の採用担当の人にも会って、もう話をつけてある。誕生日を過ぎたらすぐに、基本的な訓練に参加することになってる」

私はソファにドスンと座った。それは大きな告白だった。彼が人生の大きな決断を私に知らせようとしている時に、私はくだらない日本のトイレなんか披露してしまった。

「3年生の最後まで学校に通わないってこと?」

「12月の早期卒業を認められたんだ。身寄りのない子供の特権だよ、知ってるだろ」

それを特権といえるのかどうか、私にはわからない。軍隊に入るために高校を早めに卒業しても、もしレジーがすぐにアフガニスタンとか、イラクとか、戦争状態にある恐ろしい場所に送られちゃったら、どうなるの? 私は胸のうちで静かな祈りを捧げた。どうかレジーが日本に配属されますように。日本でなくても、どこか安全な場所に。彼はもう十分に大変な人生を歩んできたでしょ。

私は自分がどれほど幸運であるかを改めて実感した。

「それは凄いね」と私は言った。レジーは今いる施設を追い出されても、ちゃんと行く先を見つけたんだ。彼は自分の手で未来をつかんだ。でも、もしレジーが戦争をするために出陣したら、恐ろしい未来が彼を待っている。

「君のお父さんはどんな人?」とレジーが聞いた。

「1ヶ月後にまた聞いてちょうだい。今はまだ彼のことほとんどわかってないの。なんか、前はアルコール依存症だったって言ってた。だから父親にはなれないって思ってたんだって。彼はちょっとお堅い人って感じね。でも優しくて、面白いわ。四六時中働いてるけど」

「彼が金持ちなら、君はちゃんと面倒を見てもらえるな。何よりそれが一番重要なことだからな。先生が戻ってきちゃったから、切るぞ」

「ここにはプールもあるのよ、レジー」

彼が画面上でにっこりと微笑んだ。「なら絶対、君に会いに行くよ。じゃあな、シンデレラ」



チャプター 17


土曜日の早朝だった。私はぐっすりと深い眠りについていたのだが、どこからともなくガタガタと、私を揺り動かして起こそうとする音が聞こえてきた。眠っている私をそんな風に揺さぶるなんて酷いわ、と思いながらも、体は反応しなかった。目を開けようとしても、まぶたは閉じたまま開かない。私は眠りと目覚めの、世界のはざまに閉じ込められてしまった。そんな素敵な夢を見ていた。私が寝ているのは、グリーンベルトの家のベッドね。ママが野獣と出会う前に住んでいた家。居心地が良くて、快適で、ハッフルちゃんが私のそばでゴロゴロと喉を鳴らしている。そこに、貨物列車がガタゴトと近づいてくる音がした。その振動で私のベッドがぐらっと揺れる。列車はどんどん近づいてきて、音もどんどん大きくなる。私の目がぱっと開いて、がばっと上半身を起こした。何なのこれ? 部屋が実際に揺れていた。夢ではなかった!

私はベッドから飛び降りた。ナイトスタンドの上でグラスが揺れ、私の飲みかけの水が中でぐるぐると渦を巻いている。クローゼットの中に隠れなくちゃ、ベッドの下の方がいいかしら? 私の頭の中もぐるぐると渦を巻いていた。すると、揺れが和らぎ、ガタガタという音もやんでいき、やがて完全に止まった。

オーマイガー! これって...

怖がっている私に追い打ちをかけるように、女性の声がどこからともなく聞こえてきた。日本語で何かを言っているようだったが、大声で話しかけてくる幽霊みたいに聞こえ、びっくりしてしまう。私はすでに地震で心臓発作を起こしそうだったというのに、この謎のレディーはどこから私に話しかけて来るの? 声の出どころを探そうと視線を上げると、天井近くの片隅にインターホンのスピーカーが見えた。彼女はひとしきり日本語で話した後で、ようやく英語に切り替えてくれた。日本人訛りが強烈な英語だったが、彼女の声は心地よかった。「まだ小さな余震が続いていますが、パニックを起こさないでください。落ち着いて、今いる場所に待機していてください。現在、メンテナンスチェックを行っています。エレベーターが復旧しましたら、改めて放送します」

地震があったらしい。どこかから女性が私に、パニックを起こさないで、と言っている。あなたは誰? きっと、天井の中の透明人間ね。きっとそうよ。

私はリビングルームに急いで行き、大きな窓から外を眺めた。道路の状況を確認する。眼下を行き交う歩行者からも、車の流れからも、慌てた素振りやパニックは見受けられない。通常通りの生活が進んでいる感じだ。窓の外の街全体が、ああ、たしかにちょっとは揺れたけど、だから何? そんなのどうってことないわ、と言っているようだった。

ケンジがリビングにやって来た。青いパジャマを着ている。彼の髪は少し乱れていた。彼がスーツ以外のものを着ているのは、なんだか違和感がある。私はピーチ・ジョンのショートパンツを穿き、タンクトップを着ていた。急にその姿が恥ずかしくなり、上に何かを羽織りたくなった。一応家族なんだから、寝る時の格好で気兼ねなく一緒に過ごしたっていいはずなのに、私たちはまだ、実質的に他人ってことね。

彼が言った。「地震はどうだった? よく揺れただろ?」

「よく揺れたってどういう意味? びっくりして怖かったけど」

「地震は初めてか?」

「だったら何なのよ」

「顔が真っ青だぞ」

「そうよ、初めてよ。なるべくなら、今回で最後にしてほしいわね」

「これから『初めて』をいっぱい経験するぞ」とケンジは言うと、リビングルームの壁にあった取っ手を引いた。中は収納棚のようになっていた。壁にクローゼットが入り込んでいるなんて、私は気づきもしなかった。「この中に緊急時の備品が入ってる。そんなに大きな地震でなければ、真っ先にやることは、すぐにテーブルの下とかに隠れて、自分の腕で頭を覆うんだ。物が落ちてきて頭に当たらないようにな」

「パニックになった心臓はどうするの? 心臓に当てる救命道具とかあるの?」

彼は笑った。「地震でパニックになる必要はない。地震なんて年がら年中あるし、大抵はそんなに大きな地震じゃない。心の準備をしておけばいいだけだ。よく眠れたか?」

「そうね、数分前まではね」

「それは何よりだ」

そこで二人とも黙り込んでしまった。パジャマ姿の二人の他人が向かい合っている空間は、妙な感じで、こそばゆい。

いたたまれなくなって、「今日の予定は?」と私は聞いた。週末だった。私は今すぐにでも天国のような浴室でシャワーを浴びたい気持ちでいっぱいだった。シャワーを浴びたら、新品の高級なお洋服を着て、ケンジ・タカハラと一緒に街を歩くの。きっと彼は楽しすぎて、私が里親の家からこっちに来たばかりだとか、私の母親が刑務所に入ってるとか、そういうことは忘れちゃうわ。私はわくわくしていた。窓の外に広がる、太陽の日差しを反射してキラキラ煌めく街が、新しいカップルみたいな私たちを受け入れようと手招きしている。早く外に出かけたい。

彼が言った。「今日は建築士とビルの視察に行くんだ。その後、いくつか会議が入ってる」

週末なのに?

「俺の仕事は週末だからって休めないんだよ。雇われてる身じゃないからな。キミが君のために、今日の夕方にヘアーアレンジの予約を取ったそうだよ。その後、また一緒にディナーを食べよう。エミコがスケジュールをメールで送ってくれるはずだ」

内心残念で仕方なかったけれど、失望感を顔に出さないようにした。「じゃあ、私は夕方まで何をしてたらいいの?」まだ宿題も出てないわ。

「イモジェン・カトウにメールしてみたらどうだ? 街を案内してくれるかもしれないぞ」


・・・


ケンジが仕事に出かけた後、私は全身の勇気をかき集めて、イモジェンにメールした。なんていうか、彼女は私に携帯の番号を教えてくれて、いつでもメッセージを送っていいよ、と言ってくれたし、それは口先だけって感じでもなかったし。

こんにちは、イモジェンさん。土曜日っていつも何してるの? それって私も一緒にできるかな? ハグとキスを込めて エルより

5分待った。返信はない。汗をかくし、緊張するし、お腹も空いてきた。とりあえず私は朝食を食べに出かけることにした。せっかく東京の街に繰り出すんだから、スマホはここに置いて行こう。スマホを持ってると冒険の邪魔になるし、イモジェンからの返事をずっと待つ感じで、チラチラ見ちゃうから。それに、もし本当に彼女から返事が来て、内容が、なんであんたなんかが私にメールしてくんのよ? 負け犬のくせに、とかだったらどうしよう...

できることなら、美味しい日本食は一休みしたかった。タック・ラグゼのシェフではない人が作ったものを食べたかった。砂糖がたっぷり入っていて、含まれている栄養素に噓偽りのない、昔ながらのアメリカンシリアルを思う存分食べたかった。まあ、それはここでは無理かもしれないわね。エックス・ブラッツの子たちはみんな、コンビニ弁当を美味しそうに食べていた。そういえば、大通り沿いにセブンイレブンを見た気がする。このハーモニータワーの下の方の階には、いろんな会社のオフィスが入っていて、大通り沿いの1階の入り口からはたくさんの人が入って来るのよね。私はそっちの表側ではなく、タック・ラグゼ用の裏口から出て、脇道を歩いていった。角を曲がってオフィスビルの入り口まで来ると、私が一人でタック・ラグゼを離れるのって、これが初めてだと気づいた。英語を話せる人に付き添ってもらわずに、私は食べ物にありつけることができるかしら?

私はセブンイレブンに入っていった。セブンイレブンはアメリカにもあるから、店内の様子はそれなりに馴染みがあった。いくつかの通路に分かれていて、棚には手間のかからない食べ物がぎっしりと詰まっている。ただ、商品のパッケージはすべて日本語だった。生鮮食品のコーナーには、細かいことにこだわり過ぎって感じもしたけど、容器の中に綺麗に詰め込まれたお弁当と、麵類が並んでいた。というか、この店ってセブンイレブンなのに、おしゃれすぎない? もしかして、これが本来のセブンイレブンのあるべき姿で、アメリカ版のセブンイレブンが、ずさんでだらしないってこと? 私は瓶に入った豆乳と、バナナを一本と、それから、使い捨ての容器に入ったシリアルっぽい食べ物を選んだ。パッケージに書かれている日本語の文字もカラフルだから、きっと砂糖たっぷりのシリアルよね。私はそれらを抱えて、レジに向かった。若い店員さんがお辞儀をして、「ハロー!」と、明るい笑顔を私に向けた。

「こんにちは!」と私は日本語で返した。

するとその店員さんは、私が日本語を話せると思ったのか、日本語で話しかけてきた。私は全力で耳を傾けたけれど、聞き取れない。たぶん、君ってかなり日本人っぽい顔してるけど、アメリカ人なんだ! とか、君ってシリアル好きなんだね! みたいなことを言ったっぽい。

私は首を横に振って、申し訳なさそうな顔をしながら、「ノージャパニーズ」と言った。

その店員さんも首を横に振って、温かい笑顔で言った。「僕も英語はだめなんだ。ハローと、サンキューと、バスルームしか知らない」そう言いながら彼は、店の奥のレストルームっぽいドアを指差している。お風呂は付いてなさそうだけど。

彼は私が持ってきた商品に、ピッピッとバーコードを当てていった。私は新しいアメリカンエクスプレスカードを差し出した。いまだに、このプラスチックのカードが買い物の代金をお金の代わりに支払ってくれるとは信じられない。なぜか、彼がそれを受け取ろうとしないから、私は一瞬不安になってしまう。それから彼が、財布と同じくらいの大きさの小さなトレイを差し出してきた。そこで私は、エミコにもらったバインダーに載っていた規則を思い出した。日本で何かを買う時に、店員さんに直接お金を渡すことは失礼だと見なされるんだっけ。たしかトレイに置く必要があるのよね。私はアメックスカードをトレイに置き直した。彼は、今度はすんなりそれを手に取り、レジの機械にカードを通すと、商品を袋に入れ、ナプキンとプラスチック製のスプーンも一緒に入れ、クレジットカードをトレイに戻し、すっと差し出してきた。彼が私にお辞儀をし、私も彼にお辞儀を返す。なんだか可笑しくなってしまう。アメリカでずっと当たり前だと思ってきた小銭のやり取りをせずに、買い物をしてしまった。でもやっぱり、実際にお金を出してお釣りをもらった方が、実感が伴っていい気もする。だけど、これはこれで一つの大きな進歩よね。私は言葉も喋れない国で、右も左もよくわからない場所で、クレジットカードを使うのも人生で初めてだったけれど、ちゃんと買い物ができたのだ。

私はタック・ラグゼに戻り、55階の〈スカイガーデン〉までエレベーターで上がり、このタワーの最上階で朝食を食べることにした。エレベーターを降りると、目の前に絶景が広がり、ママにもここからの景色を見せたくなった。あなたが愛した男は、こんなに凄い宮殿を所有してるのよ! 絶対ママは感激して、泣いちゃうかもしれないわ。でもママのことは考えないようにしましょ、私がここで贅沢な暮らしをしているこの瞬間にも、ママがどこで何をしているのか、そういうことを考えだしたら、暗い気持ちになっちゃうし。〈スカイガーデン〉は緑に囲まれたガラス張りの空間で、森の中にいるような居心地だった。遊歩道もあって、歩いていると、世界中のいろんな植物が目を楽しませてくれた。小さなプラカードには、それぞれの植物の名前と説明が日本語と英語で書かれていた。天井もガラス張りになっていて、55階のフロアがまるで空に浮かんでいるかのように感じ、手を伸ばせば、ガラスを通り越して雲をつかめるんじゃないかと思うほど、空が近くにあった。

〈スカイガーデン〉の奥の方まで歩いて行くと、小さなテーブルがいくつか置かれていて、その一つにアケミが座っていた。数学の教科書を広げて勉強している。彼女は上品で露出の少ない白のワンピースを着ていた。長い袖にはフリルが付き、膝丈のスカートまでレース編みになっている。視線をさらに落とすと、靴はつや感のある黒のメアリージェーンで、床には学校指定のリュックサックが置かれていた。リュックには、「ICS-東京」というロゴマークだけでなく、パステルカラーの色とりどりのリボンや、レースのフリルがあしらわれている。もう一人、アケミの隣には、30代前半くらいの女性も座っていた。彼女は長身のすらっとした美女で、その美貌はこちらが身構えてしまうようでもあり、彼女の黒い目が発する鋭い眼光に、私は体を撃ち抜かれたような感覚に襲われた。

アケミが言った。「おはよう、エル」彼女は私を見ても、別段感激したそぶりを見せなかった。まあ、大げさに反応するアメリカ人の陽気さに私が慣れ切っているから、味気なく感じただけかもしれないけど。

「ハイ!」と私は返した。

アケミが言った。「こちらは私のお母さんよ」その女性が私に頭を下げてきたから、私も同じように頭を下げた。

「初めまして、ミセス・キノシタ」と私は言った。

ミセス・キノシタは何も言わなかった。「彼女は英語が話せないのよ」とアケミが説明してくれた。

アケミのママはニコリともせず、空いている椅子に手を伸ばして、私に座るように促した。私がそこに腰を下ろすと、アケミは母親に日本語で何かを言っていた。するとミセス・キノシタは立ち上がり、私たちを残して行ってしまった。

アケミが言った。「彼女は泳ぎに行ったわ」〈スカイガーデン〉に隣接するエリアにプールがあるのは私も知っていた。本格的にラップタイムを計って練習するには小さすぎるプールだけど、もしイモジェン・カトウから返事が来ないようなら、午後はヘアーアレンジの時間まで、私も泳ごうと思ってる。私ったら、いったい何を期待していたんだろう? イモジェンが休日に私とつるんで過ごすわけないじゃない。初日に校内を案内してくれたのは、学部長先生に言いつけられたから、仕方なくだったのね。アケミが付け加えた。「それから私の母親は、ミセス・キノシタじゃないわ。彼女は英語が理解できないから、あなたが間違った名前で呼んでも、問題はないけど」

「え、じゃあ、彼女は?」私は混乱して聞いた。

「ワタナベさん。本当のミセス・キノシタは大阪に住んでる。私の父親の正妻と一緒に、女同士で暮らしてる」アケミは何でもないことのように、込み入った事情を私に伝えた。「彼女はすごく年を取ってるから」

「そうなんだ! 彼女はあなたのこと知ってるの?」

「うん。そういうわけで、私たちは東京に住んでるの」

なんだか、私の家族は複雑なんだと思い込んでいたけど、世界って広いのね。



チャプター 18


イモジェンから返信が来ていた!

土曜日はいつも空手を習ってるんだけど、今日に限ってトレーナーがインフルエンザで休みなのよ。彼はつらそうだったけど、あなたにはラッキーだったわね。一緒に銀座に行きましょ!

イモジェンと私はタック・ラグゼの36階のロビーで待ち合わせた。彼女はヴィンテージなのか、擦れたデニムジーンズを穿き、Tシャツもかなり着込んでいるのか擦り切れ気味で、胸のところに「My Daughter Goes to Wellesley(私の娘はウェルズリー大学に通っている)」とプリントされている。彼女はTシャツの上にバイク用のレザージャケットを羽織っていて、ジャケットの両そでの部分には、片方にシャル、もう片方にはカトウの文字がグラフィティーアートっぽい字体で刺繡されている。顔を見ると、ラメ入りの鮮やかな紫色のアイシャドウが両目を縁どり、黒の口紅を塗っている。なんだか彼女の顔が、とてもスタイリッシュな傷み方をした果物みたいに見えた。彼女は〈生け花カフェ〉からの景色を見たがった。私は彼女が今ここにいることが信じられなかった。だって彼女には何の得るものもないのに、彼女が望んでここまで来てくれたんですもの。この世間知らずの私に会うためだけによ。私なんて東京に来るまで、an expat(海外居住者)がどんな人を指す言葉なのかさえ知らなかったんだから。

「ここの〈ディスティニークラブ〉だったら、素敵なパーティーが開けるわね」とイモジェンが言った。

「そうね」私はまだ、人生で一度もパーティーを開いたことがなかった。パーティーを主催するにはどうしたらいいんだろう? 見当もつかないわ。っていうか、ここでパーティーなんて、OKが出るかしら? 「それで、どこへ行きましょうか?」

「まずランチを食べましょ。お腹が空いてたら何も始まらないわ。PASMOカードは持った?」

「ちゃんと持ったわ」

「東京の地下鉄は? まだ乗ってない?」

「初めて」

「この辺りを回るなら、地下鉄が断然速いし便利よ。エックス・ブラッツの他の子たちは『地下鉄なんか』って言って使わないけど、耳を貸しちゃだめ。タクシーとかUberを使うのは邪道だし、体もなまって、精神の鍛錬にもならないわ」私にだけ、そんな本音っぽいことを言ってくれて、私は感激のあまり死ぬかと思った。それに、私もエックス・ブラッツのメンバーに入ってるみたいだし! 他の子たちは面倒くさがりで、精神がなってないらしいけど。

イモジェンにナビゲートされて、タック・ラグゼから数ブロックを歩いた。それから地下鉄の駅を目指して階段を下りていった。地下の通路は、果てしなく続くんじゃないかと思うくらい長かった。(しかも、他にも果てしなく続く通路が何本も枝分かれして繋がっている。)通路の両脇には、コンビニ、新聞とか雑誌が立て掛けてある売店、それに小さなレストランも並んでいた。地下通路にはたくさんの人が歩いていたけれど、人の流れは整然としていて、決まり切ったラインの上を歩いているようだ。左側通行らしく、右肩越しに人々が通り過ぎていく。なんか車みたいだ。制服を着た子供たちがたくさん歩いていることに気づいた。イモジェンに聞いてみる。「なんで土曜日なのに、みんな制服を着てるの?」

彼女は答えた。「日本には、土曜日も授業がある学校がたくさんあるのよ。学校によるけど、第2と第4土曜日は授業があるとか、大体そんな感じゃないかしら。もしかしたら、授業はないけど、学校の自習室でテスト勉強をするとか、修学旅行で東京に来てる子たちもいるんじゃない。それにね、日本人は制服が好きなのよ。着る必要はないけど、外出する時は制服を着るっていう子もたくさんいるわ。制服を着ていれば、『学生』だって示せるじゃない。―社会の中の立場みたいなのを周りの人に見せつけるっていうのかな、それが日本式なのよ。私は週末に制服なんか絶対着ないけどね」

「でも、あなたのお母さんがICS東京の制服をデザインしたんでしょ! 凄く格好いいって私も思ったわ、制服にしてはね」

彼女はくるりと両目を回した。「度が過ぎるのよね」

「度が過ぎるって何が?」

「さあね。主張が強すぎるっていうか、可愛すぎるっていうか、いかにもブランド物って感じがするのよ」そう言いつつも、彼女が着ているレザージャケットのそでには、彼女の母親のブランド名がこれ見よがしに燦然と輝いているから、ちょっと可笑しくなる。

私たちは地下鉄の改札口に着いた。イモジェンが先導するように、PASMOカードをかざして改札に入っていった。私も彼女を真似してカードをかざし、後に続いた。改札口になだれ込む人の波は、階段を上って、駅のホームまで途切れなく続いている。私は圧倒されてしまった。こんなにもたくさんの見知らぬ人たちに揉みくちゃにされて、何が何だかわからなくなり、気が動転しそうだった。そんな私とは対照的に、イモジェンは人の波に乗るプロなのか、私の手を取ると、すいすいと進んでいく。電光掲示板には日本語だけでなく、英語も書かれていて、ちょっと安心した。私はワシントンDCの地下鉄には実際に乗ったことがあったし、―他は話で聞いただけだけど、ニューヨークやロンドンみたいな大都市の地下鉄も、なんとなくどんな感じかは知っていた。しかし、東京の地下鉄は、ホームも車両も、清潔感が溢れていてびっくりした。地下鉄っていったら大体、なかなか来ないし、車両は薄汚れてるし、車内も病気になるんじゃないかと思うほど空気がよどんでいて、不快感の代名詞みたいな印象しかなかったんだけど、ここの地下鉄はまるで違った。除菌されているんじゃないかと思うほどきれいで、しかも乗客は乗車口の両脇にちゃんと並び、下りる人たちとかち合わないように待っている様子だ。ホームレスの人たちがホームで横になっていたり、悪臭がしたり、ゴミ箱がゴミで溢れていたり、なんてことが当たり前だと思っていたけど、ここではそれが見当たらない。我先にと押し合いへし合いしている様子もないし、みんな目に見えないレーンに沿って整然と電車の到着を待っている。ただ、これだけ多くの群衆を収めるには、乗り込み口が小さすぎるように見えたけど。

電車が停まり、人々がどっと降りてきて、それを両脇で乗り込む人たちが見守っている。イモジェンが私の後ろから、さあ今よ、と言って、そっと私の背中を押し、地下鉄に乗り込んだ。私たちはサンドイッチの具材になったんじゃないかと思うほど、強烈な勢いで中へと押し込まれてゆく。知らない人たちに密接しすぎて居心地が悪かったけど、全く動揺していない様子のイモジェンと離れないようにしながら、パニックになりそうな状況をやり過ごそうとした。もうこれ以上一人も、この車両に入り込む余地はないと思われた時、白い手袋をした駅員がドアの外に立ち、まだしっかり入り込めていない人たちを押し込んだ。彼らがぎゅっと中へ詰め込まれ、なんとかドアが閉まった。

私はイモジェンに言った。「もしワシントンDCの地下鉄で、あんな風に駅員が力任せに乗客を押したりしたら、きっと暴動が起こるわ」

大声で話しているつもりは全然なかったんだけど、イモジェンが人差し指を口に当てて、「シー、静かに」と声を潜めて言った。「地下鉄では小声で話さないとだめよ。それがエチケットなの。あと、電車の中では絶対に携帯電話で話しちゃだめ。日本にはやっちゃいけないことの暗黙のルールがあるのよ」そう言われても、こんなぺしゃんこの状態では、スマホを引っ張り出すことすらできないわ。

私の足に何かが当たってると思って、そちらを見ると、大きな買い物袋をいくつか提げた年配の女性が私の体にピタッと密着している。彼女の顔は私の目と鼻の先にあり、今にもくっつきそうだ。彼女の口は、耳の後ろからゴム紐でとめられたマスクで覆われていた。「どうしてこんなに多くの人が、手術中のお医者さんみたいにマスクをしているの?」私はイモジェンの耳元でささやいた。この女性だけではなかった。私が周りをざっと見た感じだと、地下鉄の乗客の少なくとも半数の人が、オペ中みたいなマスクで顔を覆っている。―老いも若きも、誰もがことさら具合が悪そうにも見えない。

イモジェンが言った。「彼らはばい菌から身を守るためだけじゃなくて、あなたのことも心配してるのよ。もし彼らが風邪を引いていたら、風邪の菌をまき散らしたくないわけ」

「すごく礼儀正しいのね」

「心配性を通り越して、不安障害レベルね!」

大勢の人たちに四方八方から押しつぶされていた。望まずして肉体が密着している状態から何とか気を逸らそうと、私は彼らの頭上に視線を上げた。地下鉄の天井付近の壁には、ちょうど目がそこに向いてしまう高さに、カラフルな電子広告があり、アニメの展示会や、レストランや、美容製品を宣伝していた。扉の上には電子的な路線図もあり、現在この電車がどの駅とどの駅の間を走っているのかがわかるようになっている。電子広告の一つが美術展らしき写真を連続で表示した時、イモジェンがうめくような声を上げた。それらはエロチックな彫刻の写真で、どの彫刻も鮮やかな色のペンキをかけられたみたいに、鮮烈な色を放っている。―お尻も胸も足の付け根も、派手なピンクや、ネオンイエローや、目を刺激するパープルのしぶきが渦を巻いている。イモジェンが言った。「パパはああいう芸術作品を偏愛してるのよ」

ちょっと意味がわからなかった。「ああいうクレイジーな彫刻が好きってこと?」

「あれはパパの彫刻なのよ」電子公告が展示会の名前を英語で表示した。アキラ・カトウ:官能の虹。

気まずさが私の全身を襲った。パジャマ姿のケンジ・タカハラを見た時の気まずさに似ていた。

女性の声で車内放送が流れ、次の停車駅を告げた。彼女は日本語に続いて英語でも繰り返した。「日本橋!」その声はとても快活で、まるで「ディズニーワールドに到着しましたよ」と言っているかのような口ぶりだ。イモジェンが言った。「降りるわよ。さあ、エル。行って!」

この駅では降りない人たちの間をかき分け、私はドアに向かって進んだ。何人かの足を踏んづけちゃったし、誰かのスーツケースにつまづいて転びそうになりながらも、なんとか外に出た。一旦人混みを避けて、ホームの壁際で呼吸を整える必要があった。「激しかったわ」と私は言った。

「こんなの何てことないわ。ラッシュアワーの混雑ぶりを見たらびっくりするわよ」

「じゃあ、私はUberを使おうかな」

「私もたまには使うわ」とイモジェンが打ち明けるように言った。「ただ、渋滞につかまるとイライラするのよね」

私たちは出口に向かって歩いて行った。ホームの端の方まで行ったところで、足元に日本語で目立つ文字が書かれているのに気付いた。日本語の下に英語で「WOMEN ONLY」と書かれている。

「女性専用?」と私は聞いた。

イモジェンが答えた。「今じゃなくて、夜遅くに、プラットフォームのこの位置に停車する車両が、女性専用なのよ。昼間は礼儀正しいサラリーマンでもね、仕事帰りに居酒屋とかに寄って、べろんべろんに酔っ払って地下鉄に乗り込むと、痴漢みたいに女性に絡み出す人もいるから」

ママがしょっちゅう愚痴をこぼしていたのを思い出した。レストランのシフトが遅番の時、帰りの地下鉄でママはいつも、酔っ払いにしつこく言い寄られていたらしい。こういう、女性が快適に乗れる車両がワシントンDCの地下鉄にもあったら、ママはさぞかし喜んだでしょうね。今頃ママは牢屋の中で何をしているのかしら? 私はこうして、ファッション雑誌に載っちゃうような女の子と、東京をぶらぶら歩き回っているっていうのに、なんだか胸がぎゅっと締め付けられた。

「あなた、大丈夫?」駅の構内を歩きながら、イモジェンが聞いてきた。彼女が立ち止まって、私の両腕をつかんだ。「東京は最初は、威圧的で怖いと思うけど、そのうち慣れるから大丈夫よ。どうしてそんな悲しい顔をしてるの? アメリカに彼氏を残してきたとか?」

「そうじゃない」と私は言った。私はまだ、男の子とキスさえほとんどしたことがなかった。でも、そんなことをこの子に、天真爛漫なまま俗世間にまみれちゃったような子に、言っても仕方ないわね。「地元に残してきたのは、親友の男の子よ。彼氏じゃなくて、お兄ちゃんって感じ」

「彼の写真あったら見せて」私はポケットからスマホを取り出し、レジーと私が一緒に写っている写真をイモジェンに見せた。2年くらい前に撮ったもので、水泳の練習の後、二人並んで飛び込み台の上に座っている。「この感じだと、彼氏になる可能性が十分あるわね」とイモジェンが、次の停車駅を告げるみたいに言った。

「せっかくいい思い出なのに、そうなったら、あの頃の友情が台無しになっちゃうようで、怖くて無理ね。あなたは彼氏いるの?」

「今週は、いないわ」

私たちは混雑した駅を通り抜け、大きなデパートに通じる扉が並んでいる方へ歩いて行った。店内に入ると、ファッショナブルな制服を着た女性たちが、地下鉄の駅から次々と入ってくる人たちにお辞儀をしていた。―彼女たちが着ている制服は、スカートもジャケットも帽子も、デザインがお洒落だった。デパートの案内係というよりは、飛行機の客室乗務員みたいだ。「あれってどういうこと?」と私はイモジェンに聞いた。

「この店に来てくれたお客さんに感謝を伝えているのよ。店内では、ああやってお辞儀してる姿をたくさん見かけるわ」

「いちいちお辞儀するなんて、なんか変な感じ」と私は正直に言った。

「そんなこと言わないで。日本人は何千年にもわたって、を守るための規律とか、作法を培ってきたのよ」

「和...って何?」

「和っていうのは、何て言えばいいかな、社会的な調和のシステムみたいなものかな。日本の文化には欠かせないものなの。あなた気付いた? 地下鉄に乗って、降りて、駅のプラットフォームからここまで、すんなり来れちゃったでしょ? あれだけ混んでいても、こんなにスムーズなのよ。和がなかったら、こうはいかないわ」

「なるほど」

「それが、和よ」

「和って凄いのね。ワンダフルのワ!」と私はジョークを飛ばした。

「いまいち笑えないダジャレね」とイモジェンに言われちゃった。私たちは地下から髙島屋に入っていった。地下の階は食品売り場になっていて、美しい屋台のような光景が目に飛び込んできた。通路を進むにつれて、めくるめくように次々と美味しそうな料理が現れ、私の目を喜ばせてくれる。「日本では、デパ地下って呼ばれてるのよ。―英語で言うと、フードホールね」

デパ地下は、色々な食品がずらっと並んでいるという意味では、〈生け花カフェ〉のようでもあったけれど、その数が一気に数億倍に膨れ上がったかのようで、私は目を見開いてしまう。お菓子売り場には、チョコレートや、ケーキや、ゼリーに果物が入ったスイーツなどが並んでいる。食品のコーナーには、シーフード、お肉、サラダ、キャンディー、ジュースなどが、まばゆいばかりに陳列されていた。フルーツ類のフロアもあって、傷一つないように見える高級な果物が、緩衝材と一緒にラップで包まれ、並べられていた。売り子さんたちは、お店ごとに別々の制服を着ていた。お揃いの帽子を被っている出店もある。それぞれが思い思いに、通りかかるお客さんに向かって、「いらっしゃいませ!」などと声をかけている。売り子さんが、サンドイッチとかチョコレート菓子といった購入品を懇切丁寧に包装して、まるで贈り物を手渡すかのようにお客さんに差し出している光景は、見ていて気持ちが良かった。それから、私はスイーツの陳列ケースを見て、驚愕してしまった。数々のチョコレート、ケーキ、キャンディー類がどれも絶品だと自己主張するように、私に訴えかけてくる。そんなよりどりみどりの状況だったから、イモジェンが話しかけてきても、一瞬反応が遅れてしまった。「日本の伝統的なスイーツはね、和菓子って呼ばれてるのよ。―お餅の中にあんことかを詰めた感じの食べ物なんだけど、見た目は食べ物っていうより、鑑賞用の芸術作品って感じで、ゼリーとか飴で綺麗に飾り付けてあるの。この華やかなクッキーみたいな和菓子は、実際食べてみると、そんなに甘くないんだけどね」

「このクッキー缶、すごく綺麗!」と私は陳列ケース越しに指差して言った。ブランド物のバッグの模様を数倍複雑にした感じの、入り組んだデザインが缶の表面にプリントされている。

「みんなおみやげとして、こういう缶に入ったクッキーを買っていくのよ。日本にはおみやげを渡す習慣があるんだけど、知ってる?」

私はうなずいた。「昨日、初めて日本の祖母に会ったんだけど、チョコレートのおみやげを渡したわ。彼女は気に入らなかったみたいで、なんかぐちぐち言ってたけど」

「なんて失礼な」とイモジェンが言った。

「彼女はあまり親切な人じゃないのよ」と私は認めた。

「ハーフを忌み嫌ってる感じ?」

「それ。人種差別主義者のビッチ」

イモジェンが笑った。「あらら、それはご愁傷様。今度はチョコじゃなくて、炭水化物たっぷりのおみやげにしなさい」私たちはベルギーのチョコレートや、ドイツのお菓子、それからフランスのペストリーを販売する売店が並ぶ通路を歩いていた。「ここは洋菓子のコーナーよ。ケーキとかペストリーとか、西洋のお菓子ね。フランスの〈ラデュレ〉とか、ベルギーの〈ヴィタメール〉とか、世界中の有名なビッグネームがこぞって、ここに出店してるのよ。ああ、デパ地下大好き。私はご馳走を目当てにデパ地下に来るの。週末にパリやブリュッセルにぶらっと地下鉄で行くようなものよ、ここだったら安上がりでしょ」

「エックス・ブラッツの他の子たちとここに来る時は、何を食べるの?」

「いつも同じ子と来るわけじゃないから、誰と来るかによるわね。クラスで5年以上ICS東京に通ってるのは、女子では私だけなのよ。みんな転校してきたと思ったら、しばらくすると、また海外に行っちゃうの。今のメンバーの中で言うと、ヌトンビとジャーンヴィは常にダイエット中だから、ここには連れてこないわ。ダイエットなんて今時、流行らないのにね。アラベラが東京にいた頃は、よく一緒に〈ディンタイフォン〉っていう台湾料理のレストランで食べてたわ、ここの1つ下の階にあるのよ。ホクホクの小籠包とか中華まんを食べられるわ。中に紫のヤマイモとか、赤いあんことかが入っていて、色合いは一瞬ウッてなるけど、めちゃくちゃ美味しいのよ」

ヤマイモと聞いて、ヤマイモが食べたいなと思ったところで、グリルしたヤマイモを売っているお店の横を通りかかった。私はこのお店でランチを買うことにして、そのヤマイモと、揚げた天ぷらをいくつか選んだ。イモジェンに通訳してもらう必要はなく、欲しい食べ物を指差すだけで、カウンター越しに店員さんはにっこりと微笑んで、それをパックに詰めてくれた。それから電卓を叩くと、それをひっくり返し、私に表示された金額を見せた。次にお金を入れるトレイを差し出され、私はその中にすっとアメックスカードを置く。今朝のセブンイレブンでの経験がさっそく活きたわ。イモジェンが見てる前で適切な支払いのエチケットを披露できた。彼女は綺麗な箱に入った卵サラダのサンドイッチを買った。ティファニーの宝石が入っているんじゃないかと思うくらい綺麗な箱で、側面には花柄がプリントされていた。透明なプラスチックのふた越しに、中のサンドイッチが見える。パンの耳は取り除かれていて、縦にして箱に詰められるように2つの長方形に切り分けられていた。サンドイッチの横には絶妙な形にカットされたフルーツも何切れか入っている。

「どこで食べるの?」と私はイモジェンに聞いた。辺りを見回してみても、座ってゆっくりランチを楽しめるようなテーブルは見当たらない。

イモジェンの後に付いて、エレベーターに向かった。彼女が言った。「東京で広いスペースが必要な時は、上に行けばいいのよ」私たちはエレベーターで最上階まで上ると、空が開けた屋上に出た。ここも屋上が公園のようになっていて、緑の芝生、小道、木々が目に飛び込んできた。ベンチに座ってテイクアウトの料理を食べている人や、芝生の上でピクニック感覚で食べている人もいる。

「私、東京が大好き。本気でこの街に恋しちゃった」と私は言った。いただきます! さあ、食べましょ!


・・・


「猫は好き?」とイモジェンが聞いてきた。青空の下で食事をするのは、すこぶる気分が良かった。

こんなことってある? 地震で始まった私の一日が、こんなにも素晴らしい日になるだなんて!

「好きよ。っていうか何よりも猫が大好き。あと、ラーメンと、雪の日と、『ギルモア・ガールズ』をエンドレスリピートで見まくるのも好きだけど。あ、『ギルモア・ガールズ』のお供は美味しいケーキって決まってるけど」

「やっぱりね。あなたとは気が合うから、絶対猫好きだと思ったわ。この後、猫カフェに行かない? エックス・ブラッツの他の子たちは、行こうって誘っても、猫カフェなんかって言って、行きたがらないのよ」

「私たち相性がいいのね。恋人になったらうまくいきそう。行きましょ!」

ランチを食べ終わった私たちは、再び地下鉄に乗るために地下に下りていった。私は興奮で、ちょっとくらくらしていた。ママが野獣に襲われる前の、毎日がキラキラしていた時代に舞い戻ったようだった。

「それで今のところ、あなたのお父さんはどんな感じ?」とイモジェンが私に聞いた。

「彼はいっつも働いてるわ」

「やっぱり、典型的なヤクザね。彼がヤクザだってわかった?」

なんて風変わりな質問なのかしら。「なんでそんなこと聞くの?」

彼女は肩をすくめた。「彼がホテルのビジネスをやってるって言ってたからよ。ホテルを経営してるのなら、おそらくヤクザの世界に片足を突っ込んでるわ。彼はヤクザじゃなくても、一緒にビジネスをしてる人たちがヤクザとか」

私はなんだか不愉快な気分になった。私はケンジ・タカハラのことをまだほとんど知らないけど、ほんの数日前に突然私の人生に現れた、出来損ないのパパだけど...彼はギャングなんかじゃないわ。彼はきれいなスーツを着て、東京からアンドーバーに留学して、ジョージタウン大学に通っていたのよ。「彼はヤクザなんかじゃないわ」と私は断言した。

「あなたがそう言うのなら」と彼女は言った。

地下鉄を降りると、私たちは、買い物客やおしゃれに着飾って街を闊歩している人たちの間を縫うようにして、駅の近くをぐるぐると徘徊したけれど、なかなか猫カフェは見つからなかった。「この辺りに猫カフェが最近新しくオープンしたんだけど、まだ一度も行ってないから」とイモジェンが言い訳するみたいに説明した。とうとう彼女は自力での探索を断念したのか、白旗を振るように片手を挙げて、交番の前で立っていた警察官に話しかけた。彼女が、猫カフェの住所が表示されたスマホの画面を彼に見せると、急に彼の顔がパッと明るくなった。そして、そのお巡りさんが「ニャー、ニャー!」と声を発した。きょとんとしている私に、イモジェンが英語で説明してくれた。「日本語の猫の鳴き真似よ。ミャオ、ミャオ!」それから彼は、私たちを引き連れて路地に入っていき、エレベーターの入り口前で、この建物だよ、みたいな感じで指を差した。さっき通った路地だったのに、こんなところに入り口があったなんて! 彼は両手を使って7本の指を立てている。きっと7階という意味ね。

イモジェンがその建物を見上げて言った。「ここの7階か」彼女が日本人の警察官にお辞儀をして、私たちはエレベーターに乗り込んだ。彼も私たちに向かってお辞儀をしてから、通りに戻っていった。ドアが閉まると、彼女は付け加えた。「凄いでしょ、これが日本の法律と秩序よ。ロンドンの警官があんな風に、猫カフェを見つけるのを手伝ってくれると思う? 絶対、素っ気なくあしらわれるだけだわ」

エレベーターの扉が開くと、直接猫カフェに通じていた。スリッパが出てくる機械が置いてあって、隣に靴箱があった。ここに履いてきたシューズを入れるのね。その隣には、日本語と英語で注意事項が書かれている。英語は短く切り刻まれた、ずさんな表現だった:大声で喋るな。猫に餌をやるな。猫に餌をやりたかったら、追加料金を払え。超楽しめよ!

「キャー! 最高! ニャーニャー!」猫ルームに入ったとたん、イモジェンが猫なで声を上げた。たくさんの猫ちゃんが、部屋のあちこちに置かれたキャットツリーに乗って遊んでいた。ベンチの上で昼寝をしている猫ちゃんもいる。

私はドアのところで立ち止まったまま、動けなくなってしまった。もちろん猫ちゃんを好きなことには変わりないから、毛むくじゃらの体、ひげを生やした愛らしい顔が目に飛び込んできて、心が和みはしたけれど、ただ、なんだかその雰囲気に違和感を覚えたというか、いつもみたいに心がキュンと震え、高鳴る感覚がなかった。どの猫ちゃんも体の大きさに合っていないほど、足が短かった。まるで可愛らしさを追求して、工場で製造された商品が並んでいるように思えた。去勢手術もしているのか、みんな一様に元気がない感じで、遊びたくて仕方ないという覇気が伝わってこない。部屋の壁際には布張りのベンチが並んでいて、私たちも座ることができた。部屋の中央には、ひときわ巨大なキャットツリーがあって、何匹かの猫ちゃんが登って、高台から部屋を見下ろしている。カゴの中や床の上には猫のおもちゃがたくさん散らばっていたから、私は(ハッフルちゃんが大好きだった)ひもの先端にネズミが付いたおもちゃを拾い上げた。そして、私の近くをぶらぶらと通りかかった猫ちゃんを抱き上げて、キャットツリーの高台に乗せ、猫ちゃんの目の前にネズミを垂らしてみた。猫ちゃんは一回、ポンッと猫パンチを繰り出したきり、すぐに興味を失ってしまった。私たちみたいなお客に付き合って遊ぶことに飽き飽きしているのかもしれない。私は追加料金を払って、おやつを買い、猫ちゃんに与えてみたが、猫ちゃんはもぐもぐとひとしきり食べ切ってしまうと、次の瞬間には興味を失った様子で、気まぐれにどこかへ行ってしまった。

「私たちも、もうどこかへ行かない?」と私はイモジェンに聞いた。ここに来てから、まだ10分ほどしか経っていなかった。

「まだ来たばっかりじゃない」彼女は窓際のベンチに座って、7階から下の通りを眺めていた。彼女の周りには何匹かの猫ちゃんが集まっていて、彼女は猫ちゃんの頭や背中の毛を撫でている。猫ちゃんも彼女の指を舐め返しているし、彼女はなつかれた様子で、いい雰囲気だった。

「素敵な場所だとは思うけど、私には合わないかな。正直言って、ちょっと気色悪い。もうここから出たいわ」

イモジェンが言った。「じゃあ、行っていいわよ。私はまだここにいるけど」

「え、一人でどうやって帰ればいいの?」

「気を大きく、もう少女じゃないでしょ。一人で地下鉄に乗るのがまだ不安なら、タクシーを使えばいいわ」

「私は日本語を話せないわ」

「運転手さんに、タック・ラグゼって言って、スマホの画面に住所を表示させて見せるだけよ、簡単でしょ。それでわかってくれるから」

私も彼女にイライラし始めていたけれど、同じくらい彼女も私に対してイライラしているみたいだった。だけど、彼女の肩に猫ちゃんがじゃれつくように前足を乗せてくると、彼女の顔は、クスクスと自然とほころんだ。それから、彼女がくしゃみをした。「実は私、猫アレルギーなのよ。でも、自己中の子猫ちゃんたちはとっても可愛いから、私は全然平気!」

彼女は猫アレルギーと同様に、私のことも気にしていないようだった。私は今から一人でここを出て、見知らぬ街に送り込まれたスパイみたいに、潜入捜査しなければならないっていうのに。



チャプター 19


猫カフェを出た私は、最初に見かけたタクシーに乗り込み、イモジェンに言われた通り、「タック・ラグゼ」と言って、スマホを見せた。それでわかってくれたようで、ほっとしつつ、私は手に持ったスマホをそのまま操作し、「ヤクザ」とググってみた。イモジェンったら、自分が何を言っていたのか、わかっていたのかしら。ケンジみたいな人がヤクザなわけないじゃない。ヤクザっていうのは、ギャングとか、ギャンブラーとか、殺人を犯しちゃうような人たちでしょ。全身に入れ墨があって、何か失敗したら、罰として小指の先っぽを切り落としちゃうみたいな。彼らが高級ホテルをいくつも所有して、それを使ってビジネスなんてするわけないじゃない。

タック・ラグゼに戻ると、ヘアーアレンジの予約時間が迫っていた。私は一息つく間もなく、エレベーターで〈ディスティニー・クラブ〉のエリアに行き、美容室を探した。〈美しい〉という名前のビューティーサロンがすぐに見つかった。中に入ると、鏡の前のサロンチェアーまで案内された。椅子に腰かける私の髪を、というより、私の顔をじろじろ見てくる女性の美容師は、タマオと名乗った。「あなた、とても綺麗な顔をしてるのね」と、彼女は私の髪の長さを指で測るようにいじりながら言った。それから彼女は私の耳元に顔を近づけて、ささやいた。「お父さんに凄くよく似てるわ! とっても魅力的なお顔。あ、これは彼には内緒よ。私がこんなこと言ってたとか、言っちゃだめよ」

私はちょっと嬉しかったけれど、あえて笑顔を出さないようにしつつ、言った。「カットは2、3センチにしてください。長いまま整える感じでお願いします。あんまり短いのは好きじゃないので」

「5センチくらい切った方がいいわ。あなたの髪はさらさらで滑らかだから、実際より長めに見えるのよ。多めに切っておいた方が、いい感じになるわ」私は鏡越しに、疑いの目でタマオを見た。ここでの決定権は私にあるんじゃないの? 「大丈夫だから、私に任せて」とタマオは断言した。

アシスタントの女性がカートを押して、タマオのそばまでやって来た。カートには散髪に使う道具がぎっしりと詰まっていた。ボトルの表示は英語のもあれば、日本語で書かれたものもあった。たぶんこれから、私の髪にコンディショナーをたっぷりとつけて、髪をほぐす感じでケアするんだわ。「まず髪を洗いますので、こちらへどうぞ」とアシスタントの人が言った。

彼女は髪を洗い終わると、シンクから私の頭を持ち上げた。そのタイミングで私は聞いた。「まず最初にコンディショナーをつけて、髪の毛をケアした方がいいんじゃないですか?」私の濡れた髪は、コンディショナーをつけないと、なかなかブラッシングできないはず。そのアシスタントは首を横に振って、「それは彼女がやりますよ」と、タマオを指差した。

「コンディショナーはカットのあとね」とタマオは言って、私をサロンチェアーに戻すと、私の髪をブラッシングし始めた。かなり激しいブラッシングで、私好みの優しく撫でる感じからは程遠いものだった。

「痛っ!」と私は思わず叫んだ。

「ごめんなさいね」とタマオは言った。「ハーフの子の髪って、手ごわいのね」

だから言ったじゃない。この人、何にも知らないのね。っていうか知らなくても、見ればわかったでしょ、まったくもう。「雑誌はありますか?」と私は聞いた。この女性とはもう何も話したくなかった。

タマオはたくさんのファッション雑誌を抱えて戻ってきて、鏡の前に置いた。アメリカやイギリスの雑誌もあれば、日本のもあった。「髪の毛が仕上がった時には、あなたもこういう、雑誌に載ってる女の子たちみたいになるわよ」

私は一言も、この写真のこの子みたいにして、なんて頼んだ覚えはなかったけれど、今さらそんなこと言っても仕方ないと思って、黙って雑誌を読むふりを続けた。こうしていれば、タマオも私に話しかけづらくなるでしょう。彼女はひと通り私の髪を整えた後、ディープ・コンディショナーを髪に塗り付けていった。なんだかヌルッとして、変な臭いもするし気色悪かった。そして、べとべとした髪のままキャップを被され、1時間も座っていなければならなかった。待っている間、音楽を聴こうとイヤホンを耳に差し込もうとしたら、エステティシャンの人が私の席に近づいて来た。彼女が押してきたカートには、美容器具が載っている。「今お顔をやっちゃいますね」と彼女が私に言った。

そのエステティシャンはゆっくりと私の頭を後ろに倒し、額と頬をマッサージし始めた。顔をほぐされるのはとても気持ちよくて、ぼんやりしてしまい、次に何をされるのか、考えることもなかった。突如、目の上の辺りがチクッとした。ハッと目を開けると、彼女が私のまゆ毛を摘み取っていた。「ちょっと、そこまでやってなんて頼んでないわ!」と私は抗議した。

「タカハラさんのお母様のノリコさんに頼まれたんですよ」と彼女が言った。はあ? いったいどういうこと? と思ったけれど、今さら中止してとも言えない。そんなことをしたら、私のまゆ毛は左右対称じゃなくなっちゃう。

「そんなに細いまゆ毛にはしないで」と私は、せめて言った。毎日まゆ毛をペンシルで描き足すなんてまっぴらよ。

そのエステティシャンは言った。「もちろんしないわ。少しピンセットで形を整えるだけよ。ほら、もう終わったわ! ワックスで脱毛処理もできますけど、いかがしますか?」

「結構です!」私は怖くなって言った。

エステティシャンは肩をすくめて立ち去った。私は鏡を見る。さっきまで毛むくじゃらだった私のまゆ毛は、引っこ抜かれ、目の上でくっきりとアーチを描いていた。実際、凄く素敵なまゆ毛に見えた。まだキャップは被ったままだったけれど、このキャップを脱いだら、きっと私の髪も、キミ・タカハラみたいに、キラキラ艶めいているんだわ。

タイマーが切れて、ディープ・コンディショニング・トリートメントが終了した時、私は真っ先に髪がすすがれるのだろうと思った。しかし、べとついた髪のままで私はタマオのエリアに戻された。彼女は私の髪をブラッシングしてから、ブローして時間をかけて乾燥させた。そして乾燥が終わった私の髪は、まさにキミ・タカハラのように、完璧にまっすぐで、つやつや煌めいていた。鏡に映る私が、雑誌の中の女の子みたいだった。「どうですか?」とタマオが誇らしげに聞いてくる。

「いいね」まだちょっと不思議な感覚というか、慣れるまで少し時間がかかりそうだけど。私は鏡に映った自分を、角度を変えながらしげしげと観察した。鏡の向こう側から私をじっと見つめてくるストレートヘアーの少女が、まるで自分ではないようだ。なんか洗練された女の子って感じだし、まゆ毛も、やはり目を見張るほど見事に仕上がっている。「っていうか、今のところ気に入ったわ。まあ、洗えばまた元通りの、チリチリヘアーに戻っちゃうでしょうけど」

また、このつやつやまっすぐヘアーにしたくなったら、タック・ラグゼのこのサロンに来ればいいわけね。選択肢として、こういう私にもなれるんだっていうのがあるのは心強いわね。ただ、ずっとこのスタイルではいたくなかった。なんだか私じゃないみたいだし、レジーは絶対、今度FaceTimeで私を見たら、笑い出して椅子から転げ落ちちゃうわ。

タマオが何気なく言った。「洗っても大丈夫よ。この矯正は少なくとも3ヶ月は続くから。それくらい経ったら、またいらっしゃい。またストレートにしてあげるから」

「は? どういうこと?」私は血が煮えたぎるのを感じた。「これって半永久的なの? そういう大事なことは、やる前に言って!」

「あなたも知ってると思ってたのよ。日本でヘアートリートメントって言ったら、そういう意味だから。なぜそんなに動揺してるの? あなたの髪はとても美しいわ」

タマオが口先だけで美しいと言っているのではないことはわかった。サロンで働いている他のスタッフたちも、私がここに入って来てからずっと、チラチラと私を見ていたのは知っていた。ボスの隠し子が、―というか、もう隠してもいないんだろうけど、―どんな子なのか興味津々といった様子だった。そして今、みんなが承認の眼差しを私に向けていた。「素敵!」と、タマオのアシスタントが私を見て言った。彼女は次のお客さんをシンクの前に誘導しているところだった。

そのお客さんが私を指差して言った。「彼女の髪みたいにしてください!」

私はもう一度鏡を見た。異国の地にやって来て、新しい生活を始めたことは知っていた。でも、この女の子は誰? 鏡の中から、見知らぬ少女がじっと私を見返している。


・・・


「私は断固抗議するわ!」その日の夜、夕食の席で私はケンジに言った。私たちは、〈ファンタジーリーグ〉という名前の、ディスティニー・クラブ内のレストランで席についていた。50席くらいあるスポーツバーで、いわゆる「男の隠れ家」を究極まで推し進めたような飾り付けになっていた。ウッドパネルの壁に囲まれ、部屋の中央にはビールバーがあり、テレビのスクリーンがあちこちに、まるで空間に浮かんでいるように備え付けられていて、どの席からもスポーツ観戦ができるようになっている。野球、アメリカンフットボール、サッカー、ゴルフ、クリケットなど、世界中のあらゆるスポーツが画面上でプレイされていた。「あなたの妹がヘアーアレンジの予約をしたんでしょ。彼女は、半永久的にまっすぐにするヘアートリートメントだなんて、一言も言わなかったわ。私は単に、素敵な形にカットしてくれて、ブローでふわっと、髪がいい感じになるくらいだと思ってたのよ」

ケンジは半分気もそぞろといった感じで、アメリカンスタイルのハンバーガーにかぶりついてる。私の新しい髪型よりも、サイドからとろけたチーズがはみ出しているハンバーガーに夢中なのだ。「俺がジョージタウンにいた時にな、Mストリート沿いにこんな感じのスポーツバーがあって、美味しいハンバーガーを食べられたんだ。だから、内装もメニューも当時の記憶を呼び起こして、こうして再現した。ただ、親父が亡くなるまでは、この〈ファンタジーリーグ〉を新しいビルに追加する計画はなかったんだ。彼はアメリカのハンバーガーが好きじゃなかったし、そもそもタック・ラグゼにアメリカの牛肉を使うメニューはなかった。彼は和牛に関してはうるさいというか、一家言あったから」

彼の家族についてもっと知りたい気持ちもあったけれど、今はそれどころではなかった。髪が一大事なのよ、わかって、ケンジカナ。「ヘアーアレンジの予約だなんて言って、私をだまして。まあ、彼女に悪気はなかったのかもしれないから、それはとりあえずいいわ。それより、まゆ毛よ。あなたの母親が、私のまゆ毛を引っこ抜くように言ったそうじゃない。どうしてくれるのよ? 片方のまゆ毛を摘み取られて初めて、私は何をされたのか気づいたのよ。そんな中途半端なところで、やめてなんて言えないじゃない」

ケンジはハンバーガーと、私の頭の後ろのスクリーンに映し出されている野球の試合に集中している。まったく、典型的な男の回避術ね。すると彼が言った。「君はナショナルズ派かい? それともオリオールズ派? 俺はワシントン近郊に住んでいた時、よく野球の試合を見に行ったんだ。メジャーリーグはいいよな」

はぁ...ため息しか出ない。男ってなんにもわかっちゃいない。私は自分のストレートヘアーを引っ張って見せた。「これよ、この髪のことを言ってるの。私はこんな風にしてって頼んでない」

「そのうち伸びて、また元通りになるだろ。というか、その髪すごく綺麗だぞ」

「それって、今の私は、この店にいる他のリッチなレディーのみなさんと同じ感じに見えるってこと?」

彼はハンバーガーを置くと、私が聞きたかったことをやっと言ってくれた!「俺はめったにこんなことを言わないんだが、全然悪くない。君は美しいよ。なんでそれを嫌がってるんだ? そういうのはあれだろ? 10代の移り気ってやつ。すぐ気が変わるから気をつけなさいって言われたんだ」

「誰に言われたの?」

「母親だよ」やっぱり、あの魔女か。その時の光景が目に浮かぶようだわ。彼女はケンジに向かって、私の悪口をまくし立てるように話して聞かせたんでしょう。一回会っただけで、もう私のことは全部お見通し、みたいな顔して。でも、私が東京でうまくやってのければ、ミセス・タカハラは、「え、そんなはずじゃ」ってびっくりして、彼女の大きすぎるプライドで喉を詰まらせて窒息しかけるわ。

私は急に話題を変えて、10代の移り気ってやつをケンジに実際に見せつけてやることにした。「そんなことより、あなたって年がら年中働いてるみたいじゃない」私は同情するような声で言った。「日曜日まで働いてるんじゃない」

「大体はな」

「だからガールフレンドがいないの?」

ケンジが笑った。私はべつに面白いことを言ったつもりはなかったんだけど。「なんで俺に彼女がいないってわかったんだ?」

「いるの?」

「前はいた。ここの〈ディスティニー・バー〉っていうピアノバーで歌ってたんだ。エデン・ベクテルっていう名前のシンガーで、彼女の歌声は癒しだったな。俺たちは何年か付き合っていたんだが、彼女は4ヶ月前にテキサスに帰ったよ」

「どんな感じの人? スマホに写真ある?」

「まあ、あるかな?」彼は私が興味津々なことに驚いた表情を見せつつも、スマホを取り出して、画像フォルダをスクロールしだした。「1つあった」

私は身を乗り出すようにして、画面に顔を近づけた。彼はタキシードを着ていた。そして彼の隣に、ハッとするほど綺麗な女性が気品高く立っていた。なまめかしく日焼けしたような褐色の肌にブロンドヘアーで、スパンコールがキラキラ輝くシャンパン色の長いドレスを着ている。彼女はおそらく30代半ばでしょう。彼女にウェイトレスの制服を着せれば、野獣にやられる前の私のママにそっくりになりそうだった。きっとケンジのタイプなのね。

「彼女、綺麗ね。なんで帰っちゃったの?」

「彼女が故郷に帰りたがったんだ」彼はそこで一呼吸置いた。「彼女は別のことを望んでいた」人生で打ち込みたいことが歌以外にあったってことかしら? と私は思った。「母さんが彼女を認めなかったんだよ」

マジか。私は胃の中に感情が沈み込むような、やるせない気持ちになった。彼の母親がエデン・ベクテルを認めなかったために、彼女は帰っちゃったってことは、私もそうなる可能性が十分にあるってことじゃない。私にはどれくらいの時間が与えられているの? いつまでに彼の気持ちをがっしりとつかんで、彼女から彼を勝ち取らなきゃいけないの? 彼女がなんと言おうと、彼が私をここにいさせてくれるくらいがっしりと。「明日の日曜日は仕事休めるでしょ? 一緒に何かしましょうよ」と私は彼に聞いた。

「俺と一緒にどこか行きたい場所でもあるのか?」彼は純粋に驚いた様子だった。私の気持ちが何も伝わっていないらしい。この男って本当にジョージタウン大学に行ったの? ちゃっと卒業したのかしら? なんだか彼の輝きが薄れたというか、この瞬間はあまり賢い男には思えなかった。

「うん!」

「どこに行ったとしても、髪の毛についてグチグチ不満を言うのはやめてくれるか?」

ちょっと笑みが零れてしまう。笑いをこらえようとしても、私の口が両端から引っ張られるようだ。彼は本当は、私の髪についての嘆きを聞いていたんじゃない。「やめるわ、たぶんね」

「野球は好きか?」

「公園で野球をやるのは好きだけど、テレビで見るのはつまらないわ」

高級なビジネススーツを着た日本人が、〈ファンタジーリーグ〉に入ってきて、私たちのテーブルに近づいてきた。ケンジが立ち上がると、二人はお互いにお辞儀をして、日本語で話しだした。会話が終わると、ケンジは再びその人に頭を下げた。前屈運動をするみたいに深く頭を下げている。この男性は何かしら重要な人ってことでしょう。彼は振り返ると、私の方を一度も見ることなく、テーブルから離れていった。

「何を話してたの?」と私はケンジに聞いた。

「仕事の話だよ」としか、ケンジは答えなかった。

「なんで私のことを紹介してくれなかったの?」だって今の私は、服装もちゃんとしてるし、髪だってこんなに素敵なのよ。

「あの人は、べつに私の娘に会いに来たわけじゃないんだ。というか、彼はお金のことしか興味ない」ケンジの視線を追うと、スクリーンの一つで野球選手がインタビューを受けていた。「ヒデキ・マツイだ! いいバッターだったな。彼は日本人の外野手で、ヤンキースでプレーしたんだ」また出た。古来から伝わる男性特有の話題逸らし。そういえば、レジーも同じことをしたわ。レジーってもてるから、彼がプールで泳いでると、女の子たちがキャーキャー騒ぐのよね。練習の邪魔だから、私が彼に「あの子たちをなんとかしてちょうだい。練習に集中できないでしょ」って言ったら、彼は話をはぐらかすように話題を逸らしたのよ。

「ヤンキースが好きなの?」と私は聞いた。さっきナショナルズ派だとか言ってなかった?

「ヤンキースはメジャーリーグを代表する球団だからな。そのチームでプレーできるっていうのは、それだけで凄いことなんだ。彼は日本人としての誇りだよ。俺も君くらい若い時は、なかなかいい選手だったんだぞ。ゆくゆくは俺もアメリカに渡って、メジャーリーグで活躍したいな、なんて夢を見ていたな」彼の顔が、過去を懐かしむような、愁いを帯びた表情になった。

「本当に? どのポジションだったの?」

「遊撃手、ショートだな。俺は肩が強かったから。ショートは一塁まで一番遠いから、肩が強くないと守れないんだぞ。俺としてはプロの選手になりたかったんだが、両親が反対した。彼らにとっては、スポーツ選手なんて職業のうちに入ってなかったんだ」

「こうしなさいって言われたわけね。じゃあ、さそがし嫌な気分だったでしょうね! 言ってる意味わかる? 勝手に決められるのは嫌でしょ?」私は自分の髪の毛をもう一度引っ張って見せた。(うわ! 私の髪ってこんなにスムーズで滑らかな触り心地なの!)

「俺の両親は、結果的に正しかったよ。俺はプロになれるほどの腕前ではなかった。妹のキミにも諦めた方がいいって言われたな」

ちょっと、私の髪のことを言ったのよ、まったくもう! 「私って前より日本人っぽく見える?」

「ああ、たしかに。前より日本人らしいな」

すかさず私は聞き返した。「私と一緒にいて恥ずかしい?」

「全然。全くそんな気持ちはないよ。ただ、日本とアメリカは違うからな。期待されてることも違うんだ。君がもっとこの場所で期待されてることを吸収していけば、ここは、君にとってどんどん居心地がいい場所になっていく」

ついに、この台詞を投下する時が来たわ。ケンジって無脊椎動物みたいに軟弱っていうか、自分の意志なくふらふら泳ぐクラゲみたいだから、彼が私を日本に呼び寄せる時、物凄い勇気が必要だったんじゃないかしら。彼の全身から、なけなしの勇気をかき集めないと、彼にはそんな大きな決断はできなさそう。

「私は私自身が決めた判断基準で、吸収するものは吸収していくわ。あなたのお母さんや妹が決めた基準じゃなくてね」と私は言ってやった。

「それで文句ないよ」とケンジが言った。「明日は時間を取れそうだから、バッティングセンターに行って、野球の練習をしようと思ってる。やらないと、どんどん腕がなまっていくからな。一緒に行くか?」

ちょっと残念ではあった。一言くらい、私の行きたい場所を聞いてくれてもよさそうなものなのに。でも、気まぐれな10代の気持ちに迎合して、歓心を買うような態度を取らないところは好ましいわね。私はようやく、目の前のハンバーガーにかぶりついた。うわ! なにこれ、超美味しい!―完璧なジューシーさ、お肉の焼き具合が絶妙だわ。マクドナルドがない国の人が、死ぬ前にやっとの思いでありつけたハンバーガーってくらい美味しい! っていうか、この国にまずい食べ物なんてあるの?

「バッティング練習は素晴らしいわね」と私は言った。バッティング練習をして、ケンジの背骨を鍛えれば、クラゲみたいな彼をしゃきっと変えられるかも。



チャプター 20


日曜日の午後、ケンジと私はタクシーに乗って、バッティングセンターに向かった。地下鉄同様、タクシーもとてつもなくきれいで、座席の背もたれには白のレースカバーがかかっていて、運転席のダッシュボードには大きなGPS機が備え付けられていた。ワシントンD.C.でもたまにママとタクシーに乗っていたけれど、おんぼろタクシーばかりで、こんな清潔なタクシーは初めてだった。タクシーが走行中、私は窓の外を眺めながらうっとりしていた。色とりどりの旗が境内を飾っている寺院を通り過ぎ、高層ビルの間にサンドイッチみたいに挟まれた庭園を垣間見た。赤い提灯が軒下にいくつもぶら下がっている料理屋、多種多様な店、店、店。そして歩道にはたくさんの人々が歩いている。人と建物が秩序のもとにひしめき合っているさまは、目を見張るばかりだった。

「ここからどのくらい遠いの?」と私はケンジに聞いた。タクシーは15分ほど、車の多い通りをゆっくりと進んでいた。

「そんなに遠くないよ」

「じゃあ、ここで降りましょうよ。残りは歩きたいわ」外は絵に描いたように完璧な晴天だった。

「そうだな。これぞ散歩日和って感じだしな。すがすがしい秋の空気、暑すぎず、寒すぎない。完璧だ」

ケンジが運転手さんに言って車を停めてもらい、私たちは外に出た。歩道を行き交う人たちに合流するように、私たちも歩き始める。ケンジの歩くペースは思いのほか速くて、私はせっせと足を動かさないと置いて行かれそうだった。彼は器用に人々の隙間をすいすいとすり抜けていく。「この辺りの建物って、凄く新しいか、凄く古いかのどっちかね」と私は言った。

「東京の大部分は第二次世界大戦で破壊されたんだ。戦後、日本は東京にどんどん新しいビルを建てて、復興していった。そんな中で壊されずに今も残ってる建物もあるわけだ」

彼が足を止めたので、私も立ち止まった。立派な白い門の前だった。鉄製の門には金の輪が付いている。門の中を覗くように見ると、ロンドンのバッキンガム宮殿を彷彿とさせる豪華な建物が建っていた。敷地は木々に囲まれ、緑豊かな公園のようでもあった。ケンジが言った。「ここは東宮御所といって、現在は国営のゲストハウスになってる。ここからは見えないが、皇太子とその家族が、その宮殿の向こう側をずっと奥まで進んだところに住んでるんだ」

「いつかこの中に入って、見学ツアーとかできる?」

「元旦と天皇誕生日だけは開放されるから、一般の人も入れるぞ。こことは別に皇居もあって、そっちの方がタック・ラグゼからは近いな。観光客にも皇居の方が人気というか、訪れる人が多い。皇居の周りにはお堀があって、一年中美しい庭園を堪能できる。特に桜が咲く春は最高だ」

私たちは散歩を再開した。ケンジの切れ目のないスケジュールを考えると、またいつこうしてタック・ラグゼの外に二人きりで出かけられるかわからないので、この機会に大量のコショウを振りかけるみたいに、いっぱい質問をぶつけておきたかった。「あなたは今までずっと東京に住んでたの?」

「ワシントン以外では、ロンドンで1年間暮らしたことがある」

「ロンドンでは何をしてたの?」

「ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスっていう経済を学べる大学で、ビジネスコースを受講した」

「良かった?」

「ロンドンは良かったけど、大学はあんまりだな。本当はもっと長くロンドンにいるつもりだったんだけど、親父がタカハラの家業を手伝えってうるさいし、1年で帰って来ちゃった」

「あなたのお父さんってどんな人だったの?」

「親父は厳しかったよ。頑固一徹で、どこまで上り詰めても、決して満足しないタイプだな。俺は勉強なんかそっちのけで遊んでばかりだったから、いつも親父に怒られてたよ」

「学校の成績は?」

「そこそこだな。真ん中辺り。それでも俺としては頑張った方なんだ。君の成績は?」

「私はいつも全科目でAを並べてたわ。ママがトラブルに見舞われるまではね」

「じゃあ、今のクラスでもトップになれるな。妹のキミも常にトップだったんだ。間違いなく君も優秀だよ」

私たちは広々とした公園にたどり着いた。都市の真ん中にぽっかり空いた憩いの場って感じだ。いくつものコートやトラックがあって、色々なスポーツができるみたいだ。多くの人が秋の日を満喫中だった。ずっとコンクリートに囲まれていたせいか、一気に開けた空間で緑の木々や芝生に囲まれると、全身の細胞がリフレッシュして、生まれ変わるようだった。ケンジが緑のネットで囲まれたバッティングセンターの受付で入場料を払い、私も後に続いて中に入った。バッティングセンターに来たのは生まれて初めてだったから、見るものすべてが新鮮というか、何が何だかわからない。ネットに囲まれて、なんか動物園の檻の中に入ったみたいね。

バッティングエリアは、数人が入れる程度の小さなケージで区分けされていた。それぞれのバッティングエリアの中央には実際の土が敷き詰められ、ホームベースが置かれている。そこから空間が広がっていて、その向こうに巨大なスクリーンがあり、仮想スタジアムを映し出していた。「かっ飛ばしていこう!」とケンジが声を上げた。「君が先に打つか?」

「いや、あなたからやって」

彼がバットを握って、ホームベースに近づいた。スクリーンに仮想のピッチャーが現れ、振りかぶって腕を振った。と同時に、本物のボールが飛び出してきた。一瞬の出来事だった。ケンジが狙い澄ましたかのようにバッドを振ると、カキンッ!と大きな金属音が鳴り響き、ボールが弧を描いて飛んでいった。―ホームラン! と場内に音声が流れ、スクリーン上ではバーチャルな観客が拍手喝采を送る中、ユニフォームを着た選手が一塁、二塁、三塁とダイヤモンドを一周している。

「後にやる人の身にもなってよね」私はケージの中に入っていった。ケンジが手に持っていたバットを私に手渡す。私はホームベースに近づくと、以前レジーから教えてもらったバッティングフォームを思い出しながら、バットを構えた。

「リラックス! 肩の力を抜いて、ボールに集中するんだ」ケンジがアドバイスした。突然、ボールが飛び出してきて、風を切るように私の目の前を通過した。私はバットを振るが、時すでに遅しで、ボールはキャッチャーの位置に置かれたマットに跳ね返って、私の足元に転がった。「いいスイングだ! 次は絶対当たるぞ」次のボールが飛び出し、私に向かって突き進んでくる。また空振りだった。ケンジが私の腕と腰を触って調節しているが、私はピッチャーを見たままだ。今度空振りだったら三振でアウトだ。ケンジが離れ、三球目が飛んで来る。私は思い切りバットを振った。カキンッ! 当たった! ファールボールだったけど、ボールの衝撃は腕からしっかりと伝わってきた。「素晴らしい!」とケンジが言った。「父親譲りの力強いスイングだ」

次に彼がバッターボックスに入り、真剣な表情で構えた。私がプールのスタート台に立った時の、水面を見つめる目と同じだと思った。確固たる闘志を秘めた幸せそうな表情だ。

「私は水泳を突き詰めて頑張ってみようと思う」と私は言った。「YMCAのチームにいた頃、コーチが言ってたのよ。私がもっと上達すれば、水泳で奨学金をもらって大学に行けるかもしれないって」

「奨学金もいいけど、君が生まれた時、銀行で大学教育までの信託ファンドを開設して、積み立ててあるんだ。だから君が大学に入る年になったら、学費が下りるよ」そう言うと、すかさずケンジはフルスイングして、またホームランを打った。

は? どういうこと?

私は前から大学には行くつもりだったけど、アルバイトをしつつ、多額のローンも組まなければ、つまり借金をしなければならないと覚悟をしていた。かなり過酷で壮絶な大学生活が待っているのだろう、と。

「冗談でしょ? 私をからかってるの?」と私は聞いた。

「こんな重大なことで冗談を言うわけないだろ。君は頭がいい。全科目でAを並べてたんだもんな。キミみたいに君もアイビーリーグの大学に行けるぞ」彼は自信たっぷりにそう言いながら、凄く誇らしそうだった。

「イェール大学に行きたいわ。彼女みたいにハーバードじゃなくてね」と私は言った。急に彼から自信を分けてもらったように感じた。1分前までは、どうせ学費がそんなにかからないメリーランド州立大学に行くことになるんだろうな、と思っていたから、アイビーリーグが一気に現実味を帯びてきて、頭がクラクラした。

「なんでイェールがいいんだ?」

「ロリー・ギルモアがイェールに行ったからよ」私はドラマの主人公を実在の女の子っぽく言った。

「聞いたことない名前だな」と彼が言った。「イェールで何を勉強したいんだ?」

「さあ、まだ分からないわ」私は自分の意志を確認するように、心の内側をサーチライトで照らした。「なんていうか、あなたが私を大学に行かせてくれるなんて、これっぽっちも思ってなかったから。整理がつかないっていうか、ありがとう!」彼の表情がにこやかになり、どういたしまして、といった感じで私に向かって少し頭を下げた。「科学がずっと私の得意科目だったのよ。それに私は他の人の手助けをするのが好きだから、お医者さんかな? そうね、私はイェール大学に行って、お医者さんになるわ!」

彼がバットを手放し、バットがころんと転がった。「俺の娘が、医者か」彼の目がキラリと光を放ち、遠くを見つめた。

ケンジのこんな誇らしげな表情をもっと見たいと思った。そのためなら、新しい学校でとことんやってやるわ。全力で勉強して、いい成績を取ってやる。



10月

チャプター 21


親愛なるママへ

日本に着いたらすぐに手紙を書くつもりだったんだけど、書こう書こうと思っているうちに、1ヶ月も経っちゃいました。ごめんなさい。その間、ママからは2通手紙を受け取って、大事に何度も読み返しています。「依存問題を共有し合う集い」に参加したんだね。問題解決に一歩足を踏み出したママがすっごく誇らしいわ! 自分の過去を洗いざらい話して、みんなと共有するのって、凄く辛かったでしょうね。刑務所内でヨガを始めたとも書いてあったから、元気でやってるんだなって思って嬉しかったわ。図書館に長らく予約しておいた『ゲーム・オブ・スローンズ』の1巻が、ようやくママの順番になって読めたんですってね。読めて良かったと思ったら、『ゲーム・オブ・スローンズ』に出て来るドラゴンと白い歩行者たちが、悪夢になってママの夢にも出て来ちゃったなんて。


心配しなくても、私がママよりケンジを好きになることはないわ。というか、彼って忙しすぎて、あんまり会えないの。マサおじさんはほとんど毎晩のようにFaceTimeで電話してきて、画面越しに私の状態をチェックしてるわ。顔を見る時間でいったら、ケンジよりもマサおじさんの顔の方がよく見てるくらい。ケンジって、パパというより、ルームメイトって感じなのよね。でも、ケンジのペントハウスからの眺めは最高よ。東京の街が一望できるの。ママにも見せてあげたいわ。それから、いつでも好きな時にルームサービスを頼めるの。(私はあんまり使わないけど、いつでも料理を注文できるっていう選択肢が頭の片隅にあるのは、すっごく気分いいわ。)あと、メイドさんもいて、私が学校に行ってる間に、掃除も洗濯も全部やってくれるの。床の上に洋服を脱ぎっぱなしにしても、お皿を食べたまま洗わなくても、誰にもガミガミ言われないのよ!(^^)!


東京での暮らしは良好よ。クレイジー!って思うことも多いけど、そのクレイジーさが良かったりするのよね。私の野望としては、新しい学校でみんなを蹴散らすように成績でトップに上り詰めることだったんだけど、初っ端から出鼻をくじかれたというか、逆に蹴落とされないように頑張ってくらいついてる感じ。課題が前の学校では考えられないほど多いのよ。スペイン語とかは、前の学校でも習ってたから余裕だろうと思ってたんだけど、どんどん進んじゃうから、必死で予習復習してるわ。毎晩みっちり4時間は勉強してる感じ。水泳チームにも入ったから、放課後は5時まで水泳の練習もしてるの。それから帰宅して、7時にケンジと晩ご飯を食べるのよ。一日のうちで、ケンジと過ごせる唯一の時間ね。そして8時頃から12時頃まで勉強。本当はもっと長い時間勉強したいんだけど、次の日6時30分には起きなきゃだから、4時間くらいが目いっぱいなの。そう、朝学校にはね、スクールバスじゃなくて、なんと運転手さん付きの車で行ってるの。その車が7時にここを出発しちゃうから、6時半には起きなきゃいけないわけ。夜に宿題をやってると、学校の友達からメッセージが来て、いちいち返さないとだから、いっつも勉強の邪魔になるのよね。そうなの、私にもちゃんと友達ができたのよ! これを言ってもママは信じないでしょうけど(だって私自身ですら信じられないんですもの)、なんと「人気者」のグループに私が入っちゃったの。凄いでしょ。学校一の人気者、女王様みたいな子と仲良しなのよ。イモジェン・カトウっていう子なんだけど、私のことを気に入ったんですって。(シャル・カトウが彼女の母親なの! 覚えてる? ディスカウント百貨店の〈ターゲット〉で、よくシャル・カトウのコレクションを買ってたわよね。〈サックス・フィフス・アベニュー〉みたいな高級百貨店では、シャル・カトウのドレスは高すぎて私たちには手が出ないからって、〈ターゲット〉で買ってたのよね。『シャル・カトウってロゴが入ってるけど、安いからバッタものなんじゃないの?』とか言いながら、たくさん買ったわね。イモジェンに聞いたんだけど、あれもみんな彼女のママがデザインしたものですって。あんまり安い素材を使うのは好きじゃないみたいだけど、どこで売られていようと、自分でデザインしたものにはすべてロゴを入れるし、そうじゃなかったらロゴは絶対に入れないって。まあ、実物を彼女のママに見せたわけじゃないけどね。ファッション業界の闇かもしれないわね。)


レジーともFaceTimeで話してるわ。元気でやってるみたいだけど、誕生日を過ぎたら、1月から軍隊に入るんですって。それを聞いて凄いなって思って、応援したい気持ちもあるけど、ちょっと心配で怖いわね。YMCAの水泳チームにいたカルメン・ロドリゲスっていう女の子を覚えてる?(背泳ぎの体勢でぷかぷか水面に浮かんでるのが好きだった子、ほら、プールの水が冷たいって文句ばかり言ってた子よ。)彼女は今レジーと同じ学校に通ってるんだけど、二人は付き合ってるみたいなの。レジーったら、彼女の話ばっかりしてくるし、きっと彼女にぞっこんなのね。彼はもっと女の子を見る目があると思っていたんだけど。


私は今、朝の通学途中の車の中でこれを書いてるの。さっきも言ったように運転手さん付きの車なのよ。そんな馬鹿なって思うでしょうけど、本当なの。アケミっていう同じ建物に住んでる子の家の車なんだけど、一緒に乗せてもらってるの。彼女は私より1歳年下で、シャイな女の子ね。彼女は学校に行く途中は、だいたい寝てるわ。―交通量が多いから、結構時間がかかるのよ。それで私はこの時間を使って、ママに手紙を書いてるわけ。書いてるっていうか、新品のマックブックを開いて、打ってるの。冗談だと思ったでしょ? これも本当で、私は自分専用のパソコンを手に入れたのよ。


制服姿の私の写真をプリントアウトしたから同封します。ただ...髪型にびっくりしないで。日本式のヘアートリートメントをしてもらったのよ。ヘアートリートメントの前に「日本式」って付いてるのがポイントで、「日本式」の場合、事前説明は一切なしで、やられてるうちに、何をやられてるのか段々とわかってくる方式らしいの。ヘアートリートメント自体は良かったかな。髪がまっすぐになって、すっごく滑らかな触り心地なのよ。FaceTimeでレジーに見せたら、そんなに笑う?ってくらい笑われちゃった。彼が言うには、私が雑誌に載ってる女の子気取りなんですって。私らしくないって言われちゃった。自分では、私らしいと思ってるわ...前とはちょっと違うかもだけど。だけど、学校の友達はみんな素敵って言ってくれたし、ケンジも前より日本人らしくなったって言ってたわ。マサおじさんには、とても洗練された女性に見えるって言われたのよ。ママはどう思う?


勉強に関しては、出だしはそんなに順調ってわけにはいかなかったけど、私は元々、差があるところからスタートしたから仕方ないわね。これから巻き返して、どんどん成績を上げていくわ。ケンジが大学に行く学費を出してくれるんですって。そう、落ち着いて聞いてね。そうなのよ、私は大学に行けるのよ! でも、そのためには勉強しなくちゃ。じゃあ、勉強しに行ってくるね。


今度はもっと早く手紙を書くね。


大好きなママに、キスとハグを。


エルより



チャプター 22


「ゾエルナー! 泳いでみて。どのくらい上達したか見てあげるわ」

水泳コーチのターニャ・ホプキンスは、イリノイ州出身の元水泳チャンピオンで、3年前にオリンピック予選の最終選考まで残ったんだけど、惜しくも代表権を逃した強者なの。それで傷心した彼女は、ボーイフレンドに会いたくなったのかしらね、前から日本で英語の先生をやっていた彼氏の元に転がり込む形で東京にやって来たんですって。彼女は生徒全員をラストネームで呼ぶの。私は普段エルって呼ばれることが多いから、急にゾエルナーって声をかけられると、ドキッとしちゃう。今は朝の水泳クラスの時間で、私は5レーンあるプールの一番端のスタート台に立っている。他のレーンでは、15人の生徒たちが思い思いにウォームアップをしている。スタートの合図を待ちながら、緊張で体が震えてきた。ターニャがストップウォッチを掲げて、言った。「ゴー!」

私はプールに飛び込み、クロールのストロークで水面をかき分け前に進んだ。プールの端まで来ると、体をひねってターンをし、再びクロールで水しぶきを上げながら、元の地点に戻ってきた。「素晴らしいフォームね。フリップターンも見事だったわ」ゴールにタッチし、水中から顔を出した私にターニャが声をかけた。「それからタイムは、なんと先週から1.2秒も縮めたわ」

「やった」と私は言った。息を切らしながらも、全身が喜びで湧き立つようだった。体育の単位を取るためでもあるけど、こうして毎日泳げるっていうは最高ね。ただ、ここにはレジーがいないのよね。この喜びをレジーと分かち合いたかったわ。私たちはお互いの力を引き出す良きコンビだったから、私も彼が同じプールに入ってると最高の泳ぎができたし、彼も私と一緒だと最高のパフォーマンスを発揮したわ。そういえば、彼にここのプールの写真をまだ見せていなかった。ターニャの授業が終わったら、写真を撮って彼に送ろう。どうせまた彼は信じないでしょうけどね。

「今度はバタフライをやってみて」

「バタフライは一番苦手なのよね」私は弱気になる必要なんてなかったんだけど、急に自分の泳ぎに自信がなくなってしまった。たぶん、プールの逆側の一番端のレーンで、リュウ・キムラがまさにバタフライで泳いでいるせいで、しかもかなり速いスプリントを刻んでいる。

「苦手かどうか私が判断してあげるわ。レディー? ゴー!」

私は再び水中に飛び込み、バタフライでプールの端まで行って、ターンをし、戻ってきた。

「いいよ、いいよ、いいじゃない!」私が水から顔を上げると、ターニャが歓声を上げた。「特に波に乗ってからの追い上げが良かったわ。もっとスタートの練習をして、スタート直後の加速力をつけた方がいいわね。でも、1.5秒も縮めたわ。バタフライもいけるじゃない。ゾエルナー、あなたがICSの水泳チーム〈セイルフィッシュ〉に入ってくれて心強いわ。どんなチームになっていくのか、凄く楽しみ」

私がタオルをつかむと、みんなが私の泳ぎを称賛してくれた。私は臆面もなく、気分よく称賛を浴びた。プールは温水だから、泳いでいる時は寒くなかったけれど、プールから出ると、東京の秋の空気は肌寒く感じた。段々と冬が近づいているようだ。この学校には、この屋外プールとは別に、室内プールもあるんだけど、そこは現在、冬に使う準備でプールの清掃がなされている。「私のタイムは?」

「ほら、一番よ」とターニャが言い、飛び込み台の後ろにある電光掲示板を指差した。私のタイムが一番上で点滅していた。やっと一番になれた! 電光掲示板が公式に、エル・ゾエルナーがクラスの女子で一番速いことを大々的に発表していた。

そうなのよ! レジーがいなくても、レジーに後ろから追い立てられる形でなくても、私は一人でも強かった...水泳が唯一の私の強みってことでしょう。この学校の特権階級の子たちに、私が勝てる唯一のことかもしれないわね。YMCAのチームで泳いでいた頃から結構ブランクがあったんだけど、私のパフォーマンスは、自分でもびっくりするくらい、揺るぎなかった。おそらく、こうして毎日泳いでいる成果が目に見えてきたってことね。余分なぜい肉がそぎ落とされて、特にウエストラインが引き締まってきたのよ。今の私は、日本の美味しい料理をむさぼるように食べているっていうのに、これまでの人生で最高に引き締まった体をしてるわ。


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〔途中の感想〕(2020年8月6日)


エルちゃんのこの日々は、彼女の人生でも1番キラキラしていた時期(人生の季節)になるでしょうね! 毎日、水泳と勉強に励んで、大学進学やお医者さんになるという夢もあって、まさに水面をがむしゃらにクロールしているみたいな、水しぶきが煌めく「私、生きてる」っていう感じ🏊✨✨


藍も毎日勉強に励んでいた人生の季節は2年くらいあったんだけど、同時に水泳しとけば、当時の思い出がもっとキラキラしたのにな~🌳✨笑


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ターニャが私を指差しながら、他のレーンで泳いでいる子たちに向かって、声を張って言った。「みんな、見て。これからは、この子を追い抜くように練習に励むのよ、いい? 気合を入れていこう!」

突然、私の足元、私が泳いでいたレーンの水面からリュウ・キムラが顔を出した。彼はスイムキャップをかぶっていなかった。彼の濡れた髪には青いメッシュが幾筋も入っていて、太陽の日差しをつややかに反射している。まるで彼自身に後光が差しているみたいだ。

「やっと現れたか」と彼は言った。「この学校に俺のレベルまで到達しそうなスイマーが」

それだけ言うと、彼は再び水中に潜り込み、数秒後、プールの反対側の端のレーンに戻っていた。


・・・


「彼はなんて言ったの?」とイモジェンが叫んだ。私たちは昼食を食べていた。

私はリュウの表情を思い出しながら、なるべく彼の言い方に近づけるように、大袈裟に張り詰めた口調で言った。つまり、馬鹿みたいに恰好つけて言った。「やっと現れたか。この学校に俺のレベルまで到達しそうなスイマーが」

ジャンビが言った。「彼って調子に乗ってるのよね。大したスイマーじゃないくせに」

ヌトンビが聞いた。「あんた、彼が実際に泳いでるところ見たことあるの?」

ジャンビが答えた。「ないけどさ」

イモジェンが甲高い声で割って入った。「私は見たことあるわ。アラベラが彼の泳ぎを見たいって言ったから、付き添いで見に行ったのよ。彼は背泳ぎが素晴らしかったわ。まあ、他の泳ぎも悪くはないみたいだったけど。ただね、ICS-東京でトップスイマーになることと、本当に才能があることとは別物なのよ。彼はその辺を勘違いしてるのよね。去年の大会で〈セルフィッシュ〉は、ICS-台北にこてんぱんに叩きのめされたわ。彼が平泳ぎで台北の選手に抜かされたのよ」

ヌトンビが聞いた。「なんで彼は、こーんなに小っちゃい水着を履いて泳いでるの? あれじゃ、彼の貧弱な体をさらしてるようなものじゃない」

オスカーが返した。「貧弱じゃなくて、あいつは細マッチョなんだよ。よく見たら、引き締まったいい体してるぞ。身長も高すぎず、低すぎない。ちょうどいい感じだな」

ニックが付け加えた。「お馬鹿さんにはちょうどいいだろうな」

まったく、嫌みったらしい二人ね! 私は二人の男子に向かって指摘してやった。「あなたたちはリュウ・キムラを無視してるんじゃなかったの? なんでそんなに彼のことばかり話してるの? 無視どころか、逆に注目の的じゃない」

イモジェンが優しく私の肩を抱くように、腕を回してきた。「あなたが無視された時も、ちゃんと注目して、水着姿のあなたについて話してあげるわ」

「やっぱりあなたって親友ね」と私は返した。その時、私の携帯が鳴った。画面を見れば、アケミからのメッセージだった。周りを確認すると、アケミはテーブルを二つ空けて離れた場所に座っている。パソコンを開いているから勉強しているようにも見えるけど、おそらく私たちの会話を聞いていたんでしょう。

私は彼女のメッセージを読んだ。「猫かぶり」意味:子猫のように可愛らしく振る舞って、無邪気なふりをすること。

私は自分のこの状況を言い当てられ、思わず笑ってしまう。アケミが〈エックス・ブラッツ〉に加わってくれたら、もっと楽しくランチの時間を過ごせるのにな。でも、この人たちは彼女を望んでいないし、彼女も学校では一人でいるのが好きみたい。朝の通学中、彼女が寝ていない時は、〈エックス・ブラッツ〉についてあれこれ聞いてくるんだけど、いざ学校に着くと、しゅんと自分の殻に閉じこもっちゃうのよね。

「誰とやり取りしてるの?」とイモジェンが聞いてきた。

「同じところに住んでる友達」と私は答えた。嘘ではない。

私はアケミにメッセージを返した。「Curiosity killed the cat.(好奇心は猫を殺す。)」意味:聞き耳を立てたりして、あんまり詮索しない方が身のためよ。九つの命を持つと言われる、そう簡単には死なない猫でさえ、好奇心のせいで身を滅ぼすんだから。

ヌトンビが言った。「ねぇみんな、今週末はうちの両親がいないのよ。意味わかるでしょ? 何か楽しいことをしましょうよ! 」ヌトンビの両親は超がつくほど厳格だった。平日の夜や週末は、宿題がすべて終わるまでヌトンビを外出させなかったし、たとえ宿題をやり終えても、港区内の限られた地域にしか外出させなかった。各国の大使館や領事館が多く置かれている地区なら安心だろう、という両親の配慮だった。

私は猫関連のことわざをもう一つ思い付いたので、立て続けにアケミに送った。「When the cat’s away, the mice will play.(猫がいないと、ネズミは遊ぶ。)」意味:監視する人がいないと、いけないことをしちゃうのよね!

「今週の土曜はフィールドホッケーの試合があるから、何よりそれが優先よ」とジャンビは言ってから、キラッと目を輝かせた。いたずらっ子が何かを企んだみたいだ。「試合が終わった後ならいいわ。英国インターナショナルスクールをやっつけて、祝勝会といきましょう!」彼女は赤のメッシュが入った黒髪をお団子状に巻いて、お団子に鉛筆を差す形でとめていたのだが、その鉛筆をすっと抜いた。彼女の髪がバサッと背中に落ちて広がった。

「渋谷に行こうぜ!」とニックが声を上げた。それから彼は私に聞いた。「渋谷には行ったことある?」

「ないわ」私は、お昼休みはこうして〈エックス・ブラッツ〉の輪に入ってるけど、私の加入は即席のサプライズみたいなもので、学校以外で彼らと一緒にどこか、いかした場所に行ったりしたことはなかった。

ニックが言った。「渋谷はたぶん東京で一番楽しい場所だぞ。何でもありの場所だからな。君を最高の場所に連れて行ってやるよ。—俺に任せろ!」


~~~


今さらですが、〈登場人物の紹介〉

エル・ゾエルナー:16歳になったばかりの女の子。水泳が得意。

レジー:2歳年上の男の子。かつてYMCAの水泳チームでエルと一緒だった。来年の1月から軍隊に入る。同じ学校のカルメン・ロドリゲスと付き合ってるっぽい。

ママ:現在、服役中。

マサおじさん:ケンジのいとこ。

ケンジ・タカハラ:エルの父親。〈タック・ラグゼ〉のオーナー。野球が得意。ジョージタウン大学に留学中、レストランのウェイトレスをしていたエルのママと知り合い、恋に落ちた。

ノリコ・タカハラ:ケンジの母親。影の女帝。

キミコ・タカハラ:ケンジの妹。ハーバード卒。

エミコ・カツラ:ケンジの秘書。エルの世話係。日本の大学を卒業後、ハーバードの大学院でMBAを取得。

デーブ・フラーハティ:〈タック・ラグゼ〉で働いている。

アケミ:1歳年下で、シャイな女の子。〈タック・ラグゼ〉に住んでいる。家族関係が超複雑。バイオリンが得意。

リュウ・キムラ:水泳が得意な細マッチョ。親がヤクザという噂。村上春樹が好き。ウクレレが得意。

アラベラ:リュウの元カノ。リュウに振られ、傷心してボリビアに帰国。


〈エックス・ブラッツのメンバー〉

イモジェン・カトウ:母親が世界的デザイナーのシャル・カトウで、父親が彫刻家のアキラ・カトウ。

ジャンビ・カプール:赤のメッシュが入った長い黒髪のインド人。フィールドホッケーが得意。

ヌトンビ・アマティラ:髪の毛をビーズ状にして細く編み込んでいる黒人。母親がナミビアの大使。両親が厳格。

オスカー・アコスタ:黒髪でオリーブ色の肌をしたイケメン。アラベラの双子の兄。

ニック・ズホノフ:気取り屋で藍色の瞳をしたイケメン。北欧出身のスラブ系で、丸刈りに近い短髪。父親がアレクセイ・ズホノフ(スマホのマイクロチップ開発者)。エルに気があるっぽい。


~~~


イモジェンがニックに目を向け、呆れたという風に目を一周させてから、言った。「じゃあ、みんな、パスモを渡して」

みんなが続々とパスモカードを財布から取り出して、イモジェンに渡していく。―私だけが取り残されたように、きょとんとしている。「ちょっとわかんないんだけど」

イモジェンが言った。「恵まれない家政婦さんのために、カンパを集めてるのよ。彼女はフィリピンから日本にやって来て、ヌトンビの家で働いてるの。だからこのカードを彼女にあげて、彼女はそれを他のフィリピン人の家政婦仲間に安く売るの。そうして出来た現金を、フィリピンの家族に送金するってわけ。そうするとね、両親の留守中にヌトンビが外出しても、彼女は黙っていてくれるのよ。ヌトンビが好き放題、何をしたって、親に知られることはないってこと」

「ワオ! なんてやり口なの」私はしぶしぶ財布からパスモを取り出すと、イモジェンに差し出した。「でも、パスモがなくなっちゃったら、私はどうやって地下鉄に乗ればいいの?」

みんなが笑い出したが、私が本気で心配していることに気づくと、笑うのをやめた。ジャンビが、そんなの決まってるじゃない、という風に言った。「なくしちゃったってパパに言えばいいだけよ。新しいのを買ってくれるわ。あなたのパパは優しいんでしょ?」

ママだったら、絶対新しいのなんか買ってくれないわ。もしママがここにいたら、こう言うでしょうね。そんな賄賂みたいな真似までして、人気者たちとつるんでいたいの? あなたってほんと、お人好しの馬鹿ねって。だけど、ケンジなら、「週末にイモジェンたちと遊びに行く」と言えば、喜んで新しいパスモをくれるでしょうね。彼女たちを、私が付き合うのにふさわしい友達だと思ってるみたいだから。

私のスマホにアケミから新たなメッセージが、ポンッと音を立てて届いた。この会話も聞いていたらしい。「窮鼠猫を噛む」意味:追い詰められたら、ネズミだって猫に立ち向かって、噛みつくんだから。

私はすぐに返信した。弱い人たちも、勇気があれば勝てるってことね。

イエス! と彼女から返ってきた。

アケミも週末の冒険に加わってほしかった。彼女はこんなことに巻き込まれるのは絶対嫌だって言うでしょうけど、近くに彼女みたいな子がいてくれると、私はもっとリラックスできるから。彼女の前では、私らしく自然体でいられるから。



チャプター 23


ICS-東京校のバレーボールチームとフェンシングチームでインフルエンザが流行しているため、普段のこの時間帯のスクールバスは、その二つのチームでごった返しているはずなんだけど、今日は運転手を除いて、乗っているのは私とリュウ・キムラだけだった。

アケミは放課後、〈タック・ラグゼ〉の近くで、詳しい場所までは知らないけど、バイオリンのレッスンを受けているから、一緒には帰れない。私は放課後、教室で勉強してからプールに行って、水泳の練習をする。それから、都心に向かうスクールバスに乗って帰ることにしている。ICSのスクールバスは、やはりICSだけあって、通常のスクールバスでは考えられない、至れり尽くせりのものだった。ビロード張りの清潔感溢れる座席は座り心地が良く、Wi-Fi環境も整っている。健康に配慮したお菓子セクションもあり、ナッツ類や新鮮な果物が食べられる。冷蔵庫も付いていて、アルカリ性の水や冷たいジュースも飲める。プライベートジェット並みの豪華設備を整えた高級バスだった。そして、空港のシャトルバスみたいに、東京のさまざまな場所のホテル前で停まって、生徒たちを降ろしていた。バスを降りた生徒は、そこから歩いて家に帰るか、または迎えの車に乗り込む子もいた。私は大体、バスの中では宿題をしているか、夜の勉強に備えて頭を休めるために、うとうとしていた。

リュウは私の一列後ろ、通路を挟んで斜め後ろの席に座っていた。「ねえ、エル」

私は振り向いた。彼の青いメッシュが入った黒髪は、さっきまでプールで泳いでいたから、まだ濡れている。彼の髪から漂う塩素の匂いが、ふわっと私の鼻をくすぐった。私はこの匂いが大好きなのよ。「何?」

「音楽の練習をしてもいいかな? 君はヘッドフォンをしてないみたいだから、一応聞いてみたんだけど」

「べつに構わないわよ」と私は、イモジェンを真似るみたいに、ぶっきらぼうに言い放った。ただ、〈エックス・ブラッツ〉のメンバーはこのバスに乗っていないから、不機嫌そうに性悪を気取る必要もないな、と思い直した。そこで、ふと、哲学的な問いかけを思い出した。誰もいない森で一本の木が倒れた場合、倒れた音はしたのか? その場に誰かいれば、音はしたんでしょうけど、誰の耳にも届かない音は、無いに等しい。つまり、このバスには私たち二人しかいないから、みんなから無視されている男の子にちょっとくらい優しくしても、まあ、優しくしなかったに等しい。それに、純粋に彼のことを知りたい気持ちもあった。彼の隣の空いている席にはケースが置かれていて、楽器が入っているようだった。私は彼に聞いた。「何を弾くの?」

彼がケースを開けて、楽器を取り出した...ウクレレだった! 「何かリクエストある?」と彼が聞いてきた。

「ウクレレの曲はちょっとわかんないな」

「君の好きな曲でいいよ。どんな曲でもウクレレで弾けるから。子供の頃に好きだった曲とか」

「何だろう、あ、『オズの魔法使い』が大好きだったわ。"Over the Rainbow"(虹の彼方に)とか?」ああ! なんてありきたりな選曲をしちゃったのかしら。もっとじっくり考えて、気の利いた曲を選べばよかった。ここにはいないはずのイモジェンが、つまらないことを言った私を見て、呆れたという風にぐるりと目を回す様子がありありと目に浮かんだ。

「それ、大好きな曲なんだ」とリュウが言った。彼は指を軽い感じで動かして、コードをかき鳴らし始めた。彼は弾くだけで歌わなかったけれど、私の頭の中では、彼の演奏に合わせて、ジュディ・ガーランドの伸びやかな歌声が聞こえてきた。Somewhere, over the rainbow, skies are blue.(どこか、虹の彼方には、空が青い場所があって)ウクレレで奏でられるそのメロディーは、なんだかすごく心地良くて、私をとても幸せな気持ちにしてくれた。エル・ゾエルナー、あなたって単純なお馬鹿さんね。

「すごく上手ね」と私はリュウに言った。彼は顔にうっすらと笑みを浮かべて、自信たっぷりに弾いている。彼自身、弾いているのが楽しくて仕方ないといった表情だ。「でも、いろんな楽器がある中で、どうしてウクレレを選んだの?」

彼はウクレレをつまびきながら、コード進行を変え、新たな曲調に移った。その伴奏に合わせて、彼は歌うように、私の質問に答える。「俺が10歳の時に、休暇でハワイに行ったんだけど、ホテルのギフトショップでウクレレを買ったんだ。ぽろんと弾いてみたら、ギターよりしっくり来たんだよ。これだって思って、それからずっと続けてる。ただね...父親は気に入らないみたいだな。ウクレレなんて男の弾く楽器じゃないって思ってるから。そんな彼のジェンダーバイアスに、偏見に立ち向かうために、俺は弾き続けているんだぜ」リュウは一瞬音を切って間を開けてから、フィナーレを演出するように激しくウクレレをかき鳴らした。そして、ヘビーメタルみたいなドスの利いた声で、がなり立てた。「俺は結婚式でも、ユダヤ教の成人式でも、呼ばれればどこへでも行って弾くぜ。センキュー、放課後のスクールバス、いいクルーズだったぜ。センキュー、エル、しっかり聴いてくれて、ありがとう!」彼は締めくくりに、小指と親指を突き出して、腕をひねり、高らかに右手を上げた。

彼がこんなに面白い人だったとは知らなかった。私は彼のイメージとのギャップに面喰ってしまい、笑ってあげることができなかった。私はクールに澄ましている方が、彼の中の私のイメージ通りでしょうから、笑う代わりに、パチパチと拍手で応えた。「バスでウクレレの練習をしても、私は構わないけど、弾きながらどさくさに紛れて、激しくおならはしないでよね」

リュウが再びウクレレをつまびき出し、メロディーに乗せて、言った。「君のバタフライのタイムはもっと伸びる。体を水面にできるだけ近づけて、そこでキープしながら泳ぐんだ」

ちょっと、何、ダメ出しなんてしてくれちゃってるのよ。「私、アドバイスして、なんて言ったっけ?」リュウってこういう人だったんだ。数分もすれば、傲慢で周りに当たり散らす彼がひょっこり顔を出すってことを忘れてたわ。私はヘッドフォンを引っ張り出して、化学の教科書を開いた。

会話終了。


・・・


それからバスに乗っている間、私はリュウを無視し続けた。タック・ラグゼに到着すると、そそくさとバスを降り、エレベーターに乗り込んだ。49階のボタンを押し、エレベーターが上昇を始める。すると、46階で一旦止まり、開いた扉から、キミ・タカハラが乗ってきた。

「ああ、こんにちは」とキミが私に声をかけた。彼女はタック・ラグゼで私を見かけると、いつもこんな風に驚いた顔をする。まるで私の存在を今まで忘れていたかのような、彼女の兄に非嫡出の娘がいて、今ここに住んでいることが信じられないみたいな表情をするのよ。「学校はどう?」

「まあまあ」と私はつぶやいた。私は彼女に何を言えばいいのか、全然わからない。彼女は私のことをちっとも知ろうとしてこないし、そんな彼女に私からすり寄っていくのもどうかと思う。彼女の私に対する無関心がどこから来るのかも、よくわかっていない。彼女は忙しすぎて私どころではないのか、単に興味がないだけか、それとも、彼女の母親みたいに失礼な人なのか。

「その髪、素敵よ」と彼女が私の髪を、また褒めた。彼女はエレベーターで私に会っても、それしか言わない。私に言いたいことなんて、それしかないわよ、と言わんばかりだ。

エレベーターのドアが48階で開いた。廊下にケンジの姿が見えた。ミセス・タカハラの部屋の前で、キミが来るのを待っている様子だ。私はケンジに今夜の夕食のことを聞くために、一旦エレベーターを降りようと思ったんだけど、私の行く手をさえぎるように、キミが私より先にエレベーターを出て振り返ると、言った。「家族しかダメよ」

エレベーターのドアが、私の鼻の前で閉じた。

なんて失礼なの!

私は苛立ちを振り払うように頭を振って、勝手にすれば、と扉に向かって言い放った。49階の自宅に直接帰るのが馬鹿らしくなり、55階を押して〈スカイガーデン〉に向かうことにした。プールサイドの温水ジャグジーに入ってリラックスすれば、叔母から受けた、いじめとまではいえない、巧妙な侮辱感から解放され、わだかまりが解凍されるのではないか。私はスポーツバッグに予備の水着を入れていた。エレベーターを降りて、女性更衣室に入り、水着に着替えると、プールエリアに出る扉を開けた。

うっと、一瞬立ち止まってしまった。ジャグジーバスにすでに誰かが入っている。よく見ると、見知らぬ人ではなく、アケミだった。

「今日のバイオリンのレッスンはどうだった?」と私は彼女に聞いた。

「きつかった。ひじが痛くなっちゃって、それでここに来て、ひじを癒してるの。だいぶ痛みは引いてきたわ」

「賢いわね!」私は温水バスに足を入れた。温かく泡立ったお湯の感触が心地良い。私はアケミと向かう合うように座って、ウォータージェットの穴の1つに背中を押し付けた。水圧にマッサージされているみたいに体が震えて、気持ちいい。

「水泳の練習はどうだった?」と彼女が私に聞いてきた。

「猛烈に泳いできたから、私もひじが痛いわ!」私もアケミの真似をして、両腕を背中の後ろに回してみた。ジェット噴射が直接ひじに当たって、効果てきめんって感じだ。

アケミが言った。「私、バイオリンに力を入れ過ぎてたみたい。バイオリンを弾くことで、いろいろ発散してた感じなんだけど、夢中になりすぎちゃった。英語の文法のテストで、Cを取っちゃったの」

「どんなテストだったの?」

「会話文を品詞に分けるやつ。名詞、形容詞、接続詞とか、そんな感じ。英語は日本語と全然違うから、私には無理みたい」

そこで、私はひらめいた。「ちくしょう!」と私は日本語で叫んだ。

アケミがくすくす笑い出す。「急にどうしたの?」

「聞いて。いい? 英語と日本語の違いをわからせてあげる。たとえば、ちくしょうっていう意味の英語、ファックって言ってみて」

「ファック」とアケミが小声で言った。

「名詞っていうのは、人や場所や物のことなの、わかる?」アケミがうなずく。「だから、ファックは名詞じゃないのよ。ファッカーって言えば、失礼な人って意味だから、名詞ね」

「ニック・ズホノフは失礼な人だから」とアケミが言った。

「あなたもそう思う? 私もニックって、失礼っていうか、うぬぼれが強いなって感じてたの。彼は大富豪の家の子だから、ちょっと浮世離れしてるのよね。ニックを例に使えるわ、『ニックってなんてファッカーなの!』って言ったら?」

「名詞!」とアケミが即答した。「でも、動名詞って何? 動詞なのか名詞なのか、混乱しちゃうの」

「動名詞っていうのは、動詞なんだけど、名詞のような働きをするの。I-N-Gで終わってる動詞のことよ」私はプールエリアを見回して、私たちの話を聞こうと近寄って来そうな人はいないことを確認してから、言った。「Fucking is what makes babies. みたいに、ファッキングって言えば動名詞になるの。ファックすることって意味ね、つまり、赤ちゃんを作ること」アケミが顔を赤らめた。「それから、動詞として使う場合は、Mom fucked Dad.(ママがパパとファックした)って言えばいいの。ファックしたから、私は今ここにいるのよ」

アケミが私にバシャッと水をかけた。私も、やめてよーと言いながら水をかけ返し、私たちは笑いの渦に飲み込まれていった。ひとしきりはしゃいだ後、私は言った。「じゃあ今度は、ファックを形容詞として使ってみて。名詞に説明を加える感じで」

アケミはちょっと考えてから、言った。「My elbows hurt fucking bad.(ひじがひどく痛いわ)」

「そう! 凄い上達ぶりね。教え甲斐があるわ。I’m so proud.」

「そこは、So fucking proud.でしょ」とアケミが機転を利かせた。

一本取られた私は、ブクブクと水中に顔をうずめた。そして再び水面に顔を出すと、アケミに言った。「あなたは私の教え子として申し分ないわ」

「Thank you very fucking much.」と彼女が返した。「あと、間投詞って何?」

「間投詞っていうのは、話し手が主に感情を表現するために使う挿入語句よ」正直に言うと、私は自分がこんなにも英文法に詳しかったとは、今の今まで気づかなかった。これならSATの練習問題をいつ誰に出されても、楽勝ね。「たとえば、うーん、今夜の夕食は何を食べようかしら? のうーんとか。あ、やばい、夕食の時間に遅れちゃう、のやばいが間投詞ね」

アケミはうなずくと、「あ、そうですか」と日本語で言った。

「それってどういう意味? その日本語、あちこちで耳にするから、何だろうって思ってたの」

「Oh, really? とか、Ah, I see. みたいな、日本語の間投詞よ。日本人は言われたことをいちいち確認するのが好きなの、礼儀作法の一つとしてね。だから、相槌を打つ感じで、何かを言われたら、あ、そうですかって間投詞を挟むのよ」

「ありがとう、アケミ! それを知れて、今後すっごく助かるわ」

「You’re fucking welcome(どういたしまして)」と、彼女はファッキングを挟んで言うと、再び私に水をかけ出した。


・・・


その夜、私はケンジと〈生け花カフェ〉でディナーを食べた。タック・ラグゼには、もっと高級なレストランがいくつもあるけど、私はここがお気に入りなの。比較的カジュアルな雰囲気だし、豪華なメニューの中から一つを選ぶよりも、ビュッフェ形式でいろいろ食べられる方が楽しいから。それに、このお店のウェイターは、私のドリンクの好みを心得てくれているから。

「コカコーラを一つお持ちしました」と、さっそくデーブ・フラーハティが、私が頼む前にコーラを持って来てくれた。

「コーラに、―」と私は言いかけた。

「氷ですね。たくさん入れておきました」日本では、コーラに氷が入って出てきたためしがないから、氷を入れて、と頼まなければならないんだけど、それでも氷の量が少ないから、もっとたくさん入れて、と頼み直すことになる。「あなたは炭酸水でよろしかったでしょうか?」とデーブがケンジに聞いた。

「ああ、頼む」とケンジが答えた。「氷は入れなくていい。俺はアメリカ人じゃないからな。文明人のように飲みたいんだ」そう言うと、彼が私にウィンクしてきた。私をからかっているらしい。デーブがテーブルを離れると、私が切り出そうと思っていた話題を、先にケンジが持ち出した。「さっきのエレベーターの件だけど、キミが君に謝っておいてほしいと言ってたよ。彼女はちゃんと説明しようとしたんだけど、その前にエレベーターが閉まっちゃったんだ」

「説明って?」私はまだ、あの屈辱的な出来事について、わだかまりを感じていた。

「キミが『家族しかダメ』って言っただろ。あれは、俺たちが何十年も続けてる伝統行事のことなんだ。週に一度、夕方、母の茶室に集まって日本式の茶道をやってるんだよ。とても形式ばった催しだから、10代が楽しめるようなものじゃない」

勝手に決めないでよね。どんなものかわからないんだから、楽しめるかどうかも、わかるわけないじゃない。「形式ばってるってどんな風に? お茶を飲むだけじゃないの?」

「お茶を飲むだけじゃないな。きっちり決まった作法に則って、特別な抹茶を点てるんだ。母とキミはきちんと着物を着込むし、母にとっては大事な日本の習慣なんだよ。キミと俺は退屈だけど、母に付き合って続けてる感じだな」

「なんか面白そう」私も参加したい、とは言いたくなかった。家族に入ろうと必死になってる、と思われるのも嫌だったし、わざわざ自分から手を挙げて、ケンジの母親と一緒に過ごしたいとは思わない。「それって外国から来た人は、参加しちゃダメなんでしょ?」

「まあ、旅行で日本に来た観光客は、多額のお金を払って、タック・ラグゼで開いてる日本式のお茶会に参加してるけど、あれは、うちの家族だけのプライベートな行事だから」

またそれだ。また微妙な感じで抜け者にされた気分。「あっそ」と私は言った。

「プライベートっていうのはな、俺たちの場合、ビジネスについて話し合うって意味なんだ。親父が亡くなってから、キミと俺が今後の経営方針とか、アイデアを母に、それとなくアドバイスしてるんだよ。茶道をやりながらだと、母の機嫌を損ねることなくスムーズに事が運ぶんだ」

「姑息ね」と私は言った。

「ありがとう」と彼が返した。ずるい、という意味で言ったんだけど、ケンジは褒め言葉だと捉えたみたい。「今日の学校はどうだった?」

学校のことは、私たちにとって無難なトピックだった。私たちが別々の国で暮らしていた長い年月について話すより、今日の出来事を話す方が、何倍も気楽だ。「スペイン語のテストで、Bプラスを取ったわ」

「お、凄いじゃないか。この前はBマイナスだったから、上がったわけだな?」私は氷と一緒に、プライドも飲み込んだ。誰からでも褒められるのは嬉しいけど、ケンジから褒められるのは、その何千倍も嬉しい。「『グレート・ギャツビー』のエッセイは返ってきたか?」毎晩、ディナーを食べながら学校のことを話しているから、ケンジは色々知っているのよ。べつに彼は私の宿題をチェックしたりしないし、宿題を手伝ってくれることもない。

「うん、返ってきた。Bだった」

「それは良かったな」

Bは大して良くないことを、二人ともわかってはいたけれど、それでオッケーだった。

「先生が言うには、私の論述、言葉運びは優れているんだけど、説明に焦点を当てすぎていて、説得の方が手薄になってるって」エッセイが返ってきてから、自分でもう一度読み直してみたら、先生の言ってることがわかってきたけど、愚痴をこぼしたい気分にもなった。ICS-東京校に来るまでは、国語のクラスで、こんなに長い論文を書かされたことなんてなかったんだから、ちょっとは大目に見てよ!

「家庭教師を雇った方がいいか?」少し離れたテーブルのお客さんに、デーブ・フラーハティがビールを持って来たところだった。ケンジがデーブを見遣ってから、私に視線を戻した。「彼はプリンストン大学を出てるんだ。彼だったら、上手く英語の論文を書く方法を知ってるぞ」

「彼はここの仕事で十分忙しいでしょ! 彼にホテルの部屋の配管の修理まではさせてないでしょうけど」

「させてない、とまでは言い切れないな」とケンジが冗談めかして言った。

私は笑った。「学校の図書館に、専属のチューターがいるのよ。次エッセイを書く時は、書き方のアドバイスをもらいに行ってみるわ」

「それは良い考えだな。俺みたいなバカにはなるなよ。俺はアンドーバーにいた時、一度もチューターにアドバイスをもらいに行ったりしなかった。行っとけば、だいぶ俺の成績は違っていただろうな。俺の成績表を見て、親父はいつも怒ってたよ。『こんな成績を取らすために、地球を半周させて、一流の教育を受けさせてるんじゃないぞ。これがお前の全力の結果か?』って」

「あなたのお父さんって、堅物だったみたいね」と私は言った。

私は侮辱してそう言ったわけではないし、ケンジも侮辱の言葉とは受け取らなかった。彼はうなずいてから、言った。「親父はとても頭が良くて、勤勉だったよ。たしかに堅物だったから、喜ばせるのは無理だったな。少なくとも俺には無理だった。キミは親父の自慢の娘だったから、キミのことを話してる時は、表情も緩んでたよ」

「彼女が彼のお気に入りだったってこと? それとも彼女が女の子だから?」

「おそらく両方だろうな。彼女は親父に似てるんだよ。頭も切れるし、彼女は親父の瞳に映るオレンジだ」

「それを言うなら、『リンゴ』ね」

「リンゴ?」

「英語の言い回しで、The apple of someone’s eye.(誰かの瞳に映るリンゴ)って言えば、大のお気に入りって意味なのよ」

「それだ。キミは親父のリンゴちゃんだった。俺は腐ったリンゴだったけどな。成績は一向に上がらなかったし、ビジネスでも失望させちまった」あらあら。子供のあら捜しが過ぎる親を持つと大変ね。ケンジがお酒の問題を膨らませていった理由が、段々とわかってきた。

私は言った。「彼はあなたのことを、そんな風には悪く思ってなかったんじゃないかしら。そうじゃなかったら、あなたに経営を継がせようとは思わないでしょ」ケンジが自分の能力を疑うようなことばかり言ってるから、彼が世界中に何千人もの従業員を抱える会社を経営していることが不思議に思えてくる。

「日本では、男がビジネスを経営するものなんだよ」たとえキミがハーバード大学を優秀な成績で卒業しようとも、とまでは彼は言わなかったけれど、私は自分に置き換えて考えてみた。もし私がどんなに頑張っても、どんなに賢くても、―そして、私より経営者に適さない兄がいたとして、―それでも、家族経営のビジネスのトップに兄がなってしまうのなら、私もキミみたいに、いつも神経をピリピリさせている感じの人になってしまうでしょうね。

私のスマホが光って、「ニック Z」と画面に表示された。ニックからのメッセージだ。土曜日は渋谷に行こう! 他の予定は入れるなよ!

オッケー、と私は返信した。

「もう男とメールをやり取りしてるのか?」とケンジが私に聞いてきた。「どんなやつなんだ?」

「ニック・ズホノフが今週の土曜日、渋谷を案内してくれるんですって」

ケンジがうなずいた。ズホノフという名前を聞いて、嬉しそうだった。「素晴らしいぞ」と彼が、私の功績を褒め称えるように言った。私はニックからメッセージを受け取っただけなんだけど。



チャプター 24


土曜日のお昼過ぎ、オスカーとニックと私の三人はタクシーを降り、新宿の地に足を踏み入れた。新宿は、東京の中でも歓楽街として有名で、高層ビルが立ち並び、バーやレストランや劇場のネオンサインが、風景の上半分を埋め尽くすように、ひしめき合っている。女の子たちは後から合流することになっていた。ジャンビとヌトンビはまだフィールドホッケーの試合中だし、イモジェンは空手の稽古に行っている。私もみんなと同じ時間に待ち合わせるのかと思っていたら、男の子たちが、その前に私だけを誘ってきたから、びっくりした。彼らとは毎日のようにランチタイムを一緒に過ごしているから、今ではもう、彼らの前で緊張することはないけれど、彼らがどういうつもりで私だけを誘ったのか、ちょっと不安。

「この一帯は『歓楽の迷宮』と呼ばれてるんだ」とニックが私に言った。彼はタクシーの運転手さんにお金を払うと、機敏に外に出て、降りる私をエスコートしてくれた。「怪しげなバーとか、逢い引き用のホテルとか、ナイトクラブとか、いかした場所が何でも集まってる」彼はこの地に立っているだけで興奮しているようだった。彼の藍色の瞳がきらめいている。

オスカーが言った。「渋谷の夜は活気があって、テンションが上がるぞ。だけど、まずは新宿だろうと思って、お前を連れて来たんだ。俺たちはいかしてるからな」

「ちゃんと教えて」と私は言った。「あなたたちは私に試練でも与えようとしてるの?」

「新入りに試練を与えて、忠誠心を試す的な?」とニックが聞いた。

「そう」

オスカーとニックはお互いの顔を見合わせて、笑った。ニックが言った。「そんなわけないだろ。これから階段を下りた先で待ってることは、試練とは真逆で、楽しいことばかりだ」

〈ロボットレストラン〉と書かれた建物の前まで来ると、ニックが予約済みの窓口に歩み寄り、三人分のチケットを受け取った。そして私たちは、目立たない入口から中に入ると、ガラスの壁に囲まれた狭く曲がりくねった階段を下りていった。地下2階辺りまで階段を下りると、ラスベガスのカジノを思わせるラウンジに出た。スペースの隅々まで、余すところなく金や銀やヒョウ柄で覆いつくされ、カジノ以上に幻惑に満ちた雰囲気を演出している。天井にもテーブルにもカウンターにも、あらゆる設備に日本のポップアートが弾けていて、その幻想的で壮観な空間は、エルビス・プレスリーの豪華絢爛な邸宅をデザインしたデザイナーが、嫉妬で怒り狂うんじゃないかと思うほどだった。ラウンジの角では、ジャズバンドが演奏を繰り広げている。サックス奏者もキーボードプレイヤーも、みんなロボットに扮していた。小さなステージ上では、ロボットをモチーフにしたランジェリー風の衣装を着た日本人の女の子たちが、ジャズのリズムに合わせてセクシーに踊りながら、日本語で歌っている。

どこを見渡しても、キラキラ煌めくネオンサインのような電灯がまたたいていた。フロアの一角にガラス張りの密閉された部屋があり、中で煙草をふかしている人たちがいた。この光景は東京に来てからよく見かけていたから、馴染みがあった。東京では、コーヒーショップに入っても、喫煙者用のスペースはガラスの壁で分けられていたし、セブンイレブンとかのコンビニでも、喫煙専用のエリアを設けている店舗もあるくらい、分煙に熱心だった。しかし、これまでに私が見かけた喫煙所はどれも、単なるガラス張りの小部屋で、〈ロボットレストラン〉の喫煙室ほど、まばゆいばかりに煌めく宮殿のような場所はなかった。

「こんな場所が実在するの?」と私は二人の男子に聞いた。

「メインイベントはこれからだよ」とニックが言った。

オスカーはスマホでメールを見ている。「今、後半の途中で、〈ブリティッシュインターナショナルスクール〉がICSを4点差でリードしてる。この分だと、俺たちに合流した時の彼女たちの機嫌は最悪だぞ」

「なんか、スポーツがあなたの人生の中心みたいね?」と私はオスカーに聞いた。嫌みを言ってやろうとか、そういうつもりはなかったんだけど、私がこれまでに彼とした会話を振り返ってみると、大概スマホでスポーツのスコアをチェックしていたり、ICSのポロチームがどうのこうの言ってたりしたから、スポーツにしか興味ないのかと思っていた。

「俺は綺麗な男子も、スポーツと同じくらい好きだよ。残念ながら、ここには、いかした男子はいないみたいだな」オスカーはそう言うと、ニックの体をグイッと押した。ICS-東京には他にもゲイの男子が何人かいたけれど、私がこれまで出会った中では、自分のセクシュアリティーをここまで大っぴらにして、しかも誇りに思っているのは彼だけだった。

ニックが私の肩に腕を回してきて、オスカーに向かって言った。「僕は今、美人さんとお話中だから、君の男漁りに付き合ってる暇はないよ」

ニックに腕を回されて、私は気分が良いのか悪いのか、決めかねているうちに、1階下の階でメインのショーが始まるとアナウンスがあり、私たちは階段を下りていった。メインステージのフロアは驚くほど狭く、階段状の見物席が両側にあり、その間にボクシングのリングサイズの、何も置かれていない舞台があった。客席の後ろの壁は映像が流れるスクリーンになっていた。柔らかな光が私たちを照らす中、私たちは一番高い後方の座席に座り、ショーが始まるのを待った。

ステージが突然、レーザー光線とLEDライトでピカッとライトアップされたかと思うと、巨大なゴジラがステージ上に現れた。アニマトロニクスを駆使したロボットのゴジラだった。ゴジラに続いて、日本人の美女たちが続々と登場してきた。ストリッパー風の衣装を着たダンサーや、鼓笛隊もその後に続き、胸がわき立つようなポップチューンを演奏している。視線を上げると、反対側の客席の後ろのスクリーンでは、アフリカのサファリの映像が流され、Wild!Crazy!といった英語が点滅し、またたいていた。場内に鳴り響く楽曲は、どんどん奇妙で厳かなムードの曲調に変化していった。女子たちが踊りながらゴジラと戦い、ゴジラをやっつけると、今度は恐竜が現れ、ロボットスーツに身を包んだ男たちが登場した。そして、ポップミュージックのサウンドに乗って、ロボットスーツ隊が恐竜と戦い出した。その周りでは、セクシーな女子たちが、レーザー光線を発するライトセーバーを振り回しながら、歌って踊っている。

オスカーがポップコーンを口に放り込みながら、言った。「女子だけじゃなくて、マッチョな半裸男子もダンスグループに加わってくれれば、最高なんだけどな」

ニックはステージで繰り広げられているアクションを見ながら、大きな笑みを浮かべている。ニックがこんなにもハンサムだったなんて、今まで気づかなかった。たぶんオスカーがめちゃくちゃイケメンだから、隣にいるニックが霞んじゃってたんだと思う。ニックは北欧出身のスラブ系で、顔がいつもキリッと張り詰めてる感じだから、こんなに緩んだ表情を見たのは初めてだった。彼の丸刈りに近い短髪は、リュウ・キムラの青いメッシュが入った黒髪ほどは目を引かないけど、ニックは頬骨がキリッとつり上がっていて、バラみたいにポッと赤らんだ頬をしてるし、彼の真っ白な歯は、おそらく私が今まで見た中で最も白い歯だわ。彼は歯磨きのスキルがプロレベルなのかしら? それとも、父親の潤沢なお金を使って、歯のホワイトニングをプロに頼んでるのかしら? どちらにしても、笑顔がよく似合ってるわ。

「どうだった?」とニックが、終わったばかりのショーについて私に聞いた。

「こんな経験をしたのは初めてだったわ。悪趣味にぞっとされつつも、同時に楽しくなっちゃうみたいな、不思議な感覚」と私は答えた。途中からニックに見とれていて、ショーはあまり見てなかったけど。

「ああ」とオスカーがスマホを見ながら声を上げた。「それはあれだな、君がまだ、フィールドホッケーの試合に負けた後の、エックス・ブラッツの女子たちに会ったことがないから、そんなのんきなこと言って、余韻に浸っていられるんだ」


・・・


たとえば、私が渋谷の「スクランブル」交差点を急いで横断中に不慮の事故で死んだとして、私の葬儀を執り行ってくれる人は、私の満足そうな死に顔を見て、これが本望だったんだな、と気づいてほしい。歩行者用の信号が「」になった瞬間に、四方八方からドッと何千人もの人々が一斉に歩き出し、縦横無尽に行き交う交差点の真ん中で死ねるのなら、人生に悔いることは何もない気がする。渋谷は、高層ビルに囲まれた世界の中心地のような場所だった。視界の上方では電子広告やネオンサインがチカチカとはためき、地上レベルではガラス窓を通して、様々なお店やレストランの中が見える。一度には捉え切れないほど多くの人々が、どこかに向かって急いでいる。スキニーパンツを穿いたファッショニスタの女性たち。スチレット・ヒールのパンプスをベダルに乗せ、混雑した歩道を自転車ですり抜けるように進む女性。髪をピンクに染め、クレイジーな衣装に身を包んだ原宿ガールズ。着物を着て、ビーチサンダルみたいな履物なのに白い靴下を履き、ちょこちょこと歩いている女性もいる。賑やかな居酒屋からは、大声で話す男性たちの笑い声が通りに溢れてくる。お気に入りのアニメキャラクターに扮した衣装を身にまとい、通りをこれ見よがしに闊歩している若者たち。(ニックが「コスプレって言うんだ」と教えてくれた。)ここでは毎日がハロウィンのようだった。

楽しすぎ。

もちろん私は死にたくはないけど、もし死んだら、死後の世界で出会った人たちにこう言うわ。「私が死ぬのは時期尚早だったかもしれないけど、気の毒だなんて思わないで」って。「短い人生の最期に、東京のすべてを一度に見ることができたから。」

私がそんなことを思っていたら、イモジェンが混雑した横断歩道の真ん中で、文字通り立ち止まった。何千人もの人々が私たちを避けるようにして、歩道の縁石へと急いでいる。もうすぐ信号が赤に変わり、車が再び四方八方からドッと流れ込んでくるからだ。

「一体何やってるのよ、イモさん? 早く!」とジャンビが懇願するように言って、イモジェンの腕を必死に引っ張っている。

「彼はどこにでもいるのよね」イモジェンは愚痴をこぼすようにそう言うと、腕を高く上げ、高層ビルの一つを指差した。―青、黒、赤、白、黄色のコラージュで覆われたビルの壁一面が、巨大な電子壁画のように、彼女の父親の肖像画を映し出していた。つい最近知ったんだけど、彼は単なる彫刻家ではなく、日本で最も有名なポップカルチャーアーティストの一人だった。電子壁画に映るアキラ・カトウは、レゲエミュージシャンみたいなドレッドヘアーをカラフルに染めていて、ほぼ全裸だった。―お相撲さんが身に付けているまわし(ふんどし)は腰に巻いていたけど...これはたしかに見入っちゃうわね。もしミセス・タカハラが、また私の服装がなってないだとか、ディスティニー・クラブではちゃんとした正装をさせなさいだとか、ケンジに向かって日本語で言い出したら、このスクランブル交差点の頭上に掲げられているイモジェンの父親のほぼ全裸写真をミセス・タカハラに見せつけてやるわ。服装規定の何たるかを彼女に教えてあげるのよ。

イモジェンの父親は本当に、いたるところで見かけた。ゴミ箱、地下鉄、誰かが読んでいる新聞の広告など、さっき見かけたばかりの顔がすぐにまた視界に入ってくる。日本のお札に載っているのと変わらないくらい、彼の顔(とぶよぶよの胸とお腹)は東京人にお馴染みだった。

イモジェンが全然動こうとしないので、ニックとオスカーが両脇から彼女の腕をつかみ、持ち上げるようにして縁石まで運んだ。ちょうど歩行者用の信号が赤になり、車やトラックやバスが再び交差点を占拠した。

「そんなことしちゃだめ!」とヌトンビがイモジェンを怒鳴りつけた。

「ごめんなさい」とイモジェンは謝る気なんてなさそうに、投げやりな感じでつぶやいた。「彼の展覧会が終われば、憂鬱な気分も吹き飛ぶわ」

「あとどのくらい?」とジャンビが聞いた。

「あと一週間」とイモジェンは答えてから、私の方を見て言った。「展覧会が終わったら、盛大にお祝いするわよ、いい?」

「今ここで前祝いしようぜ」とニックが言った。彼はさっき駅で買った缶ビールを二つ、ジャケットの内ポケットから引っ張り出すと、いたずらっぽく微笑んだ。日本ではとても簡単にビールが買えてしまうから、私はまだ戸惑いを拭い切れていない。自動販売機でお酒を買えるのよ、しかも、年齢確認なしで。自動販売機はそこらじゅう、―路地、コンビニの前、駅のホームなど、いたるところにあって、ありとあらゆるものが売られていた。―ジュース、コーヒー、お茶、タバコ、お菓子、スープ、温かい食べ物、そしてお酒やビールまで。いったい誰が買うの? 「ビール飲みたい人?」

イモジェンだけが手を挙げ、他のみんなは首を横に振った。ニックはアサヒビールを一缶、イモジェンに手渡し、もう一缶を自分で飲むために開けた。そこに、日本人の年配女性が通りかかり、日本語でイモジェンに向かって、𠮟りつけるような言葉を吐いた。おそらくその婦人は、イモジェンが日本語を話せないと思ったんでしょう。でも実際は、エックス・ブラッツの中で唯一日本語を話せるメンバーが、イモジェンだった。彼女はその婦人に向かって、日本語で怒鳴り返した。すると、その女性は手に持っていた買い物袋で一発イモジェンを叩いてから、そそくさと駅の方へ急いで行ってしまった。

「いったい何て言われたんだ?」とオスカーがイモジェンに聞いた。

「不良、はしたない、あなたたち10代でしょ! お酒なんか飲んで、恥を知りなさい!」とイモジェンは言った。彼女がニックのビール缶に自分のビール缶をカチンと合わせて、乾杯、と言うと、二人並んで、ごくごくとビールを飲み干した。そして空になった缶を、酔っ払いみたいなアキラ・カトウの写真が貼られたゴミ箱の中に、ニックが放り投げた。イモジェンが「プハー、うまい」と言って、げっぷをした。

「お腹ぺこぺこなのよ。今日の試合負けちゃったから、ごちそうを食べて気分を変えたいわ」とジャンビが言った。

「実際、飢えに苦しむ状況は緊迫してるわ」とヌトンビが言った。

「東急フードショーに行こう!」とオスカーとニックが二人して言った。

そこは彼らがよく行く渋谷駅近くのお食事処らしく、私は期待感を膨らませながら、みんなの後についていった。前に行ったデパートとは別の、〈東急〉というデパートの地下フロアにたどり着くと、そこにも食品コーナーがずらっと並んでいた。―グリルしたウナギ、フライドポーク、フィッシュサラダ、お寿司、シーフードの巻き寿司、餃子、お餅の和菓子、ケーキ、チョコレート、ゼリーのお菓子などが、まばゆいばかりに光を放ち、目がくらみそうになる。

「何にする? エルさん」とニックが、棒に刺さったタコを食べながら聞いてきた。

「私はまず、プラスチック製の食品サンプルを見てから決めたいな」と私は冗談を言った。東京に来てから、よく目にするものの中で、私が気に入ったものが食品サンプルだった。レストランの入り口の横、ショーケースの中に並んだメニューのサンプル(スープ、お肉、天ぷら、麺類など)を見ていると、プラスチックでできているのに美味しそうで、うきうきしてくるの。

「これ食べてみて」とニックが言って、タコを私の口の前に差し出した。

私は首を横に振った。「うぇ。私はお餅を食べるからいいわ」

まだ見ぬ父親に会いに地球を半周して、はるばるここにやって来て良かったことはたくさんあるけれど、そのうちの一つが、食べ物や栄養に関してうるさく言う人がいないということだった。ケンジは仕事で年がら年中忙しいし、それに彼は私と同じ甘党だから、野獣に出くわす前のママみたいに、タンパク質を取りなさいだとか、もっと野菜を食べなさいだとか、決して言ってこない。

「何時に家に帰らないといけないの?」とイモジェンがヌトンビに聞いた。彼女の両親は今週末はこの街にいないので、多少自由に行動できるとはいえ、神経質な家政婦が心配しすぎて心臓発作で倒れないためにも、そこまで遅くない門限を設定する必要があったみたい。

「10時には帰るって言ってあるわ。あなたは?」とヌトンビが私に聞いた。

私は肩をすくめた。誰にも何も言われていない。これも東京に来たメリットに入るの? 家で私の帰りを待っててくれる人が誰一人いないなんて。

イモジェンが言った。「ギャルたちについていきましょう。彼女たちが行くところなら、きっと楽しい場所よ。つまらない場所だったら、入らなければいいわ」

「ギャル?」と私は聞いた。

ジャンビが答えた。「日本の女子高生のことよ。制服のミニスカートを穿いて、上はストリートファッションっぽいトップスを合わせてる子が多いわね」

イモジェンが言った。「目が大きく見えるように、つけまつげを付けて、髪を茶色く染めてるのよ。中にはピンクに染めてる子もいるわ」

「背中のリュックには、小さなテディベアのぬいぐるみとかをぶら下げてるんだ」とニックが言った。

「私、ギャルを見かけたことあるわ!」と私は叫んだ。彼女たちを尾行するなんて、スパイみたいでなんだかワクワクするわ。2ヶ月前に誰かが私に向かって、そのうちあなたにはハイソな私立高校の友達ができて、クレイジーな服装で東京の街を歩く日本の女子高生の後をつけることになるわって、予言めいたことを口にしたとしても、私は絶対に信じなかったでしょうね。私たちは、くすくすと笑い合っているギャルの一団を見つけると、彼女たちの後ろについてエスカレーターで上っていった。彼女たちは〈東急〉から外の通りに出て、くねくねと曲がりくねった迷路みたいな路地を数ブロックほど歩くと、高いビルの前まで来た。ギャルたちがエレベーターに乗り込むのを見届けて、エックス・ブラッツの面々は顔を見合わせる。「彼女たち、どこに向かったと思う?」とイモジェンがみんなに聞いた。

私たちは1階に留まったまま、扉の上のモニター表示を見つめていた。すると、エレベーターが8階で止まったことがわかった。イモジェンが日本語で書かれたビルの案内板を確認する。「ああ、カラオケね! 行きましょう、みんな」

私たちはエレベーターに乗り込むと、8階まで上っていった。イモジェンがカウンター越しに店員さんと日本語で話し、手続きを済ませてくれた。「今、ハローキティの部屋しか空いてないって。ごめんね、オスカー!」と彼女が謝ってるというよりは、むしろ面白がってる感じで言う。「あなたが恐怖症レベルでサンリオストアを避けてること、みんな知ってるわ。勇気を出すのよ!」オスカーが苦笑いを浮かべた。

店員さんに案内されて、私たちは小さな部屋に入った。向こう側の壁に巨大なモニターがあって、他の三つの壁際にはソファーが置かれていた。中央にはテーブルがあって、軽食や飲み物のメニューが上に載っている。そして、部屋全体がハローキティの壁紙で覆われ、ピンク、赤、白、リボンが渦巻くようなサイケデリックなスペースを演出していた。ソファーにはハローキティのぬいぐるみが置かれ、テーブルの表面にもハローキティが描かれていて、私は目を見張るばかりだった。「あなたに最初の選曲権を与えるわ、新入りさん」とイモジェンが私に言った。





私はダサい選曲はしたくないと、一瞬考え込んだが、次の瞬間には、最初に頭に浮かんだ曲をぽろっと口にしていた。「『ミスター・ロボット』かな?」

自分で言っておいて、その馬鹿げた選曲にドン引きしてしまう。日本をテーマにした曲で私が知っている唯一の曲が、スティクスの『ミスター・ロボット』だった。私が子供の頃、お風呂にロボットのおもちゃを浮かべて遊んでいた時、ママがよく歌ってくれたから。ママのお気に入りは、曲の出だしで「どうもありがとう、ミスター・ロボット」と日本語で歌うところだった。

「それはちょっと狙いすぎね。パス」とイモジェンが言って、代わりにドレイクの『Hotline Bling』を選んで入力した。「みんなで歌いましょう」

曲が始まり、モニターではミュージックビデオと同時進行で歌詞が流れ出した。私を除く全員が、自由気ままにリズムに乗って歌っている。実は、私はかなりの音痴で、私が歌うと、どうしたって音程が外れてしまうのよ。だから私は、声は出さずに口だけ動かしながら、みんなが歌って踊る様子を眺めていた。イモジェンが壁の受話器を取って、ポップコーンとビールを注文した。その間にも、みんなはおかしなダンスを繰り広げながら歌っている。私はその光景が面白くて、爆笑してしまい、その弾みでおしっこが漏れそうになってしまった。私はずっと声は出すまいと口だけ動かしていたんだけど、思わずメロディーに乗せて声が出てしまう。「ちょっとトイレに行ってくる!」

私がカラオケルームを出ると、ニックも私の後について出てきた。「俺もトイレ」と彼が言った。

細い廊下を進んでいると、他のカラオケルームのドアが私たちの行く手をふさぐように開き、2人のサラリーマンが千鳥足で出てきて、私たちより先にトイレに入ってしまった。仕方なくその場で待っていると、ニックが私に手招きしながら、さっき2人のサラリーマンの出てきたドアのガラス窓から中を覗いている。私も彼の横から中を覗くと、会社の同僚だろうか、3人のスーツ姿の男性がお酒を飲みながら、『Uptown Funk』を歌っていた。ドアの外まで「Uptown funk you up(アップタウンで君を夢中にしてやるぜ)」と歌声が漏れ聞こえてくる。

「俺が君を夢中にしてやるぜ」とニックが私の耳元でささやいた。彼は私の腕をグイッと引くと、廊下に置かれていたベンチに私を座らせた。

私は彼の顔を見つめてしまう。彼のがっしりとしたアスリートのような体が覆いかぶさってくる。彼はタイトなポロシャツを着ていて、引き締まった筋肉が浮き立つように感じられた。彼のキュートな顔には、ちょっと邪悪な笑みが浮かんでいる。

『Uptown Funk』が終わったらしく、日本のアイドルソングらしき曲が流れ出した。ドアの中の酔っ払った男性たちは一段と盛り上がり、より一層浮かれ騒ぐように歌い出した。ドアの外側の外人へ向けたアピールの曲にも聞こえる。ニックも彼らに対抗するように、彼自身のショーを続けた。彼の潤んだ瞳とピンクの唇が迫ってくる。私は唇が軽く触れるキス以外では、キスをしたことがなかった。まさか東京で、その時がやって来るとは思ってもみなかった。

私の本気のファーストキスだった。



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〈登場人物の紹介〉

エル・ゾエルナー:16歳になったばかりの女の子。水泳が得意。

レジー・コールマン:2歳年上の男の子。かつてYMCAの水泳チームでエルと一緒だった。来年の1月から軍隊に入る。同じ学校のカルメン・ロドリゲスと付き合ってるっぽい。

ママ:現在、服役中。

マサおじさん:ケンジのいとこ。

ケンジ・タカハラ:エルの父親。〈タック・ラグゼ〉のオーナー。野球が得意。ジョージタウン大学に留学中、レストランのウェイトレスをしていたエルのママと知り合い、恋に落ちた。

ノリコ・タカハラ:ケンジの母親。影の女帝。

キミコ・タカハラ:ケンジの妹。ハーバード卒。

エミコ・カツラ:ケンジの秘書。エルの世話係。日本の大学を卒業後、ハーバードの大学院でMBAを取得。

デーブ・フラーハティ:〈タック・ラグゼ〉で働いている。

アケミ:1歳年下で、シャイな女の子。〈タック・ラグゼ〉に住んでいる。家族関係が超複雑。バイオリンが得意。

タケオ・キノシタ:アケミの父親。

リュウ・キムラ:水泳が得意な細マッチョ。親がヤクザという噂。村上春樹が好き。ウクレレが得意。

アラベラ:リュウの元カノ。リュウに振られ、傷心してボリビアに帰国。


〈エックス・ブラッツのメンバー〉

イモジェン・カトウ:母親が世界的デザイナーのシャル・カトウで、父親が彫刻家のアキラ・カトウ。

ジャンビ・カプール:赤のメッシュが入った長い黒髪のインド人。フィールドホッケーが得意。

ヌトンビ・アマティラ:髪の毛をビーズ状にして細く編み込んでいる黒人。母親がナミビアの大使。両親が厳格。

オスカー・アコスタ:黒髪でオリーブ色の肌をしたイケメン。アラベラの双子の兄。

ニック・ズホノフ:気取り屋で藍色の瞳をしたイケメン。北欧出身のスラブ系で、丸刈りに近い短髪。父親がアレクセイ・ズホノフ(スマホのマイクロチップ開発者)。エルに気があるっぽい。からの、エルのファーストキスの相手。


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チャプター 25


私はあなたを好きだけど、あなたとキスしても、私の心は震えなかったの。そう伝えたいんだけど、何か良い方法あるかしら?

海洋科学の授業中、長方形の長テーブルにニックと私は並んで座っている。教室の前では先生が海水のさまざまなサンプルを示し、それぞれの温度、塩分濃度、透明度、密度、圧力を測っていた。ニックはさっきから、私の横でしきりに体を押し付けてくる。これではまるで、二人でこそこそと内緒話でもしてるみたいじゃない。

私は授業に集中してノートを取ろうとしていたんだけど、ニックが私の手の上に彼の手を乗せるようにして、私のノートの空いているスペースに文字を書いてきた。この授業、かなり退屈!

授業に関しては私も同じ意見だった。でも今は、私のすぐ隣に座っている男子の大きな体ではなく、なんとしても授業に意識をもっていきたくて、私は彼の手の下から、私の手をすっと抜いた。

この週末、私はニックとキスしたなんて、まだ信じられない。というか、もっと正確に言うと、彼が私にキスしてきたことが信じられない。私は唇を合わせましょうって彼に無言の合図でも送ったのかしら? 送ってないとも言い切れないし、彼が無理やりキスしてきたって感じでもなかった。でも、不意を突かれたのは確かね。私は彼に迫られて嬉しい気持ちもあったし、好奇心をそそられたというのもある。みんなと過ごしていた時間はとっても楽しかったし、この楽しさがずっと続けばいいなって思ってた。だけど、キスするとは思ってなかったし、それに、実際するってなったら、キスってもっと刺激的なものだと期待していた。彼の口は、ビールとニンニクが混ざったみたいな味がして、なんだか不快だったの。

どうしてあんなに味気無かったのかしら? 私が未経験だったから? それともキスが下手だったの? 唇や舌を通して全身が相手に惹きつけられるような、なまめかしさが無かった。私の思考は熱く燃え上がることなく、冷静に自身を見つめていた。ほら、エル、今あなたは男の子とキスしてるのよ。キスに夢中になってるふりをしなさい。これが舌? そうよ。経験ある感じで動かしてみなさい。うぇ...

私は女の子に惹かれたことは今まで一度もなかった。ということは、レズだから男子とのキスに夢中になれないってわけじゃない。残念ながら、答えはもっと単純なのだ。私がニックに心底惹かれていないってことね。なんだか自分でもがっかりだわ。ケンジだって、私がアレクセイの息子と付き合ってるって知ったら、とても感激するでしょうね。それに、ニックが私のボーイフレンドになれば、私はずっとエックス・ブラッツにいられるし、イモジェンが連れて来た単なる新入りという立場から抜け出て、学校一お金持ちの男子の彼女になれる。だけど、そのステータスは、自分が心から惹かれていない男子と付き合ってまで手に入れる価値は、ないわね。

私はニックとキスしたことをエックス・ブラッツのみんなに言っていなかった。彼とキス以上の関係になりたい気持ちが私の中にないとわかったし、みんなに騒ぎ立ててほしくなかったから。でも、ニックはみんなに言っちゃったのかしら?

どうして私は彼に夢中のふりをできないの? それは心から彼に惹かれていないから。肌が合わないと、化学反応は起こらないのよ。

唇が軽く触れるキスなら、2年くらい前にしたことがあった。それだけでも全身に電気が走るみたいな感激があったから、私はキス自体は好きだと思う。高校に入学する直前の夏休み、ママの問題が始まる直前でもあった。私たちのYMCAの水泳チームが優勝して、みんなで意気揚々と〈レド・ピザ〉に向かっている時だった。いつものようにレジーと私は、バスの一番後ろの席に並んで座っていた。みんながバスから降りようと立ち上がった時、レジーが私の手を押し返すようにして、私を座ったままにさせた。「どうしたの?」と私は聞いた。

「今日の君は、素晴らしい泳ぎだったよ」と彼が言った。

「あなたもね」と私は返した。

彼とは小さい頃から一緒にいたから、私にとって彼は、ほとんど兄のような存在だった。しかし突然、私たちの間に走る視線の質が変わった。兄と妹なら絶対そんな目で見ないでしょ、という感触の視線だった。私の手を押さえるように握る彼の手は汗びっしょりで、私の手まで熱くなってきた。その時初めて、彼の顔が優しさだけでなく、美しさにも兼ね備えていることに気づいたの。彼の瞳がまっすぐ私の目を見つめてきて、彼が私の知ってるお兄ちゃんじゃなく、男に見えた。そう、あの時、私の心が震えたの! ニックがカラオケで私にしたように、レジーも私も、急に相手に飛びかかるようなことはしなかった。レジーと私の心は通じ合い、二人の動きは調和していた。私たちの口はどんどん近づいていって、ぶつかった。唇と唇が触れた瞬間、ビビビッと感電したような衝撃に打たれた。人生初めての体験だった。私の人生の最高の0.5秒。そうね、たぶん私の本気のファーストキスは、一昨日のじゃなくて、あの時のレジーとの一瞬のキスだったんだわ。今まではキスのうちに数えていなかったけど。

「誰か、俺のジャケット見なかったか?」コーチがバスに戻ってきた。すぐに、レジーと私は体を引き離し、ぎこちなく立ち上がった。ちょこっと唇を重ねただけの軽いキスだったけど、うしろめたさがあった。コーチが私たちを見て言った。「何やってるんだ? ゾエルナー、コールマン、ほら早くしろ! ピザが待ってるぞ」

その後すぐ、レジーは孤児院に入れられ、あの野獣がママと私の人生を襲った。私たちはそれからあまり会えなくなり、私たちの間で起きた一瞬の出来事について、話したことは一度もない。私たちの人生はお互いに、ますます複雑になっていったから、私たちは友達のままでいた方がいいってわかっていたんだと思う。私たちはあまりにも長い時間を一緒に過ごしてきちゃったから、もし感情のままに友情を次のレベルに引き上げて、恋愛してみたはいいけどうまくいかず、別れるようなことにでもなったら、その傷は耐えられないほど激しい痛みを伴うはずだから。

放課後、俺の家に来ないか? とニックが私のノートに書いてきた。プライベートの映写室があるんだ。映画館並みの音響だぞ。最新映画が公開されるたびに、パパのところに次々と新作が送られてくるんだ。カラオケマシーンもあるし。

私はすぐに返事を書いた。宿題がいっぱいあるの。でも誘ってくれてありがとう。

彼は数分間黙ったまま、何も書いてこなかった。もうすぐ私が考えを変えるとでも思っているような間だった。それから、ニックは私のノートに泣き顔を描いた。そして、その絵の横に、わかった、と書いた。

ふう、言いたいことが伝わったみたいでよかった。思ったよりも簡単だったわ。ちょっと冷たかったかもしれないけど、こういうのは早い方がいいのよね。



11月

チャプター 26


親愛なるママへ

日本の秋はすごく美しいのよ。窓から見える木々は、金、赤、緑、黄色がいっしょくたになってて、棒付きキャンディーみたいでうっとり見とれちゃうし、木々の向こうでは、ビル群の電子看板がキラキラとまたたいてて綺麗なの。このエキゾチックな場所にもすっかり慣れて、もう目に映るものに恐れおののく、なんてことはなくなったけどね。49階からの眺めも、今ではもう日常の風景だし、周りに日本人しか見当たらない街を歩くのも、全然平気よ。ママは自分の目で見るまで信じないでしょうけど、どこに行っても溢れんばかりの人でごった返してるの。それでいて、すべてが清潔で、整然としてるのよ。私が好きなのは、お店に行って、食料品を買う時のやり取りね。カウンター越しに店員さんが私に向かってお辞儀をしてくれるから、気分いいの。私がパックに入ったお蕎麦を買ったとして、店員さんはそれがお蕎麦じゃなくて、大切な誰かへのクリスマスプレゼントみたいに、凄く丁寧に包んでくれるのよ。


私はここのリンゴの虜になっちゃった。ママと家で食べてたリンゴよりも、はるかに甘くてジューシーなの。日本のリンゴジュースも、毎日飲まないと1日を乗り切れないってくらい、もう手放せなくなっちゃった。水泳チームでジョークみたいな話があってね、私が自己ベストのタイムを更新するたびに、コーチのターニャがボトルに入ったリンゴジュースを私にくれるのよ。ご褒美で釣るみたいな単純な作戦なんだけど、50メートル・バタフライのタイムが、なんと4秒も速くなっちゃったのよ。信じられる?


学校は楽しいけど、凄く大変。私はスタートから出遅れてたんだけど、ようやくみんなに追いついたって感じね。前に書いたアケミっていう女の子、同じところに住んでて、一緒にICS-Tokyoに通ってる子なんだけど、本当に彼女と私は相性が合うわ。お互いに英語と日本語のことわざとか、面白い言い回しを教え合ってるの。この前なんか、「Cool as a cucumber」(キュウリのように冷静に)っていう英語の言い回しを教えたら、「キュウリのようにって馬鹿みたい」ですって。彼女が今までに聞いたおかしな表現の第一位に躍り出たそうよ。逆に、私が彼女から聞いたおかしな日本語の表現はね、「爪の垢を煎じて飲む」ね。文字通り、誰かの爪の垢をボイルして飲むのかと思って、うぇってなっちゃった。彼女に意味を聞いたらね、尊敬に値する人にあやかるように、その人の爪の垢をお茶に煎じて飲むような気持ちで、見習いなさいっていう意味なんだって。そういう気持ちで相手に接してると、その人の良いところが自分に移るそうよ。


学校では、私は大体イモジェンと一緒にいるの。彼女には、ヌトンビとジャンビっていう親友がいるんだけどね、彼女たちとも仲良くやってるけど、もしイモジェンの友達じゃなかったら、私が彼女たちとつるむことはなかったでしょうね。彼女たちは上流気取りっていうか、みんなを見下してるところがあるから。イモジェンもそうなんだけど、彼女の場合は、面白い上流って感じね(笑)。それで、イモジェンの仲間に、ニックっていう男の子がいるんだけどね、彼は、おそらく彼が望むどんな女の子とでも、付き合うことができるの。彼が私を好きみたいで、言い寄られちゃった。でも私は正直言って、そこまで彼に夢中になれないの。彼は今も私にメールを送ってくるわ。彼がSNSで見つけた可愛い子猫ちゃんの写真とかを送ってくれるの。子猫ちゃんには癒されるけど、早くICS-Tokyoに可愛い子が転校して来ないかなって思っちゃう。そうすれば、彼の関心はその子に移ると思うから。ケンジは、私がニックともっと仲良くなればいいって思ってるみたいね。「ビジネスにとって有益だ」って思ってるみたい。だけど、私は勉強とか水泳で忙しいから、彼氏を作ってる暇はないってケンジに言ったの。そしたら、ケンジは笑ったわ。「いつ俺が彼氏を作れって言った?」ですって。前の手紙で書いたけど、リュウっていう同じ水泳チームの男の子がいて、彼はちょっと気分屋なところがあるんだけど、チームで一番速いスイマーなのよ。帰りのスクールバスは彼と一緒に乗ってるんだけど、イモジェンには言ってないの。彼女は彼が好きじゃないみたいだから。でも、彼って凄く面白いのよ。


ほとんど毎晩、ケンジとディナーを食べてるわ。でも、その時間が1日のうちで、ほぼ唯一の彼と一緒に過ごせる時間だけどね。彼の母と妹も、同じ建物の別の階に住んでるの。彼の母親は、あまりいい感じとは言えないわね。彼女を見かけたら、さっと物陰とか廊下の角に隠れて、彼女が通り過ぎるのを待つことにしてるの。彼の妹さんとは一応話せるけど、彼女が私の叔母さんだなんて、ちょっと想像できないわ。彼女は社交辞令として、私に興味がある素振りを見せてるだけみたいだから、私も彼女に対して、そういう気持ちで接することに決めたの。エレベーターで彼女と会っても、天気の話しかしないわ。


ママに凄く会いたいよ。本当の家族が恋しくて仕方ないわ。いつでもあなたのことを考えてる。ママが元気で過ごしてることを望んでる。マサおじさんが言ってたんだけど、たぶん来年の春休みに、私も彼と一緒にワシントンに行けるわ。そうしたら、ママに会えるわね。


愛を込めて、


エルより


PS ― 13歳の誕生日に約束したこと覚えてる? 私がファーストキスをしたら、ちゃんとママに報告しなさいって。あの時、わかったって言っちゃったから、ちゃんと約束を守るわね。さっき書いたニックと、私はキスしたの。一回だけよ。そんなに感激はなかった。こんなもんって感じ。彼は今も私の周りでうろちょろして、ちょっかい出してくるの。男って馬鹿みたい。



チャプター 27


「具合でも悪いのか?」とリュウが私に聞いてきた。私たちはICS-Tokyoの放課後のバスに乗り込んだところで、彼は真ん中の通路を挟んで隣の席に座った。前の学校のスクールバスは最悪だったけど、このバスに乗っている男の子たちは大体みんな行儀がよくて、スマホの画面を見つめてゲームをやっている。私みたいに宿題をしたり、たわいもないことを喋り合ったりしている子はあまりいない。ましてや前のバスみたいに、他の子をいじめてる男子は一人もいない。例外的にスマホの画面を見ていないのは、リュウだけだった。彼はいつも、紙の本を読んでいた。(学校の教科書とか課題の一部ではなく、―彼自身が楽しむための本をいつも読んでるから、なんて我が道を行く人なの!ってびっくりしちゃう。)本を読んでいない時の彼は、「水泳日誌」をカリカリ書いていた。そうなの、今時、手書きなのよ! パソコンのスプレッドシートも、スマホのアプリも使わずに、厚手のバインダーを広げて、罫線が入ったルーズリーフに、その日に食べた物や、それぞれの泳法での、その日のタイムを事細かに書き込んでいくの。そして、それをグラフにして、タイムを分析してるのよ。色鉛筆を使い分けて、さまざまなデータを区別してるから、横から覗き込んだだけだけど、カラフルで綺麗!って思っちゃった。そういうことをしている姿を見ると、彼って日本人なんだなって思うの。もちろん日本人はテクノロジーの最前線にいるんだけど、一方で、文房具を偏愛してるのよ。次から次へと目に入ってくる飲み物の自動販売機の横に、ひょっこり文房具の自販機を見かけて、ポストイットとか、ノートとか、ペンとか、鉛筆が、ドリンクみたいに並んでいても、私は驚かないでしょうね。リュウのオタクっぽいバインダーの最初のページには、ジッパー式の透明な袋状のルーズリーフが挟まれていて、彼がその中に色とりどりの色鉛筆を入れているから、チラッと見るだけで、なんだか私までウキウキしてきちゃう。もちろん彼には言わないけどね。

「どうして私が具合悪いって思ったの?」と私はリュウに聞き返した。

私は窓側の席から通路側の席に移動した。彼も同じことをして、距離がぐっと縮まる。私たちが二人とも放課後のバスに乗る時は、毎回こうして座席を移動して、二人の距離を詰めてる気がする。そうして、いつものように、私はひそかに彼の匂いをかぐ。泳いだ後の彼の髪はまだ濡れていて、彼の体から塩素と汗が混じった匂いが、ふわっと私の鼻筋を通って、体内に取り込まれる。ああ、この男子の匂い、大好き。

脇に置かれた愛用のウクレレに手を当てながら、彼が言った。「君はいつもリンゴジュースを飲んでるみたいだけど、ビタミンCが足りてないのか?」

「私がこの惑星で16年間過ごしてきて、足りなかった知識といえば、こんなにもリンゴジュースが美味しかったってことだけよ」

「どこでも同じ味じゃないのか?」

「私もそう思ってたんだけど、ここのリンゴジュースは全然違うのよ。レベルが違うっていうか、次の次元の美味しさね。完璧なの。自然に甘さが体内に広がっていくようで、爽快感があって、力がみなぎってくるのよ」

「なんか、リンゴジュースのコマーシャルみたいだな」彼の青が混じった黒髪がさらっとなびいて、彼の目を隠した。クスクス笑っている彼の口だけが見える。私もつられて、クスクス笑ってしまった。リュウが彼の腕に巻かれたApple Watchを見た。「運転手が来るの遅いな。もう出発時間を5分も過ぎてる」

「たぶん、日本人の全員がきっちり時間を守るってわけじゃないのよ。アメリカ人なら、バスの運転手が遅れて来ても、誰も遅れたことに気づかないし、そんなこと気にもしないわ」

「キャンパスを出発する時間が遅れると、道が混む時間帯に差し掛かってくるんだよな」彼は水泳日誌に視線を落としてから、再び私を見て言った。「今週末の対抗試合の準備はいいか? 前回はブリティッシュ・インターナショナル・スクールに負けたけど、今年はチャンスがあると思うんだ」

「その学校、そんなに凄いの?」

「去年は凄かった。だけど、今年は向こうの主力選手が卒業しちゃったから。それに今の俺達には、君がいる」

私は頬が赤くなるのを感じた。なぜエックス・ブラッツのみんなが彼を冷たい目で見て、仲間はずれにしているのか、私には理解できない。私が火照った頬で氷を解かすみたいに、ピリピリした関係を和解させて、彼をギャング団に戻した方がいいかしら? でも、私自身はそうしたいのだろうか? たぶん私は、彼を独り占めしたい。

私は言った。「対抗試合で勝ったら、チームのみんなでどこか楽しい場所に行って、お祝いしたりするの? 私はアメリカでYMCAのチームに入っていたんだけど、みんながよく頑張った時は、コーチが〈レド〉っていうピザ屋さんに連れて行ってくれたわ」

「時々、渋谷の回転寿司に行ったりするけど、知ってるか? 池のお堀みたいに、寿司がぐるっと流れて来るんだ。でも、あそこは観光スポットにもなってて、観光客も多いからな。回転寿司を本場の日本料理だと勘違いして、慣れない箸を片手に、みんなはしゃいでるよ」

「お寿司がお堀に乗ってぐるっと流れて来るなんて、凄く楽しそう、行ってみたいわ! 本場の日本料理とか、本物の日本的な体験って何だと思う? あなたの意見を聞かせて」

「なんだろう? ロボット・レストランではないな。去年のシーズンが終わった時、コーチのターニャと彼女のボーイフレンドが、俺たちみんなをロボット・レストランに連れていってくれたんだ」

「私も行ったことあるけど、私はロボット・レストランを気に入ったわ」と私は言った。

「まあ、たしかに、悪くはないよ」と彼が素早く返してきた。「だけど、あそこまで観光客に知られていなくても、もっと面白い日本的な場所が色々あるよ」

「たとえばどこ?」と私は聞いた。

「まあ、観光客はたいがい、秋葉原に行きたがるな。いわゆる『電気街』で、どの建物も電子広告でライトアップされてる。ひしめき合うように並んだお店には、日本の最先端のテクノロジーが何でも売られてる。あそこはクールだけど、ちょっと度が過ぎてるな。で、俺が好きな場所もあの辺にあるんだけど、雰囲気は真逆で、街のバイブスがオフになってる感じなんだ。神保町のブックタウンっていう、千代田区のこじんまりとした場所だよ。東京の出版社が集まっていて、古本屋もたくさんあるんだ。ヴィンテージものの雑誌を立ち読みしながら、古本屋をめぐるのは楽しいぞ。掘り出し物の古本をお買い得価格で買えたりするしな」


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神保町はこの辺りです。👈え! 東京の地図も?爆笑



藍は東京に住んだことはありませんが、神保町の古本屋街には、2回くらい行ったことがあります...💦笑


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「なんか、凄く行きたくなってきた。東京ってどこ行っても騒がしいっていうか、イケイケなムードに満ちてるから、そういう落ち着いたところで、ゆったりと過ごすのもいいかも」

「それはいえてるな。君が行きたいのなら、そのうち連れていってやるよ。だけど、あそこで売ってる本は、ほとんどが日本語で書かれたものだぞ。たぶんだから、あそこは観光客がそんなにいないんだろうな」

私は心から彼と一緒にブックタウンに行ってみたいと思った。でも、イモジェンは承知しないだろうな。そう考えると、彼って大胆ね。私がエックス・ブラッツのみんなとつるんでるのを知っていながら、私をデートに誘ってくるなんて。彼のそういうところが好きなのよね。彼ってヒエラルキーとか、スクールカーストとか、そういうのを全然気にしていないから。だけど私は、そういうくだらないことをいちいち気にするタイプだから、彼の誘いを受け入れられない。せっかくカーストの階段を上って、高いステータスを手に入れたっていうのに、それをふいにする心の準備はできていない。

「あなたって、どうしてそんなに英語が上手なの?」と私は彼に聞いた。英語が上手な日本人にはたくさんあったことあるけど、彼ほど流暢な人はいなかった。ケンジもちゃんと英語を話せるけど、やっぱり日本人訛りが混じっちゃってるし、たまにへんてこりんなフレーズが飛び出すし。でも、リュウの英語は自信たっぷりで、しかも訛りがない。

彼は言った。「俺はニューヨークで生まれたんだ。幼稚園から6年生までICSのニューヨーク校に通ってた。家では日本語で生活してたけど、家以外では全部英語だったから」

「ニューヨーク! 私はずっとニューヨークに行ってみたいって憧れてたの! 気に入った?」

「凄く気に入ったよ。あそこは東京と共通点が多いな。高層ビルが立ち並んでて、夜もいろんなライトで明るくて、クレイジーなエネルギーに満ち満ちてる。でも、俺の家は〈ウエスト・ビレッジ〉にあったんだ。あの辺りは古い建物が並んでて、高層ビルなんてないからな。大都会の真ん中の小さな村って感じで、住み心地抜群だった。大学に進学する時、マンハッタンに戻ろうと思ってる。たぶんコロンビア大学か、ニューヨーク大学だな」


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青枠で囲った辺りの閑静な住宅街を〈ウエスト・ビレッジ〉といいます。『ティファニーで朝食を』に出てくるような、ブラウンストーン(赤レンガ造り)の建物が並んでいる一帯です。



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「本当? どうしてこっちの大学には行きたくないの? 東京はこんなに素晴らしいところなのに」

「今、うちの家はてんてこ舞いで、やばいんだよ。窮地に陥っててね」彼はそう言いながら、笑った。

もっと詳しく聞きたかったんだけど、そのチャンスを失った。ニック・ズホノフがバスに乗り込んできて、狭い通路を物凄い勢いで近寄ってきたから。「窓際にずれて」と彼が私に言った。「俺様が君の隣に座ってあげるから」ニックがこんなに軽薄で、下品な人だったとは知らなかった。あるいは単に、自分が何を口走っているのか気づいていない馬鹿なのかも。

バスがようやく動き出した。きっと運転手は時計を見ながら、ニックが来るのを待っていたのね。

私はこの席を譲りたくなかったから、はっきりと言った。「私の前の列が開いてるじゃない。そこに座ったら」

ニックは悲しそうな顔をして、私の前の席に座った。それからこちらを振り向くと、言った。「リュウとかいうやつが、君にちょっかいを出してるのか?」

リュウはすぐ近くに座っている。なぜニックはこんな、ろくでなしみたいな真似をしてくるの? 私は言った。「そういうんじゃない。っていうか、もし彼がちょっかいとか出してたとしても、あなたには関係ないでしょ」

「君はそうやって威勢がいいからな、エルさん。だから俺たちは気が合うんだよ」

あなたと気が合うわけないじゃない。彼はよくそう言うんだけど、私もつられて、そうかな、と思いかけたこともあったけど、口先だけだということがはっきりとわかったわ。彼が私に送り付けてくるメッセージを見てもそれは歴然だし、彼にはお抱え運転手がいて、自家用車で送り迎えしてもらえるっていうのに、わざわざスクールバスに乗り込んでくるような人と気が合うわけないじゃない。カラオケでのあの夜、ニックの口が私の口に合わさった時、あれはまさに驚きだった。私は全然期待してなかったけど、すでにキスが始まっちゃってたから、流れに身を任せたの。私は新入りの女の子だったし、億万長者の息子とカラオケでいちゃいちゃするのもいいかなって。でも今はもう新入りって感じでもないし、なんとかして彼を遠ざけたいんだけど、エックス・ブラッツの他のメンバーとの友情を壊すことなく、ニックに私を諦めさせる方法ってないかしら?

私が男の子とお付き合いをするとしたら、急に覆いかぶさってきて、いちゃいちゃしだす感じじゃなくて、ロマンスが欲しいの。いろいろ経験してわかったのよ。私は私を安売りしたくない。

リュウが脇に置いてあったウクレレを手に持った。彼はそれをかき鳴らしながら、歌い出した。「Cause I want the one I can’t have, and it’s driving me mad.(だって、僕には手に入らないから欲しいんだよ。こんなにも僕を狂おしく駆り立てるんだ。)」思わず、私は目を大きく見開いてしまう。私の心臓は破裂しそうだった。耳なじみの曲だったから。ママがよく歌っていた、ザ・スミスの曲だ!

「うるさいぞ、キムラ」とニックが言った。

彼が仲間はずれにされていようが、そんなことはどうでもいい。

私はリュウ・キムラが好き。


・・・


その夜、私は〈スカイガーデン〉で宿題をしようと、最上階まで上った。ケンジは夕食の時間に仕事が入ってしまい、一緒には食べられなかった。そういう時は、勉強道具を持って〈スカイガーデン〉に上り、夕食を食べながら勉強する、というのが私の習慣だった。今夜は、そこにアケミが加わった。私たちは〈生け花カフェ〉からお寿司を届けてもらい、バラに囲まれたガーデンテラスで、お寿司を頬張りながら、本を読み耽った。ふと本から視線を上げると、きらめく東京の摩天楼が視線の先に広がっている。

私はアケミとこうして過ごす勉強の時間が好きだった。エックス・ブラッツのメンバーと一緒にいる時は気が張るんだけど、彼女とはゆったりと気楽に過ごせるから。アケミは噂話が大好きだけど、決して不満たらたらの性悪女ではない。私が英語の文法問題を出して彼女の英語力を鍛えてることに、ありがとうって言ってくれるし、逆に彼女は私に日本語を教えてくれる。私は日本人の父親と一緒に暮らしてるっていうのに、日本語に関しては、彼女から教わることの方が多い。

その時、スマホが点滅した。見れば、ニックからのメッセージだった。

 ゴージャスに過ごしてる?

電話番号を変えた方がいいかしら? 彼に返信せずに画面を消灯させようとしたら、アケミが私のスマホの画面を見ていた。

「彼、あなたのことが好きなのね」と彼女は言った。

「そうなの」と私は言って、ため息をついた。

「あなたは彼が好きじゃないの?」

「彼はうっとうしくて」

「アラベラ・アコスタも彼が好きじゃなかったわ。オスカーの双子の妹よ。彼女もあのグループの一員だったの」

興味深い情報ね。「どうしてわかったの?」

「アラベラとジャンビが彼について話してるのを聞いたことがあるの。アラベラは言ってた。ニックはみんなの前ではクールに気取って、一面だけを見せてるけど、二人きりになると、急に激情型になるんですって」まさにあの時と同じだ!「それに対してジャンビは言ってた。アラベラはロマンスを求めすぎなのよ、ニックはいい人よって。そして、ニックは二面性があるだとか、そういう噂は広めない方がいいわよって忠告してた。口止めしてた感じね。ほら、ニックの父親って権力者だから」

それこそまさに、私がニックとの体験をエックス・ブラッツのメンバーに話せずにいる理由だ。話したところで、彼女たちは私の言うことを信じないだろうし、当然のように、ニックの肩を持つに決まってる。

アケミは色々と事情に通じてるみたいだから、他にも聞きたいことが浮かんだ。

「聞いてもいい?」

アケミがうなずいた。

「私があなたにリュウのことを聞いたって、誰にも言わないでくれる?」アケミはもう一度うなずいた。「どうしてリュウ・キムラは仲間はずれにされてるの?」

アケミは両手で口を隠すようにして、身を乗り出し、私の耳元でささやいた。「彼はアラベラ・アコスタを妊娠させちゃったの。やだ、私がそんな言葉を知ってるって、私の母に言わないで!」



チャプター 28


「エルは人気者なんだ。俺は彼女に会えなくなった。彼女はいつも学校の友達と出かけてるんだよ」とケンジはその夜、マサおじさんに言った。私たちは〈ファンタジーリーグ〉で夕食を食べていた。マサおじさんが私を東京に送り届けてくれたのは、ほんの2ヶ月前のことなんだけど、なんだか遥か昔のように感じる。それ以来なので、フェイスタイムではチャットしていたけれど、直接会うのは久しぶりだった。彼は今、出張でこの街に滞在してるのよ。「アレクセイ・ズホノフの息子が彼女を気に入ったみたいなんだ!」

「ただの友達よ」私は嘘をついた。ケンジと一緒に夕食を食べている時間以外、私が自分の時間をどのように過ごしているのか、ケンジは何も知らない。「それに、私は放課後には友達と会ったりしてないわ。放課後は〈セイルフィッシュ〉の練習があるのよ」私はマサおじさんの方を向いて、説明した。「〈セイルフィッシュ〉っていうのは、私たちの学校の水泳チームなんだけどね」

マサおじさんが言った。「次の大会はいつ?」シンプルな質問だったけど、私の胸に刺さった。いつ大会があるのか、ケンジはそういうことを聞いてくれないから、大会や練習試合の時、観客席をどんな気持ちで見ればいいのか、心の準備ができない。ケンジは刑務所に入ってるみたいに仕事に囚われていて、私は時々、彼への想いに囚われる。もっと私の人生に関わってよって切実に感じる時がある。でも、この快適な生活環境を失いたくはないから、彼にそうせがんで、彼を困らせるようなことはしない。東京は私に、私の手からこぼれ落ちるくらいたくさんの機会を差し出してくれる。だけど、私はこの街で、自分がちっぽけな臆病者になったように感じる。あらゆるハイクラスな特権を享受しているけれど、私がなりたかった人にはなれていない。―私は父親に向かって、「父親になって!」と想いをそのまま言える、勇気のある人になりたい。

「次の週末に対抗試合があるわ」と私は言った。

マサおじさんはスマホを取り出して、スケジュールを確認した。「君の勇姿を見たい気持ちは山々なんだけど、ジュネーブに戻らなきゃだな。その次の試合はいつかな?」

私は彼にその日付を言った。「でも、その対抗試合は、私たちが台湾の台北に出向いて、あっちの学校で行われるの」私はペントハウスでの優雅な生活には慣れてきたとはいえ、他校との練習試合のために国をまたいで飛行機で移動するような、国の代表選手並みの待遇には、まだ現実味を持てずにいた。

「ちょうどその数日前に上海に出張で行くから、その試合は見に行けるぞ。応援団が欲しいだろ?」とマサおじさんは言った。

「やった!」私はケンジを見た。彼の表情には、彼が「俺も!」と手を挙げて、応援団のバスに飛び乗ってくる気配はない。私は勇気を振り絞って、彼に聞いた。「あなたも来る?」

彼はスケジュールを見て、その日を確認した。「今週末の試合なら、おそらく見に行ける。ただ、君が台北に行く週の土日は、俺はシドニーだな」

見に来てくれるんだ! 私は溢れんばかりの気持ちを抑えながら、聞いた。「エミコに言えば、スケジュールを調整してもらえるんじゃない? あなたとマサおじさんと私で、どこかを旅行するなんて、凄く楽しそう」

ケンジは言った。「彼女は俺のスケジュールなら調整できるだろうな。しかし、彼のスケジュールは調整できない」ケンジの視線の先には、アケミの父親、タケオ・キノシタがいて、ちょうどレストランに入ってきたところだった。アケミの母親も一緒で、彼を支えるようにゆっくりと歩いてくる。彼はおそらく70代の老人で、少し猫背になった体のバランスを取るように、若い女性の腕をつかんでいる。「キノシタさんの会社が、その事業の建設費をまかなっているんだ。彼のスケジュールに合わせて、私たちはシドニーに行くことになる」

アケミの両親が私たちのテーブルに立ち寄って、ケンジと日本語で挨拶を交わした。二人は昔からある、お決まりの組み合わせね。―しわくちゃの肌をした背の低い老人と、彼に寄り添うファッションモデルのような、背が高くて若い愛人。―日本語での会話が終わると、キノシタさんが私に向かって言った。「アケミが英語のテストでAを取ったんだよ。彼女が言っていた。君は学校までの車の中で、いつも英文法の練習問題を出してくれるそうじゃないか。よくやってくれた」

凄いわ、アケミ、やったじゃない! 彼女の父親が私の肩を優しくポンポンと叩いた。見れば、ケンジの表情が明るく輝いている。ケンジはキノシタさんのもう一つの家族について知ってるのかしら? たしか大阪に住んでるとか言ってたわね。

もちろん、ケンジは知っていた。アケミが前に一度、彼女の父親について書かれたネット記事を見せてくれたことがあった。キノシタさんは大阪のアートシーンを金銭面で支える慈善事業家だった。その記事には、彼がオペラのガラコンサートに出向いて、終演後のロビーでにこやかに笑う姿が掲載されていた。彼の周りには彼の妻と、彼の孫たちが写っていて、孫たちは全員アケミより年上だったけれど、彼は大阪の家族を秘密にはしていなかった。

ケンジとキノシタさんが日本語で話している時、なんだか内緒話をしているようで、私は話の内容が知りたくて仕方がなかった。ビジネスの秘密の取引についてかしら? それとも、二人に共通している隠し子について?


・・・


夕食後、私たちのミセス・タカハラに拝謁を許された。彼女のスイートルームに赴くと、彼女は、彼女の甥にあたるマサおじさんとの再会をしきりに喜んだ。もちろん、孫娘である私のことは、あなたも来たの? みたいな感じで一瞥をくれたきりだったけど、今夜はなぜか私も訪問者一行の一員なんだから、仕方ないわね。

私は自分が祖母になるなんて、まだまだ先すぎて想像もつかない。だけど、もし私に今まで知らなかった孫娘がいて、彼女が私に会いに来たら、彼女を睨み付けて、息が詰まるような窮屈な思いをさせたりなんてしない。彼女を温かく迎えて、今まで会えなかった時間を取り戻そうとするわ。彼女を美術館に連れて行ったり、彼女がどんな本を好きなのか、どんなことに情熱を傾けているのか知って、なるべく彼女の気持ちに寄り添いたい。きっとそうするわ。

「元気そうね」とミセス・タカハラが私に言った。広々としたリビングルームで、ケンジ、マサおじさん、私が横並びで座り、私たちの前にはミセス・タカハラとキミが座っていた。キミが私のためにお茶を注いでくれた。でも私はお茶があまり好きじゃない。「東京にもすっかり慣れたみたいね」と彼女は残念な報告を認めるみたいに言った。

「ありがとう」と私は丁寧に返した。お茶に口をつけ、苦さに身もだえしないように気を付けながら、ひとすすり飲むふりをした。こういう時は足を組んだ方がいいのかしら? キミを見ると、淑女らしく両足をそろえて横に流していたから、私もそうした。

キミが言った。「昨夜クロエ・レーラーと夕食をご一緒したの。ICSでのあなたの様子を聞いたわ。とてもよくやってるそうじゃない。先生たちがあなたの頑張りを褒めてるそうよ。もうみんなに追いついちゃったそうね」おべっかを使われているんだとはわかった。軽く頬を叩かれたようでもあり、前のお下劣な学校を思い出した。というか、なんであの高等部の部長先生は、このつれない叔母に私のことをべらべらと喋ってるの? それってプライバシーの侵害とか、守秘義務違反とかじゃない?

マサおじさんが言った。「エルは前から優秀な学生だったんだ。先生たちはいつも通知表に書いてたよ。彼女は向学心があって、熱心に話を聞いてくれるから、教室に彼女がいると、先生も嬉しいって」

私はケンジに目を向けた。しかしケンジは私を見てくれなかった。彼は、私がかつて家に持ち帰ってきた数々の通知表を一つも見たことがない。マサおじさんがミセス・タカハラに聞かせるために、私の過去を自慢げに話してくれていることはわかった。彼女からしたら、私はただの外国人でしょうけど、私にもちゃんと長きにわたる歴史があるんだって、過去との繋がりが可視化されるようで、心強かった。

「東京にはいつ帰っていらっしゃるの?」とミセス・タカハラがマサおじさんに聞いた。

「大使館の任期が年末までなので」と彼は言った。「たぶん、来年からはこっちで暮らせるかと」

キミが言った。「もっと重要なのは、いつになったらあなたが、〈タカハラ・インダストリーズ〉に入って働いてくれるかってことよ」彼女は私の方を向くと、言った。「彼がここに住んで働いてくれたら、素敵だと思わない?」

ようやく、私がなぜこのお茶会に招かれたのかを理解した。仲買人みたいに間に入って、ここに住んで一族経営の会社のために働くように、彼を促してくれってことね。そういうことなら任せて。喜んで協力するわ。

「イエス、イエス、イエス! 私も嬉しい!」と私はマサおじさんに向かって言った。「お願い、東京に戻ってきて!」

ケンジは言った。「マサのために、俺たちは46階のスイートルームを空けて待ってるんだ」そうなの? ということは、マサおじさんも東京で暮らしてここで働くっていう考えは、あながち夢でもないじゃない。高原家が一家総出で後押ししてる、現実的な選択肢ってことね。彼がここにいてくれたら私も心強いし、もしかして私のためを思って、彼を呼び寄せようとしてるの?

全然違った。

ミセス・タカハラが言った。「私たちは政府とのつながりが深くて、信頼できる人が必要なんです」

それから、私以外のみんなは日本語で活発な話し合いを始めた。私は、言語の扉をピシャッと閉められたみたいに、またしても一人取り残されてしまった。


・・・


「もうすぐこっちに帰って来て、東京で暮らすって本当?」と私はマサおじさんに聞いた。ミセス・タカハラとキミ・タカハラとのお茶会が済むと、マサおじさんは私のペントハウスにやって来た。ケンジはいつものように仕事に戻ってしまった。

「おそらくそうなるね」とマサおじさんは言った。「親戚も家族だからね、ファミリーのためにそうするのが正しい選択だよ」

それは興味深い反応だった。選択って自分自身のためにするものじゃないの? ファミリーのためって、マサおじさんが彼自身のためにする正しい選択ではないような言い方だったから。「それってなんで?」

私はリビングのソファーに座り、マサおじさんはソファーの横に置かれた一人用の椅子に腰かけた。彼が言った。「私が君にこのことを話したって知ったら、君のお父さんは怒るだろうけど、君もいくらかは知っておいた方がいいと思うから、一応話しておく。彼がなぜあんなにあくせく働いてるかというとね、今、政府の監査が入ってるんだ。この建物の建設費用を工面するために使われた複数の融資について、調べられてる」彼はそこで一旦間を置いた。「でも大丈夫。きっとすべて解決されるよ」

急に降って湧いたような話に、私は現実味を持てなかった。「私も心配した方がいい?」

「もちろん心配は要らない!」

「それじゃあ、何が行われているにしても、私がこの家を失うことはないってことね?」ママが野獣に襲われ、懲役刑を受けてから、私は三つの里親の家を渡り歩いて、この家に辿り着いた。まだ私に最悪のシナリオが待っていたっておかしくないし、そう思ってしまうのは無理もない。

マサおじさんが私に向かって微笑んだ。「ミセス・タカハラに気に入られるようにしていれば、いつまでもここにいられるから大丈夫。ここが君のホームだから」

その答えは私にとって何の慰めにもならなかった。私は大変身を遂げたのよ。学校では自分のお尻を叩くように猛烈に勉強して、「由緒正しき」友達も作って、こっちに来てからトラブルなんて一つも起こしてない。ミセス・タカハラに気に入られるようにって、これ以上どうしろっていうの?

不安をかき立てる話ばかりだから、話題を変えたかった。「あなたがここで落ち着けば、日本人の素敵な女性に出会えるかもしれないわね」と私はマサおじさんに軽口を叩いた。

彼が笑った。「そんなことになったら素晴らしいな! 今まで転勤に次ぐ転勤だったから、落ち着くのは難しかった。そろそろ一ヶ所に根ざした生活をしたいって思ってたんだ」

ふと、キミとケンジのことが頭に浮かんだ。二人は一ヶ所に根付いている感じだけど、二人ともデートはしていないようだった。ケンジのガールフレンドが自分の国に帰っちゃったのは聞いたけど、キミはボーイフレンドとかいないのかしら? 「どうしてキミは結婚してないの?」と私はマサおじさんに聞いた。「彼女は美人だし、頭もいいし、どんな男だって選べる感じなのに」

「彼女は結婚してたんだ。相手は日本有数の銀行に勤めてるお堅い人だったんだけど、彼女の父親が亡くなるとすぐに離婚してしまった。きっと彼女は自分の気持ちよりも、父親を喜ばせることを優先して、結婚したんだろうな」

日本の伝統的な妻として振る舞うキミを思い描いてみたけれど、全然様になっていなかった。日本ではアメリカよりも離婚の件数がはるかに少ないことも知っていたから、キミがあの母親に離婚のニュースを持ち帰ったというのも、想像し難い絵だった。「彼女が離婚したことで、ミセス・タカハラはカンカンに目くじらを立てたでしょ!」

「彼女は確かに、不満ではあるようだったな」

高原ファミリーのゴシップをもっと聞きたかったんだけど、その時、私のスマホがブンブンと振動した。画面を見ると、レジーからのFaceTimeだった。レジーと私は時差の関係でなかなか連絡が取れないから、せっかくのこの機会を見過ごしたくはなかった。リュウ・キムラとアラベラ・アコスタの間で起きたことを知ってから、私はなんだか胸の辺りがもやもやしていて、画面越しでも昔から親しんできた顔を見て、ほっとしたかった。私にとって一番長い付き合いの友人だから。「この電話取ってもいい?」と私はマサおじさんに聞いた。

「どうぞ」と彼が言った。

私は自分の寝室に駆け込んで、電話に出た。「コールマン!」と私は言った。

「ゾエルナー!」と彼が返した。

「最近どう?」

「すべて順調だよ。この間GEDに受かったから、早々と卒業を認められた。これで心置きなく入隊できる」

「おめでとう! 何かお祝いした?」

「カルメンが、二人でよく行くレストランでクラブケーキをおごってくれた。ケーキにカニが入っててうまかったな」

え? もう二人には行きつけのレストランがあるの?

「良かったじゃない」と私は言ったけど、内心では、おぇ、と思っていた。「それで、あなたたちはもう正式に付き合ってるの?」

こんなこと書きたくないんだけど、彼の顔が、幸せに満ちた未来を思い浮かべたようにパッと輝いた。「まあね。俺たちは結婚しようかって話もしてるよ」

は?」それっておかしくない?「あなたたちはまだ18歳にもなってないでしょ! あなたたちが付き合い出してから、まだ1ヶ月とかじゃない! 詳しくは知らないけど」

「君も時期が来たら分かるよ」と彼は言った。「俺はやりがいのある仕事に就くんだ。俺の人生で初めて安定ってやつを手に入れる。これで、二人で家庭を築くこともできる」

私だって大人みたいに振る舞って、自分のことは自分でやらなきゃいけない時も結構多いけど、やりがいのある仕事に就くだとか、結婚するだとか、そういう大人の決断に関しては、まだ考える段階に近づいてもいない。レジーがそういう決断をもうしようとしているっていうのは、なんか嫌な感じ。こんなに若くして、自分を縛り付けるみたいに人生の道を決めてしまうんじゃなくて、彼にはもっといろんな可能性を試してほしい。でも実は、同じような境遇だった私には彼の気持ちが手に取るように分かった。恋人ができて、仕事も決まって、不安定だった人生が急に安定したというか、あとは自分さえしっかりすれば、安定した未来が待ってるって、覚悟を決めたんでしょう。

「本気なの?」と私は聞いた。彼が大きな思い違いをしていることは分かっていた。分かってはいても、私にはそれを止める術も力もない。

「俺は本気だよ。あと、君に言わなきゃいけないことがあるんだ」急に彼の顔に不穏な表情が浮かび上がった。

「あら、もしかして彼女が妊娠しちゃったとか?」

「違う、違う。そういうんじゃない。実は...」FaceTimeの映像は不鮮明で、接続も不安定に揺らいでいた。それでも、彼が苦渋の決断をしようとしているのが、画面越しに伝わってきた。「これをどうやって君に伝えればいいのか分からないんだ。でもちゃんと言わなきゃいけない。実はカルメンが、もう君と話さないでくれって」

「そんなのって。冗談だって言って」冗談ではないことは分かっていた。お上品な東京の洋服を脱ぎ捨てて、メリーランドの田舎で育った女の子が今にも飛び出してきそうだった。気持ちを抑えなくちゃ。お願い、出てこないで! 私は気丈に振る舞いたかった。

「そこまでのあれじゃないよ。彼女が望んでいるのは、なんていうか、まっさらな状態に戻ろうってことだよ。俺と君の間には何も起きようがないって言ったんだけどさ、納得してくれないんだ。地球半周も離れているっていうのに、彼女は嫉妬するんだよ」

あの子の馬鹿げた要求よりも、彼がそれに従おうとしていることの方が、私にはショックだった。あの子はどんな言い方で彼に迫ったのかしら? 「私たちはこれだけ長く友達でいたっていうのに、全部なかったことにして、そんな簡単に私を無下にしちゃうんだ?」

「なかったことになんてしないよ。これからも連絡は取り合うし。電話はあれだけど、メールとかで。彼女もそのうち落ち着くと思うから。彼女には時間が必要なんだよ。きっと俺を信頼してくれるようになる」

「馬鹿馬鹿しい」と私は言った。

「仕方ないよ」とレジーが返した。

私は力を込めて、通話を切った。

自分でも信じられないことに、私は深く傷つき、カンカンに怒っていた。

レジーは、私の前の人生と繋がっている唯一の旧友だった。その彼が、私の新しい人生から去って行った。私がそれを選んだのだ。

リビングに戻ると、マサおじさんがテレビを見ていた。「ケーキが食べたい」と私は言った。

「ルームサービス!」と彼は、待ってました!と言わんばかりの勢いで言った。彼は女性とのお付き合いを始めようとしない。彼を愛してくれる人が現れても、わけのわからない要求をしてくるようなビッチなら、彼はすぐに切り捨てる。レジーとは違うのだ。

私はソファーの彼の隣にドサッと腰を下ろした。そして日本式のお茶会とは違って、気楽な感じで、彼の肩に私の頭を乗せた。「お願い、ここに引っ越して来て」

マサおじさんは私の肩を抱くように腕を回し、もう一方の腕を伸ばして、壁掛けの受話器を取ると、ケーキを注文した。



チャプター 29


土曜日の朝、〈ブリティッシュ・インターナショナル・スクール〉で行われる対抗試合に胸躍らせながら、私は目覚めた。〈ブリティッシュ・インターナショナル・スクール〉は都内だから、そんなに慌てる必要はない。さらに嬉しいことに、今日の試合は、ケンジが見に来てくれるのだ。午前8時、私は幸運を呼ぶリンゴジュースを飲もうと、キッチンに向かった。すると、キミがリビングのソファーに座っていて、一緒にケンジのアシスタントのエミコもいた。

「ハイ?」と私は、意外な組み合わせに戸惑いつつ言った。

エミコが言った。「タカハラさんが着替え終わるのを待ってるのよ。急にビジネス会議が入ったの」

「え、でも、彼は私の水泳の試合を見に来るんでしょ!」信じられない。せっかく彼が初めて、私の学校での活動に見に来てくれるって言ったのに、もしかしてばっくれようとしてるの?

キミが言った。「残念だけど、彼は行けないわね」

「でも、今日は土曜日よ!」と私は食い下がった。

「会議は予定されてなかったんだけどね」とエミコが言った。

ケンジがバタバタと廊下に出てきて、リビングに入ってきた。「ごめん、エル!」と彼は言った。「本当は君の水泳大会に行きたかったんだけど、緊急を要する事態が持ち上がってしまった。今夜、夕食の時にでも、君から勝利の報告を聞けるのを楽しみにしてる」彼は気もそぞろといった表情を浮かべながら、スーツのボタンを留めた。

「何がそんなに重要なの?」彼のビジネスのことは、たまに聞いても話題を逸らされちゃうし、あまり話したくないようだったから、私も聞かないようにしていたんだけど、つい聞いてしまった。

「政府の監査人が今ここに来てるんだ」と彼は言った。

「どうして?」と私は、さらにつっこんで聞いてみた。

「君が心配するようなことじゃない」と彼は言い残して、キミとエミコと一緒に私たちのペントハウスを出て行った。

しかし、それは私が心配するようなことだった。

その時、私のスマホにイモジェンからメッセージが届いた。

今日はフィールドホッケーも空手もないから、ジャンビとヌトンビと、遠出することにしたわ。あなたも来れる? 今日は一日東京から出て、ガールズデーを満喫しましょ。

私は、今日は水泳の試合で忙しい、と打ち込んだ。それから、「送信」を押す前に思った。私は責任感を持って、良い子でいなくちゃって頑張ってきたけど、それってなんか、馬鹿らしいわね。水泳チームは、私がいなくたって代わりの選手はいるし、今日は大会じゃなくて、ただの対抗試合だし。それに、レジーに彼の人生から追い出されちゃったし、私の新しい父親は、彼の人生の中になかなか入れてくれないし、なんか、もういいやって感じ。時間に追われっぱなしで、人生の試合に出ずっぱりなんて、私もそろそろこの辺で、コートの外に出て、タイムアウトを使わないとやってられないわ。

私は打ち込んだ文字を消し、私も行く、とイモジェンに返信した。

それから、コーチのターニャにメッセージを送った。

コーチ T、申し訳ありませんが、今日の試合は出れそうにありません。女の子の日が来てしまい、生理痛がひどいんです。うずくような痛みです。

私はうそつき。


・・・


駅のホームで私を待っていたエックス・ブラッツの女子たちを見た瞬間、私は自分の過ちを悟った。後悔の念がどっと押し寄せてくる。男子たちはマイアミで開催中のポロの大会に行っていたので、少なくともニックのことで気を揉む必要はなく、その点は少しほっとした。しかし私はやってしまった。レジーとケンジの行動に腹が立っていたとはいえ、リュウの過去の出来事に混乱していたとはいえ、―水泳のチームメイトたちをほったらかしにして、エックス・ブラッツの子たちと一日遊ぶというのは、やはり行いとして間違っている。ホームに立ち、電車を待っている間ずっと、私は水泳の試合がどのように進んでいるかを想像していた。今の時間は、100Mリレーの頃かしら。リュウがバタフライで水面をかき分け疾走している。今頃、チームのみんなは私の噂話をしている。応援にも来ないなんて、私がどんなにくさったチームメイトかってことを話しているんだわ。私は不安感にさいなまれ、吐き気を催した。そして、女子たちから行き先を聞かされた時、胃のむかむかはさらにひどくなった。―彼女たちが大好きだというアミューズメントパーク、〈富士急ハイランド〉。嘘でしょ! こんな状態でジェットコースターになんか乗ったら、確実に吐くわ。

「ガールズトリーップ!」新宿駅でJRの電車に乗り込むと、ジャンビが甲高い声で叫んだ。エックス・ブラッツの子たちはこんな風に公共の場で大声を上げたり、周りの人の迷惑になるくらい騒いだりするから、私は一緒にいて気恥ずかしさを覚える時がある。近くの席から私たちに向けられる乗客のみなさんの怪訝な表情から、明らかに私たちの態度を快く思っていないことがわかった。でもエックス・ブラッツの子たちは身だしなみが煌びやかすぎて、誰も声に出して文句を言えないみたい。

私たちは指定席に座った。二つの席が前向きで、二つの席が後ろ向きで、向かい合っているボックス席だった。私は通路側の前向きの席に座ったんだけど、イモジェンが私の手を引っ張り上げて、言った。「私、後ろ向きだと気持ち悪くなっちゃうの。あなたこっちに座って」

仕方なく私は後ろ向きの座席に移った。上司の顔色を窺うようにイモジェンの顔を見ると、今日は機嫌が悪い感じだ。アラベラ・アコスタとリュウ・キムラの間で実際に何が起きたのか、彼女に聞きたかったんだけど、今日は無理そうね。アケミから話の一部を聞いてしまった今となっては、残りの部分を聞きたくてたまらなかった。彼女が妊娠しているとわかって、リュウはアラベラを捨てたの? 彼女に中絶をするように迫ったっていうの? ボリビアに帰って静養が必要なほどアラベラを追い詰めたのは、いったい何?

「今週末も、両親はまたこの街にいないの?」と私はヌトンビに聞いた。

ヌトンビはうなずいた。彼女のコーンロウヘアーにつるされたビーズが、カチカチと音を立てる。「ソウルに出張中よ。ルークは連れて行ったのに、私は置いてけぼり。私とルークを引き離したかったのよ。私はうちの親が大嫌い。彼らのせいで、私の人生めちゃくちゃよ」

「少なくともあなたの両親は、あなたがしていることに対して、あれこれ言ってくれるでしょ」とイモジェンが言った。

「私やエルの親はほったらかしよ。ね、エル?」彼女は拳を私にかざして、同士の証として私の拳を待ち受けた。私は拳を合わせる気にはなれず、手を膝の上に置いたままだった。真実だったから、胸が痛い。

週末に政府がわざわざ出向いてきて、タック・ラグゼを調べてるなんて、一体全体どうなってるの?

私はリュウのことをもっと知りたくて知りたくて、仕方がない。彼のビジネスマンのお父さんも、日本政府ともめ事を起こしてるのかしら? 「ハーフでもヤクザになれる?」と私はイモジェンに聞いた。

「それが何かに関係あるの?」とイモジェンが強めの口調で言った。

「ちょっと興味があって。私もヤクザの世界に入ることになるかもしれないから」私はあくびをしながらそう言ったので、思い付きで言っただけの、くだらない質問のように聞こえたはず。

イモジェンは言った。「ハーフのヤクザも結構いるけど、彼らは女性じゃないわ。もともとヤクザって、日本で働いてた韓国人が組織したのよ。日本人じゃないからってビジネスの世界から追い出されて、より大きな機会を求めて犯罪に手を染めるようになったの。今のヤクザは、日本人のグループと、韓国人と日本人のハーフのグループがあるのよ」

「ちょっとその話は、本当かどうかあやしいわね」とヌトンビが言った。「大使館で言われてるのは、―」

「ググったのよ。何でも知ってるグーグル先生が言ってるんだから」とイモジェンが割って入った。「間違いないわ」

ジャンビが言った。「ヤクザが悪者だってことは、みんな同じ意見よね」

善と悪はそんなに単純に割り切れるものではない。ママは刑務所に入ってるけど、犯罪者ではあっても、彼女が悪い人だという意味ではない。どちらかというと、迷い人に近い。

私はその話には踏み込まない方がいいと頭ではわかっていたけれど、好奇心に屈してしまった。「リュウ・キムラの父親がヤクザだとか、あなた言ってなかった?」

イモジェンが答えた。「前から知ってたわ。あなたリュウ・キムラが好きなんでしょ」

「好きじゃないわ!」私は否定した。「けど、毎日のようにプールで彼に会ってるから、彼のことが気になるっていうか」

「気になる」とジャンビが言った。「好き好き大好きまでは行ってないのね」

「それ以上踏み込まない方がいいわ」とヌトンビが言った。

「彼は除け者なのよ」とイモジェンが言った。彼女は紙袋に隠し持っていたビールをゴクゴクと美味しそうに飲み、ようやく満足そうに微笑んだ。「リュウのお父さんは日本の大企業の最高財務責任者だったんだけど、帳簿を料理するみたいに適当に書き換えて、株主をだましたってことで起訴されたの」

ジャンビが言った。「彼はインサイダー取引で起訴されたんじゃなかった?」

「同じことでしょ!」とイモジェンが言った。

「ほら、またあなたは間違ったこと言った」とヌトンビが言った。

「彼は刑務所に行ったの?」と私は聞いた。このような情報に喜ぶべきではないんだけど、リュウにも起訴された親がいるって知ったら、不思議と安心感がこみ上げてきた。なんか私に近しい人たちの親って、みんな身の程知らずのがんばり屋さんみたいね。

ヌトンビが言った。「いいえ。彼は巨額の罰金を払っただけよ」

イモジェンが言った。「木村家のことは心配いらないわ。アラベラが彼から聞いた話によると、罰金を払っても、まだ潤沢な資金が残ってるって言ってたそうだから」

ジャンビは言った。「彼のお父さんは別の種類の刑務所に送られたのよ。日本ならではかもしれないわね、恥の刑務所。まだ人生は続いていくけど、まっとうな日本社会からは排除されたの。彼は要無しの透明人間みたいなものね」

私は言った。「ヤクザって、ギャングみたいなものかと思ってた。大企業で仕事をしている誰かのお父さんが、裏で組織犯罪に加担しているなんて、思ってもみなかった」

ジャンビが言った。「彼が騙し取ったお金はどこへ行くと思う? ヤクザのところよ!」

イモジェンがげっぷをしながら言った。「タック・ラグゼを経営してるあなたのパパだって、おそらく裏でヤクザと結託してるわ。建設業とエンターテインメント業界の人たちは、ほとんど全員がそうなんだから」

「彼が働いてるのは、ホテル業界よ!」私は本気で、たわごとばかり言ってるイモジェンをボコボコにしてやろうかと思った。

でも心の奥底では、ケンジの深夜の会合や、ゲームパーラーでの麻雀や、プライベート・メンズクラブについて考えていた。あんなに立派な彼が、犯罪に手を染めているっていうの?


・・・


その日の夜、タック・ラグゼに戻ると、車が入ってくる私道の隅、低木の陰で、ケンジがタバコを吸っているのが目に入った。

「あなたってタバコ吸うんだ?」と私は言った。

彼は唇の隙間から煙を吹き出した。「普段は吸わないようにしてるんだけど、今日は特別だ。水泳大会はどうだった?」

「行かなかった」

「なんで行かなかったんだ?」彼は驚いたように目を見開いた。

「なんとなく、そういう気分じゃなかったから」

「そんな風にチームメートを失望させちゃだめだろ」

なるほど、あなたが毎日毎日私を失望させてるみたいに? と思ったけれど、私はこう言っていた。「月に一度の日が来ちゃったのよ」

彼が顔を赤らめた。今朝、あなたにデートをすっぽかされて、私がどれほど失望したか、私の悲しみもわかってほしかった。

「それで、今日は一日どこに行ってたんだ?」は? 今さら、私の居場所に興味があるの? 東京の周辺も含めれば、人口3千万にもなる大都市圏で、何でも起こり得る、危険さえもはらむ街で、実の父親から居場所を聞かれたのは、これが初めてだった。

「イモジェンと、彼女の友達と一緒に、富士急ハイランドに行ったのよ」ICS-Tokyoに転校してきてから、彼女たちと行動をともにしているけれど、ジャンビとヌトンビはまだ、イモジェンの友達であって、私の友達だとは思えなかった。

彼はイモジェンの名前を聞いて、満足したようにうなずいた。「良かったな」と言ってから、彼は付け加えた。「俺は今度、ICS-Tokyoの保護者会に参加することになってる。夜に行われる懇談会だな」彼の喋り方は、若干申し訳なさを漂わせていた。今日は私の水泳の試合を見に行くべきだった、と思っている様子だ。彼は親として、見込みなしの不適格者ではないと私に知ってほしいようでもあった。「その時、シャル・カトウに直接会えるから、今から楽しみだ」もちろん、彼が懇親会に出席するのは、ビジネス上のメリットを見据えてのことなんでしょうけど。「彼女に、娘がお世話になってますって言うのが待ち遠しいよ。で、富士急はどうだった?」

彼女たちからは「アミューズメントパーク」だって聞いていたんだけど、いざ富士急に着いてみると、「ホラーパーク」って呼んだ方がいいんじゃないかと、私個人の意見だけど、思った。そこには、悪名高き廃病院があって、迷路のような廊下を進むと、手術台があったり、瓶の中に奇妙な臓器が入っていたりして、拷問部屋もあって、壁は血まみれだし、檻の中の「患者」は、めった切りに切り刻まれてるし、お客さんたちはキャーキャー叫びながら、幽霊や、狂気の「看護士」に追いかけ回されてるし...

エックス・ブラッツのみんなはそういう感じだって事前に知らせてくれなかったから、私はどっきりを仕掛けられた気分だった。

私はケンジの質問に肩をすくめた。「まあまあだった」

「俺は20代の頃に行ったことがあるけど、あれは身の毛もよだつ恐怖体験だったな」

「たしかに」と私は笑った。少なくともケンジと同じ体験を共有できて、嬉しかった。

彼は舗道の縁石にタバコを置き、かかとで踏みつけて火をもみ消すと、それを拾い上げてゴミ箱に捨てた。「夕飯にするか? いい肉が入ったから、今日からうまいステーキが食えるぞ」

「昨日までは、まずかったの?」と私は聞いた。私は彼の後に続いて、建物のエントランスへ向かった。私も心配した方がいいのかしら?

「最高級になるってことだよ」

「監査人が会社を調べてるってことは、たとえば、税金の何かってことでしょ? それってつまり...会社が何か悪いことをしたとか、そういうんじゃないよね?」

「なぜそんなことを聞くんだ? もちろん犯罪行為なんて一切してないよ」

「私はただ、何があなたを悩ませてるのか知りたいだけよ」と私は言った。ついに私は彼に対して正直になれた。「もしあなたが私の家族なら、私もあなたのためにそばにいたいの」

「俺のためとか、君はそこまで考えなくていい!」と彼が言った。

彼は、落ちたら確実に死ぬ崖から、私を突き落としたようなものだった。それくらい痛烈に、彼の言葉は私の耳に響いた。

私は言った。「じゃあ、私が近くにいないように、私を全寮制の学校に入れればよかったじゃん」

私は振り返って、一人でエントランスに入っていった。「待て! エル!」と彼が、私の背中に向かって叫んだ。しかし、私はつかつかとエレベーターに乗り込み、扉を閉めた。彼が呆然と突っ立ったまま、混乱したようにこちらを見ていた。



チャプター 30


「親に見られるくらい、べつになんてことないでしょ」体育館のバスケットコートを見下ろす階段状の観覧席で、前かがみになって本を読んでいるリュウに向かって、私はそう言った。富士急ハイランドでのホラーショーと、その後の、ケンジと交わしたあの恐ろしい会話を経験した今となっては、エックス・ブラッツのみんなの目は気にならなかった。除け者のリュウと仲良くしてるところを誰に見られたって構いやしないわ。

体育館の中央では親たちが入り交じり、歓談していた。ウェイターがトレイに乗せて運んできたオードブルを口にしたり、ワインを飲んだり、広い空間をぐるっと囲むように置かれた生徒たちのプロジェクト作品(ジオラマや、絵画や、科学実験のレポートなど)を見て回っている。富士急に行った最悪の日から数日後の夜、パーティー形式の保護者会が行われていた。lCS-Tokyoに集まった親たちが校内を見学したり、担任の先生と話したり、我が子のプロジェクト作品を愛でるように眺めている。

約束通り、ケンジ・タカハラは参加していた。東京在住の外国人で溢れていたけれど、私の血に宿る日本人の本能が作動したように、簡単にケンジを見つけられた。あの後、ケンジは何事もなかったかのように振る舞ってきたから、私もそうすることにした。対立することもなく、お互いに距離を置き、私とケンジは礼儀正しくも、よそよそしいルームメイトに戻っていた。

「最悪だよ」とリュウが言った。

私は言った。「あなたのアート作品は素晴らしいわ。あなたが優れたイラストレーターだったなんて、ちょっとびっくり」バスケットゴールの後ろの壁には、額に入ったリュウの作品が掲げられていた。それは漫画本の表紙っぽく描かれたイラストで、golfer(ゴルファー)のユニフォームを着たスーパーヒーローのgopher(カンガルーネズミ)が、東京のスカイラインを見下ろすグリーン上で、ゴルフクラブをフルスイングしている。タイトルは『Golpher(ゴルファーネズミ)』。

彼の茶色の目が、青のメッシュが入った黒髪の隙間から覗いている。「今週末はどうしたんだ? どうして対抗試合に来なかった?」

「私が馬鹿だからよ」と私は正直に答えた。エックス・ブラッツのみんなが何と言おうと、リュウ・キムラは人間として、やばい人じゃないと私は確信していた。というか、噂とは真逆の人だと思っている。要するにこういうこと。私はレジー・コールマンという人間を知っていると思っていた。彼は私の親友だとずっと思ってきた。だけど、突然、突き離されてしまった。青天の霹靂とはこのことね。しかも、彼が大切に思っている相手は、あの不満ばかり口にしているものぐさスイマー。「髪が濡れちゃうわ」って...プールなんだから、そりゃ濡れるでしょ! つまり、たとえリュウの第一印象が悪かったとしても、―エックス・ブラッツのみんなはその印象を強めようと色々言ってくるけど、―リュウがいい人ではないってことにはならないってこと。私は気づいたの。相手が本当の意味で自分を受け入れてくれるまでは、その人がどんな人間かを知るのは不可能なのよ。

「だめ、だめ、だめ」背後からおなじみの声が聞こえてきた。イモジェンだ。「今は水泳大会じゃないのよ。孤独が大好きな気分屋は放っておきなさい、エル。彼は一人になりたいから、こんな高いところに座ってるんでしょ。―彼はそういう人なのよ。さあ、行きましょ。うちの親がエルに会いたがってるわ」

「さよなら、上司」とリュウが本から顔を上げずに、日本語で言った。「さよなら」は私も知ってる日本語だった。「上司」はエックス・ブラッツ内の彼女の呼び名だけど、リュウも彼女をそう呼ぶっていうのは、なんか意外だった。

私は腕を引っ張られるようにして、観覧席を後にした。私は今にもこう言いそうになった。私のタイミングでそっちに行くから、先に行ってて。あと、リュウと話しちゃだめとか言わないで。でも、ケンジが近くにいる手前、行儀よくしていたかった。こんなところで言い争いを始めるわけにはいかない。

会場の中央では、イモジェンの両親の周りに人だかりができていた。イモジェンが人々の隙間をかき分け進み、私も後を追った。彼女のママは雑誌で見た写真よりも小さく見えた。オートクチュールのファッションで着飾ってる感じかと予想してたんだけど、全然違って、ボヘミアンっぽいヨガ好きのママって感じだった。シャル・カトウは、シンプルなレギンスを穿き、カウボーイブーツに、白いニットのセーター、それに大きなダイヤモンドのペンダントが付いたネックレスを首から下げていた。ダークブラウンの髪をポニーテールにして高い位置で結んでいる。メイクは最小限にとどめ、リップグロスとマスカラのみだ。彼女はイモジェンと同じ青い目をしていて、堂々とした立ち振る舞いだった。最新流行のファッションは、夫のアキラ・カトウに任せているようだった。彼は深紅色のチェックのカーゴパンツを穿き、赤のシルクハットをかぶり、スーツと白いシャツでビシッときめていた。「あなたがエルね」とミセス・カトウがイギリス英語で言って、私に手を伸ばしてきた。「あなたのことはたくさん聞いてるわ!」え、そうなの?

「俺は何も聞いてないぞ」とミスター・カトウが冗談めかして言った。「俺に話したことあったか?」

「何度もあったわ。パパはいつだって私の話を聞いてないじゃない」とイモジェンが言った。

「そういうことか。俺らしいな」彼女のパパは愛想よく笑った。

「エル、今度週末にでも、うちに泊まりに来なさい。あなたのことをもっと知りたいわ」とミセス・カトウが言った。私はお招きにあずかって光栄だった。他の人の家で親交を深めることは、アメリカでは一般的なんだけど、日本ではそれほど浸透していないようだった。

「ぜひ彼女をお願いします!」突如、私たちの輪に新しいメンバーが加わった。誰かと思えば、キミ・タカハラで、彼女は自分から私の叔母だと名乗り出た。タック・ラグゼで何が起きているのか知らないけど、ケンジが今夜はすっぽかさずにちゃんとここに来てくれたことだけで、十分驚いていたっていうのに、そこにキミまで登場したから、私は気絶しそうだった。私が混乱している横で、彼女はこれくらいお手の物、といった手慣れた感じで、保護者のみなさんの中でたくみに振る舞っている。ニック・ズホノフの母親がスマホを片手にアプリの説明をすると、キミはすでにそのアプリを使いこなしていたはずなのに、あらまあ! と大げさに驚いてみせた。かと思うと、ジャンビのエンジニアのパパが史上最悪のつまらないジョークを言った時、キミは彼がプロのコメディアンであるかのように笑った。キミがそんな風に声を立てて笑うところを今まで一度も見たことがなかった。かと思えば、キミはヌトンビの母親に近寄って、大使館のレセプションパーティーを、ぜひ〈ディスティニー・クラブ〉で開いてほしいとお願いしていた。

そこへクロエ・レーラーが、キミとケンジの間に滑り込むようにして、グループに加わった。「来年の春、2年生のクラスは京都へ旅行に行くことになっているのですが、保護者で付き添ってくれる方が何人か必要なんです。どなたか一緒に行ってくださる方はいませんか?」

ラジオの電波が途絶えたように、カトウ夫婦とケンジは黙ってしまった。「ぜひ私が!」と言ったのはキミだった。

「行けたら私も」とアキラ・カトウが手を挙げた。キミが目を大きく見開いて、わざとらしく感嘆の声を発する。ふりが下手くそ!

「来ないで!」とイモジェンが言った。

クロエが言った。「そっか、あなたはすっかり転校生のスタースイマーと仲良くなったのね。 そういえば、キミもハーバードで優れたスイマーだったのよ、知ってた? エル」

キミが微笑んだ。「たしかに泳いではいたけど、大学のチームには入っていなかったわ」

クロエが言った。「彼女はチームに入る実力はあったんだけど、あえてそうしなかったのよ。あれは何語と何語だったかしら? 毎年ルームメイトが変わるたびに、ルームメイトの子の母国語を、選択科目で受講するのに忙しかったのよね。言葉が通じないと、洗濯物が汚いだとか、文句の一つも言えやしないってね」

キミが言った。「今から思えば、私も水泳チームに参加すべきだったわね。朝練のために早起きしなきゃいけないんだけど、誰かさんのおかげで、どうせ毎朝それくらい早く起こされてたから」キミとクロエが声を上げて笑った。

「私たちは新入生の時、ルームメイトだったのよ。それで、私はボート部だったから」誰も説明を求めてはいなかったんだけど、クロエは説明した。「いつも5時起きだったのよ」

「思いやりの欠片もなかったわね」とキミがからかい口調で言った。

「何のために友達はいると思ってるの? 夜が明けたらモーニングコール。それが友達ってもんでしょ」とクロエは、『That's What Friends Are For』のメロディーに乗せて歌った。

学部長先生って保護者会で歌うものなんだ?

キミにもちゃんと友達がいたんだ?

っていうか、彼女たちって500年前のハーバードのルームメイトたちっぽくて、キモい。

ケンジが心配そうにスマホを見た。「タック・ラグゼがまた緊急事態だ。残念だけど、俺は今すぐホテルに戻る必要がある」彼は身を乗り出し、キミの耳元でそうささやいた。彼女がうなずく。

私はがっかりしたけれど、驚きはしなかった。そもそも彼がここに来てくれたこと自体信じられなかったから。私はキミをちらっと見やった。彼女がケンジの代わりにタック・ラグゼに戻って、なんとか彼女だけで事態に対処してみる、と言い出してくれないかと期待した。

「早く行って」とキミがケンジに言った。「ここは私に任せて。うまくやっとくから」

「私も一緒に行く」と私はケンジに言った。「あなたがここにいないのなら、私もここにいる必要はないから」

キミが言った。「あなたは行っちゃだめよ、エル。ここに残って、私に校内を案内してちょうだい」そう言いながら、キミの目は1メートルほど離れたところにいるシャル・カトウにねらいを定め、照準を合わせていた。ここに残って、私がおべっかを使いながら、あなたの友達のママとお喋りするのを手伝ってちょうだい、エル。というメッセージが聞こえた気がした。

ついにリュウ・キムラが観覧席に張り付いていた腰を上げたようで、両脇に両親を引き連れて、私の方へ歩いてきた。彼らはひときわ目立っていた。―彼の両親はともに濃紺のスーツを着ていて、外国人でごった返している中で、彼らは見るからに日本人だったから。リュウが私たちのグループに近づいてくる。彼は両親に私を紹介しようとしているんでしょう。イモジェンがしかめっ面になり、私は思わず笑みがこぼれる。

キミのレーダーが敵の接近を察知し、警報音を鳴らしたようだった。私を奪われまいと、私の腕をグイッとつかみ、言った。「あなたの先生に会いたいわ」私はさっきの観覧席みたいに、またしても連れ去られるわけにはいかず、足をふんばるようにして、その場に固執した。

しかし、リュウは私のところへ両親を連れてこなかった。彼の両親も紹介なんて、はなから期待していない様子で、私のそばを通り過ぎていく。

私は、私の腕をつかんで離さないキミの美しい顔に、強烈なパンチを食らわせてやりたい気分だった。彼女の鼻頭めがけて、昔どこかで見た廃れ知らずの右ストレートを。

ニック・ズホノフと彼の父親が私たちのグループに加わった。―彼の父親はニックと瓜二つで、年の違いしかないくらいよく似ていた。ニックが言った。「パパ、この子が友達のエルだよ。彼女はワシントンDCから、最近引っ越してきたんだ」

彼のパパは目を上下させて、私の全身を隈なく観察した。ニックと初めて会った時と同じ目だ。「可愛らしい」と彼は感想を述べ、握手を求め、私に手を差し出してきた。私は軽く彼の手を握り返す。こんなことなら、ハンド消毒液を持ってくればよかったな。

「彼女は私の姪なんです!」とキミが高らかに言った。あら、キミ叔母さん、ようやく私のことを姪だって認めてくれたの? そんなわけないか、なんてインチキ叔母さんなの!

「君が叔母さんから美貌を受け継いだのがよくわかるよ」とニックが言った。

もうズホノフ親子がいないところならどこへでもいいから、早くここから立ち去りたかった。私は言った。「あ、キミ叔母さん、あそこに海洋科学のジム先生がいるわ。挨拶しに行きましょ!」私は「叔母さん」という言葉に皮肉を込めて言ったんだけど、むしろ悲しい気持ちになってしまった。本物の叔母さんが欲しい。―ビジネスチャンスが広がるから、という理由だけで、エリート私立学校に通う姪を、姪だと思うような人ではなくて。

「東京のおすすめレストランのリストをメールでお送りしますので、いつでもこちらにご連絡ください」そう言って、キミはニックの父親に名刺を差し出した。「それから、みなさま、―〈ディスティニー・クラブ〉にもぜひお越しください。その際は私がお出迎えしますので」

彼女はお辞儀をしながら、近くにいた人たちに名刺を配っていた。


・・・


帰宅する途中、車の中でキミは、彼女がパーティーで成し遂げたあらゆることについて、順を追ってしゃべり続けた。それを聞かされる私にとっては、この上なくうっとうしい夜になった。彼女はアキラ・カトウに、タック・ラグゼの〈スカイガーデン〉に置く彫刻を設計してほしいと頼み、検討しますという回答を得た。それから、彼女はジャンビ・カプールのパパに、タック・ラグゼの事業の中で請け負える仕事はないか、今度話し合いの場を持つ約束を取り付けた。ニック・ズホノフの父親は、彼の会社の取締役会を開く際に、〈ディスティニー・クラブ〉を会場の候補として検討してみる、と言った。結局のところ、今夜の集いは、保護者のための夜会ではなく、キミのための夜会になった。予定では、私はケンジに校内を案内して、彼を先生たちに会わせるつもりだったんだけど、その機会がすべて、キミのビジネスチャンスに変わってしまった。今どんな「緊急事態」が起こっているのか知らないけど、こんなにキミが有能なら、ケンジの代わりに彼女がタック・ラグゼに戻っても、きっと問題に対処できたはず。だけど、結局ケンジにとって、私の学校生活の様子を目で見て確認することは、優先すべき事柄ではなかったってことね。

「サトシ・キムラの息子さんがICS-Tokyoに通っていたなんて、びっくりしたわ」とキミは、リュウの父親の名前を出して言った。「クロエは私にそんなこと一度も話してくれなかったから」

「子供をどこの学校に入れたっていいじゃない。そんなことを気にする人がいるの?」と私は聞いた。

「その通りね」とキミは、私の発言を完全に誤解して言った。「キムラさんのお子さんたちは、普通の日本の学校に通えないのよ。親がしたことのせいでね。あなたもリュウ・キムラとは友達にならない方がいいわよ。ICSでは異質な家族だから」

「そんなのおかしいわ!」と私は、自分が偽善者だとわかっていながら抗議した。私もエックス・ブラッツのみんなの意見に従って、最初彼から距離を置いてしまったから。それでも、私はキミに「父親がしたことは子供のせいじゃないわ」と指摘した。しかし彼女はもう聞いていなかった。頭を切り替えて、膝の上に置いたノートパソコンでビジネス関係の文書に集中している様子だ。タック・ラグゼに政府の調査が入ったということは、もしそれがスキャンダルにでも発展したら、リュウの父親と同じことになるんじゃないの? それでも彼女はリュウの家を異質だとか言うのかしら? タカハラ家のビジネスの問題が、娘の私の評判を落とすかもしれないって心配じゃないの?

車の座席に置いてあった私のスマホが点灯し、ブルブルとメッセージの受信を告げた。手に取って画面を見ると、それは私のスマホではなく、キミのスマホだった。彼女はノートパソコンで何かをタイプしていて、気づいていない。画面に映ったメッセージは、クロエ・レーラーからだった。今晩部屋で待ってるわ。一緒にお風呂入ったら、シャンパンで乾杯しましょ! 愛してる。

えっ?!

キミはレズビアンだったの? そして、クロエ・レーラーが彼女のガールフレンドってこと? なるほど! だからクロエはいつもキミのことばかり話していたのか。それから、父親が亡くなってすぐにキミが離婚しちゃったのも、きっとそれが原因ね。

キミがノートパソコンで何を読んでいるのか見えなかったけれど、彼女は画面を見つめながら、不安な面持ちで小指のあま皮を噛んだ。私の中で、彼女に対する苛立ちがさっと消えた瞬間だった。逆に彼女が気の毒に思えてきた。今時、なぜ同性愛を隠す必要があるの? 公表したって何も問題ないでしょ、と思ってから、考え直した。私にも、あのミセス・タカハラみたいな昔ながらの母親がいたら、私もそんなに積極的には、カミングアウトできないかもしれない。

私はキミに言った。「あなたのスマホが光ったみたいよ」

彼女がスマホを手に取った。「ああ、銀行に勤めてる友達。彼が今夜飲もうって。タック・ラグゼであなたを降ろしたら、私はそのまま彼のところへ行くわ」

オ、オ、オッケー。

私には嘘をつかなくてもいいのよ、と言いたかった。ガールフレンドがいたって、私は笑顔で応援するだけだから。でも言えなかった。私たちはそこまで親密ではなかった。家族ってそういうものかもしれない。


・・・


タック・ラグゼのエントランス前でちょっとしたいざこざがあってから、私とケンジの間には、お互いなるべく衝突しないように生活しましょう、という暗黙の合意があった。そんな中、保護者会の夜がやって来た。

その翌日の朝、私はキッチンで牛乳をかけたシリアルを、ざくざくと急ぎ気味で口の中にかき込んでいた。アケミと一緒に車で通学する時間が迫っている。すると、ケンジがふらふらとキッチンに入ってきた。彼はすでに仕事用のスーツを着ている。朝、学校に行く前に彼を見るのは珍しいことだった。彼は通常、午前2時頃まで〈ディスティニー・クラブ〉から帰ってこないし、それから午前7時か8時まで寝ているから、彼が起きた時には私はもういないのだ。彼はとてもとても疲れた顔をしていた。今日は睡眠時間を削ってまで、朝から仕事なのかもしれない。ちょっと気の毒になって、彼のために朝食を作ってコーヒーを差し出してあげたくなった。できた娘だったらそうしたんでしょうけど、私はまだ、彼が保護者会をそそくさと抜け出して帰っちゃったことを根に持っていた。

「おはよう」と私は言った。

彼は私に挨拶すらしなかった。彼はすたすたと冷蔵庫に向かうと、中からリンゴを取り出し、一口かぶりついた。それから私の方を見て、言った。「昨夜、お前が観覧席でサトシ・キムラの息子と話してるのを見たぞ」

「だから?」と私は言った。こう付け加えたいくらいだった。私もあなたがさっさとイベント会場を後にしたのを見たわ。あなたが初めて来てくれた私の行事だったのに、1時間もいてくれなかった。

ケンジが言った。「イモジェン・カトウとか、ニック・ズホノフと君が友達になるなら、大歓迎だ。だが、キムラさんの息子はだめだ」

何言ってくれちゃってるの? そんなの、絶対受け入れられないわ。エックス・ブラッツのみんなも同じようなこと言ってたけど、そうでなくたって、生まれたばかりの娘を16年間も放っておいた父親がそんなこと言ったって、受け入れられるわけがないでしょ!

私は鼻で笑い飛ばすように言った。「彼にはちゃんとリュウっていう名前があるのよ。彼はれっきとした一人の人間なの。父親がどんな悪いことをしようが、それを彼にかぶせて見ちゃだめでしょ」

ケンジが首を横に振りながら、食器棚から水の入ったボトルを取り出した。(水の入ったボトルは冷蔵庫に入れて冷やしておく、というのはアメリカに特有の習慣だったんだと学んだ。)彼は水をコップに注いでゴクゴクと飲み干すと、言った。「子供っていうのはそういうものなんだよ。お前が学校でタカハラ家を背負っているのと同じだ。お前はここに住んでいて、タカハラ家がお前をICSに入れたんだ」

そう言うと、彼はせわしなく玄関ホールに向かった。私もそろそろ家を出る時間なので、彼の後に続いた。彼は玄関ホールにしゃがみ込んで、仕事用の靴を履いていた。「そんなの全然意味わかんない。私がすることは私が背負うけど、あなたがしたことは、あなたが自分で背負ってよね」

「お前は考え方がアメリカ的だな。これからもここに住むつもりなら、日本的なものの考え方を学ぶ必要があるぞ」

「私はこれからもここに住んでていいの?」それは私が抱えていた不安だった。それを彼にぶつけてしまったことが自分でも信じられない。「私はあなたたちの価値観を好きになれるかどうかわかんない」

私は心の奥深くまで溜まった大きな不安をぶつけたんだけど、彼はまったく意に介していない様子だった。彼の琴線にかすりもしなかったようで、平然としている。彼にとっては、朝仕事前に私の顔を見かけたから、そういえば、と思い出したことを言っただけの、短い、間を埋めただけの会話だったのだ。それ以上でも、それ以下でもない、ただの雑談。「ここで暮らすつもりがあるのなら、それを学んだほうがいい」と彼は感情を込めずに淡々と言った。彼のスマホが鳴り出した。電話のようだ。彼が玄関のドアを開けて、出て行こうとする。彼はドアノブを持ったまま、こちらを振り向いた。彼の目は怒りと苛立ちに満ちていた。私に理不尽なことを無理に納得させようとしている目だ。「あのリュウ・キムラとは付き合うな。俺が言ってるのはそれだけだ。大したことじゃないだろ」

彼は電話に出て声を発しながら、バタンとドアを閉めた。

大したことなのよ。私にとっては。



チャプター 31


マサおじさんは、私がICSで誰と友達になるべきかという相談を持ち掛けても、どうでもいいようだった。彼はただ久しぶりに私と二人きりで、街をぶらぶらしたいだけなのだ。台北での週末は、彼とのデートみたいな散歩で幕を開けた。それから、シャンパンが運ばれてきた。

土曜日の朝、マサおじさんは彼のお気に入りの場所だという〈チョンシャンパーク〉を案内してくれた。〈台北101〉と呼ばれる、台北を象徴する101階建て超高層ビルの影の下、噴水のある湖をぐるっと一周する、緑の木々に囲まれた美しい散歩道を二人で歩いていた。いろんな人たちを見ることができて、素敵な場所だった。ロマンチックに肩を寄せ合い散歩する若いカップル、ベビーカーの中の赤ん坊の様子を気にしながら笑顔で歩く両親、太極拳を練習するお年寄りたち、自転車に乗る子供たち、花の写真をカメラに収める自然愛好家たち。何より最高だったのは、バオビングというフルーツたっぷりのシャーベットだった。―極薄でシャリシャリの氷に濃厚なミルクがとろーりかかっていて、格別に甘い香りを漂わせていた。私はバオビングに、四角く切ったマンゴーをトッピングでつけてもらった。マサおじさんはスイートポテトをトッピングに選んだ。氷のシャーベットにスイートポテトなんて、私は想像すらしたことなかった組み合わせだったけど、一口食べさせてもらったら、結構いけた。

水泳の試合が始まるのは、午後の遅い時間だったので、午前中は観光を楽しむことにしたんだけど、最終的に、酔っ払いの洗礼を受けることになってしまった。

昼食を取ろうとホテルに戻り、マサおじさんがシャンパンを飲むというので、私も一口だけ味わってみたくなって、ちょこっとだけ飲ませてもらった。シャンパンは美味しかったけれど、それ以上飲むのはやめておいた。コーチのターニャが近くで、ボーイフレンドと並んで座っていたからだ。数時間後に行われる大きな試合を前に、選手たちがホテルの屋上のプールで各々調整しているのを見守っている。

「それで、ジュネーブでの任期が終わったら、東京に戻るかどうか、もう決めたの?」と私はマサおじさんに聞いた。

彼が笑った。私はジョークを言ったつもりなんてなかったんだけど、たぶん彼は上機嫌だったんでしょう。マサおじさんは4杯目のシャンパンに口をつけ、珍しく仕事のない一日を楽しんでいた。

「家族と仕事は分けたほうがいいんだ」と彼はシャンパンを飲みながら、言った。「ケンジのところで働くのは、危険が大きすぎる」

「危険ってどんな? あなたはケンジにとって弟みたいなものだって、彼が言ってたわ。あなたたちが一緒に働いたら、上手くいく気がするけどな」

「ケンジには、もう一人兄弟なんて必要ないよ」

私は納得できなかった。「あなたたちはいとこ同士なんだから、―」

「そうじゃなくて、彼には兄がいたんだよ。亡くなっちゃったけど。そしてケンジも、兄と同じように、あやうい状態にいる」

「待って。私には叔父さんがいたってこと? 彼は何歳で亡くなったの?」

「マサルは長男で、ケンジより3歳年上だった。母親のお気に入りの息子だったんだけど、彼が19歳の時、ボートの事故で亡くなった。お酒を飲みすぎて、ボートのコントロールが利かなくなったんだ」

「全然知らなかった」私はミセス・タカハラに同情の念を覚え、胸が痛くなった。私には子供を失う辛さはわからない。きっと想像を絶する悲しみに襲われたんでしょう。だからといって、意地の悪い人になってもいいってわけじゃないけど、一人の人間をあんな風に変えてしまうほどに、それが大きな悲劇だったということは理解できた。

「マサルは王子みたいだった。ケンジは彼を崇拝していた。それから、ケンジは彼のようになったんだ」

「そうね、ケンジは家族の王子みたいだもんね」と私はうなずいた。

「違うよ、彼も酒を飲むようになったんだ」

「でも、彼はもう飲んでないわ!」

マサおじさんは、ほろ酔い気分を通り越し、慎重さを欠いて声を荒げた。「だけど、彼が酒に溺れていた時期は大変だったんだ。飲んでは騒ぎ、パーティーに明け暮れ、悪い人たちと取引をしてしまった。そのつけが回ってきたんだよ。私が彼と一緒に仕事をすることになれば、彼がめちゃくちゃにした混乱を、私が全部片付けなければならない」

私の直観は、マサおじさんを信じる方向へ向かった。でも理屈が追いついてこなかった。「ケンジが正気じゃなかったのなら、彼に経営を任せたらだめでしょ。彼の母親がそんなこと許すはずないわ。彼女はあんなに賢いんだから」

「彼女には他に選択肢がなかったんだ。日本には女性のCEOはいないから。キミは必死になって陰で頑張ってたよ。キミがやった仕事は全部、社長のケンジがやったことになったけどな。キミとノリコがなんとか彼を食い止めたんだ」

「食い止めたって何を? お酒?」

「そう。彼はなかなかお酒をやめようとしなかったんだけど、交換条件を出してきた。娘の君を東京に呼び寄せるなら、お酒はやめる。彼はそう言ったんだよ。彼は君のためにお酒をやめたんだ」

私を東京に連れてくるために彼が払った犠牲がどの程度のものなのか、私には想像もつかなかった。それでもまだ、私は疑わしく思っていた。「彼はリハビリに行ったんでしょ?」

マサおじさんは激しく首を横に振った。「リハビリなんて行かないよ。そもそも日本には、アルコール依存症のためのリハビリセンターなんてほとんどないから。リハビリは、アメリカほど大きなビジネスにならないんだよ。日本の社会では、一旦依存症になった人は男でも女でも、人々に見下される対象になる。回復後に元のステータスを取り戻すのは、極めて困難だ。それでいて、きっぱりお酒をやめなければならない。しゃれた英語を使えば、冷たい鶏(cold chicken)にならなければならない—」

「それを言うなら、冷たい七面鳥(cold turkey)よ」

「それだ。彼らは死んで、文字通り冷たい肉になるか、弱い人間と見下されながら生きるか、義理と人情を重んじる日本では、そのどちらかしかない。義理というのは、周りの人たちへの義務のことで、人情というのは、元々その人にそなわってる感情のこと。日本人は常にその狭間で葛藤してるんだよ」

「彼がリハビリセンターに行けないのなら、彼の母親はもっと彼をサポートするべきでしょ」と私は言った。「あの二人が一緒にいるところを見ると、彼女はいつも日本語で何やらケンジを𠮟りつけてばかりいるわ」

「もしかしたら、彼女は彼がまた酒に溺れることがないように、彼の気を引き締めてるのかもしれないな。せっかく娘が近くにいるんだから、彼が君の模範となるように」

私はそんなこと思ってもみなかったから意表を突かれ、唖然としたまま何も言えなくなってしまった。そんなことってありえる? あのミセス・タカハラにも、義理や人情があるのかしら?

私のママは依存症から抜けられなくなって、彼女自身の人生をほとんど壊滅させ、私の人生にも暗い影を落とした。逆にケンジは依存症からきっぱり抜け出して、私の人生に明るい光を降り注いでくれた。

上機嫌のマサおじさんはいいことを言ってくれるわね。もっと色々教えてほしくて、私はシャンパンボトルの残りを彼のグラスに注いだ。彼は嬉しそうにそれをすすった。

私は打ち明けた。「正直な話、ケンジは父親になることに、あまり興味がないみたいなの」

マサおじさんが言った。「彼は君の父親になりたがってるさ。そうでなければ、わざわざ君を日本に呼び寄せたりしないだろ。ただ、彼が親になる方法を見つけるには、もう少し時間がかかる。彼自身の父親はとても厳しくて、いつもケンジを残念な息子として扱ってきたからな。それに、彼が母親からどれだけプレッシャーをかけられてるか、君も見てわかっただろ。もうちょっと辛抱強く、彼のことを理解してあげなさい」

私は彼の子供なのよ。理解したいんじゃなくて、理解されたいの。



チャプター 32


リュウはぶっちぎりで200M背泳ぎを征した。2分31秒25の好タイムだ。私は声がかれそうになるくらい声を張り上げて、彼を応援していた。ベンチから、コーチのターニャが彼に向かって呼びかけた。「キムラ! 自己ベスト更新よ! よくやったわ!」彼女が振り向いて、後ろに座っている私を見た。「あなたが見てるとね、彼は自己ベストが出るのよ」

私は顔が赤くなっても彼女に気づかれないように、うつむき気味で言った。「彼は屋内プールの方が得意だって言ってたから、それでじゃないでしょうか」ICS-台北の屋内プールは、緑豊かな造園に囲まれたlCS-東京の屋外プールほど立派ではなかった。ただ、台北のプールはこじんまりとしている分、気持ちが落ち着くような空間で、気温が安定しているという利点もあった。両サイドから、控え選手たちがチームメイトを応援する声が反響して聞こえる。(スタンドにいるICS-台北の保護者たちが両手で耳を覆うようにしているのは、私が東京から連れてきた非公式の応援団がうるさすぎるからだ。)

リュウがベンチに戻ってきて、私の隣に座った。次のレースが始まろうとしていた。私は彼とハイタッチを交わした。「素晴らしい泳ぎだったわ!」こんなに素敵な彼と、付き合うな、だなんて、ケンジは何もわかってないわね。時間の問題じゃないのよ。ケンジはリュウがどんな人なのか、知ろうともしてないんだから。というか、彼は自分の娘のことも、知ろうとしてないみたいだけど。

「ありがとう」とリュウが言った。「気持ち良かった」彼はあまり笑顔を見せない人なんだけど、この時ばかりは、屈託のない笑顔を見せた。しかし、突如として彼の顔が、しかめっ面に変わった。彼の視線を追って、振り返って見れば、スタンドにありえない人たちが到着したところだった。エックス・ブラッツのメンバー、ニック・ズホノフとオスカー・アコスタだった。

「こんなところで何してるの?」と私は、近寄ってきた二人に聞いた。

「応援に決まってるじゃないか」とオスカーが、そんなの当たり前だろ、という顔で言った。

ここは台北よ」と私は戸惑って言った。一体どういうこと?

ニックが言った。「昨日ブルネイでポロの試合があったんだよ。うちのプライベートジェット〈ズホノフ・エアー〉で家に帰る途中なんだけど、ここに立ち寄ってもらったんだ。君の初めての試合を、しかと見届けようと思ってね」彼はそう言えば私が喜ぶとでも思っている感じだったけど、私はストーカーに遭った気分だった。私が何も言わずに黙っていると、ニックは待ちきれなくなったのか、とうとう自分から、「どういたしまして」と言った。

次は私の出番だっていうのに、集中力によって胸のうちに溜まりつつあった神秘的な力が、一気に消えてしまった。100Mバタフライのアナウンスがあり、私はげんなりした気分で、ベンチを立った。観覧席の一番上の列から、マサおじさんが私を見下ろして、熱狂的に両腕を上げ、親指を立てていた。彼が私の泳ぎを見るのは、私が子供の時以来になる。私は彼を感動させる泳ぎがしたい。今からでも、もう一度集中しなくちゃ。聞いたことない名前の場所でポロの試合があって、その帰りに「立ち寄った」だけね。そんなことに気を取られて、精神集中が台無しになるなんて、絶対避けなきゃ。

ニックが私に言った。「君が望むなら、帰りはプライベートジェットで君を東京まで送り届けてあげるよ」彼はリュウを一瞬睨み付けてから、もう一度私を見て言った。「特別に君だけね」

「私はリュウたちみんなと帰るからいいわ」と私は言った。リュウの口の両端がくるっと丸まって、ほとんど笑顔になったのが、私にはしっかり見て取れた。

「君は君自身が何を求めているのかわかってない」とオスカーが言った。

はっきり言って、私はわかっていた。だから断ったんでしょ。もう、私がニックとキスしちゃったなんて、信じられない。私はニックを見やる。高慢ちきで不気味な彼とキスなんて、もう二度とするもんか。


・・・


「行け、ゾエルナー!」スタート直前、私が飛び込み台から水面を見つめていると、ニックの叫び声が聞こえた。スタンドを見上げると、彼が私に投げキッスを送った。

バンッとスターターの銃声が鳴り響き、私は飛び込んだ。直後、私は水を飲んでしまい、むせるように息継ぎしながら、バタフライを開始した。私の100Mのタイムは、いつもなら平均して1分10秒くらいなんだけど、台北での私の記録は1分25秒という体たらくだった。やってしまった。怒りを力に代えて、腕や脚をしっかり動かせばよかったのに、私は動揺して、バタバタと空回りさせてしまった。私の集中力は水中から浮き上がり、私は泳ぎながら、なぜかスタンドにいるエックス・ブラッツのことを考えていた。あの投げキッスは何なの? どういう意味? 外国での試合に、呼ばれてもいないのに突然現れて、恋人気取り? ニックに直接、「もう付きまとわないで!」って言った方がいいかしら? それとも接近禁止命令を出してもらって、間接的にそれを伝えた方がいいかな?

「君の泳ぎは素晴らしかったよ!」とマサおじさんは嘘をついた。彼は一足先にジュネーブに戻る必要があるため、空港に向かう前に私のところに挨拶にやって来た。

「私はビリだったのよ」と私は彼にさっきのレースを思い出させた。

「君は明らかに一番パワフルな泳ぎをしていたよ。ただ、君はどこか気が散っているようだった」

「集中、集中、集中」と私はつぶやいた。レジーがいつもスタート前に私に声を掛けてくれる言葉だ。最悪だ。それをレース後に思い出すなんて。

日本式ではなく、アメリカ式のお別れの挨拶だけど、マサおじさんは私を包み込むようにハグしてくれた。ほっとした。

今の私にはそれが必要だった。

台北空港行きの貸切バスに乗り込む前に、私は着替えのため更衣室に向かった。更衣室にはもうほとんど人はいなかった。私がマサおじさんと話している間に、チームメイトたちはすでに着替えを済ませて更衣室から出ていた。私はシャワーを浴びて服を着た。負けたことを水着のせいにはしたくないけど、この水着はもう着たくないな、と思いながら、それをスポーツバッグに詰めて、外に出た。ICS-東京のキャンパスのように、台北のキャンパスも広くて、しかもすでに辺りは暗かったので、私はスマホを懐中電灯代わりにして、バスが待っているはずの中央広場に急いだ。

たしかこの本館の角を曲がれば中庭に出るはず、と思いながら、建物の横を急ぎ足で歩いていると、木陰から男が飛び出してきて、私は心臓が止まるかと思うほど、びっくりした。「ブー!」と言ったは、ニックだった。

「そういうことはやめて!」私は彼の体を突っぱねるように押しながら言った。

暗闇で突然襲われて、恐怖で心臓発作を起こしそうだったのよ、と私が言うよりも先に、彼が私を引き寄せ、抱きしめた。「君は思わせぶりだな」と彼はつぶやくと、唇を私の唇に押し付けてきた。

「やめて!」私は口ごもるように言い、顔を回転させ、なんとか彼の唇を回避した。

「ラフなプレイが好きか?」私は何が起きているのかわからないまま、地面に押し倒され、彼がもう一度私にキスしようとしてきた。これって現実に私の身に起きていることなの?

集中、集中、集中、レース前のレジーの声が聞こえた。私が抱いているパニックや嫌悪感を覆すには、集中力しかない。そして私は...

「わぁ!」とニックが悲鳴を上げ、私の横に転がり落ちた。猫背の姿勢でうずくまり、両手で股間を押さえている。私がスイマーの全力をひざに集中させ、思いっきり彼の股間を蹴り上げたのだ。「このビッチめ! こんな仕打ちしやがって! こっちはちょっとからかっただけだろ」

もう二度とからかわないで」私は立ち上がった。誰かのスマホが懐中電灯のように、私たちを照らし出した。

リュウだった。彼は私を見ると、言った。「行こう、エル」私に向けられる彼のまなざしが、私を安心させた。私は無事だったんだ。それからリュウはニックを見下ろし、言った。「もう一度こんなことやろうとしたら、俺がお前を殺す」



チャプター 33


「そんなの大したことじゃないよ」

月曜日、そう言ったのはジャンビ・カプールだった。私が彼女たちに週末、台北でニックにされたことを話したら、軽くあしらわれてしまったのだ。私たちは課外授業で明治神宮に来ていた。明治神宮は昔の天皇とその妻の霊を祀る神社らしい。都会の真ん中にぽっかりと空いた林には、赤やオレンジの葉っぱが生い茂っていて、信じられないほど穏やかなスポットだった。鳥居と呼ばれる巨大なヒマラヤスギの門をくぐると、小道がずっと続いている。見事な寺院や国宝が展示されている博物館もあった。小道の脇に白い酒樽がきちんと積み上げられて、壁のようになっている場所もある。伝統的な衣装を身にまとった神主や巫女さんもいた。神社の静けさとは裏腹に、私の心臓はドキドキと不協和音を奏でていた。―私は意を決して打ち明けたというのに、エックス・ブラッツの子たちがほとんど無反応だったから、彼女たちの正気を疑った。

ヌトンビが言った。「きっと飲み過ぎたのよ。彼は飲むとそういう感じになるのよね」

「レイプされそうになったのよ?」私は彼女たちの無関心さがショックでならない。

「その言い方は不適切ね」とイモジェンが言った。「彼はちょっと羽目を外しただけで、あなたを傷つけるつもりはなかったのよ」

ジャンビが言った。「彼はいい人よ。まあ、酒を飲むとアホになるけど」

私は言った。「彼は間違ったことをしてるってわかっていたのよ! その証拠に、ほら見て、今日学校を休んでるじゃない」

ジャンビが言った。「今週は感謝祭でしょ。だから半分くらいの生徒は、アメリカの家族の元へ帰っちゃったのよ」

「ニックはアメリカ人じゃないわ」と私は指摘した。きっとリュウが彼を殺すって脅したから、ニックは休んでるのよ。私はその部分については彼女たちに話さなかった。リュウはあまり口数が多いほうではないけど、一旦彼が口を開けば、ズバッといいことを言ってくれるんだから。私はリュウもこの課外授業に参加していてほしかった。上辺だけの友達と一緒にいるより、彼と紅葉の下を歩きたかった。昨夜、台北から東京に帰る飛行機の中で、リュウは私の隣に座って、寄り添うようにしてくれた。彼はほとんど一言も話さなかったけど、彼の沈黙がすべてを語っていた。俺が君のそばにいるから大丈夫だよ。夜空を飛ぶ薄暗い機内で、私は頭を彼の肩に乗せ、彼は手を私の膝に乗せていた。日本に来て以来、誰かの庇護に包まれて、これほど安心しきった時間はなかった。

イモジェンが一歩前に出て、振り返ると、一旦歩くのをやめましょう、と私たちに指示した。「ガールズトークタイムよ」彼女は私に鋭い視線を向けた。「エル、ニックは私たちの友達なの。あなたはどちらかの道を選ばなければいけないわ」

「どちらかの道って?」と私は混乱して聞いた。

ジャンビが言った。「彼にレイプされたとか言ってたら、私たちのグループにはいられないってこと」

私はハッと息を止めてしまった。この会話って実際に今起こってるの? 女の子同士ってお互いに支え合うものじゃないの? 私は嫌悪感で胸がいっぱいになり、言葉も出なかった。

ヌトンビが言った。「私たちは彼のことをそれなりに知ってるけど、あなたのことはほとんど何も知らないわ」

私はもう我慢できなかった。私は言った。「それなら今、私のことを知ってちょうだい。私がなぜ東京に引っ越してきたか知ってる? 私はここに来る前、里親の家にいたの。ママが刑務所に入っちゃって、一緒に暮らす家族がいなかったからよ。私の服はすべて〈ターゲット〉か〈オールドネイビー〉で買った安物ばかりだったし、飛行機にだって乗ったことなかったんだから。私はあなたたちみたいに、いろんな特権を持って生まれたわけじゃないけど、少なくとも何が正しくて、何が間違ってるかってことの区別くらいつくわ。少なくとも、木の陰から突然飛び出してきて、女の子を地面に押し倒す男は、いい人ではないってことくらいわかるわ」

誰も何も言い返してこなかった。少しして、イモジェンが手を叩きながら、褒め称えるように声を上げた。「素晴らしい名言ね。メリル・ストリープみたいだったわ」

ヌトンビが言った。「ごめんなさい。あなたにとっては大変なことだったのね。それでも、ニックは私たちの友達なのよ」

イモジェンが私の腕につかんで、私たちはまた歩き始めた。「そんなにピリピリ怒らないで、エル。私がニックと話して、丸く収めてみるから」

「あなたに丸く収めてほしいなんて頼んでないわ」と私は言った。

「それが上司の役目なのよ」とイモジェンが言った。

私は余計に混乱してしまった。丸く収めるってどういうこと? 議論がかみ合わなかったとかじゃないんだから、丸くなんて収まるの? というか、私は丸く収めたいの?





・・・


それから3日経っても、私はまだ混乱していた。どうしたらいいのかわからなかった。エックス・ブラッツのメンバーにはアメリカ人は一人もいなかったので、感謝祭といっても、家族で祝おうという者は誰もいなかった。代わりに、みんなでタック・ラグゼの〈生け花カフェ〉でお祝いしましょう、という話になり、ちょうど今、東京にエックス・ブラッツの元クイーンがいるらしく、イモジェンが彼女も連れて来たいと言った。それから、ニックは参加させないから安心して、と約束してくれた。

アラベラ・アコスタは、ほっそりとした顔をしていて、茶色い瞳には目力があった。太い眉毛に、不完全さが逆に魅力的なわし鼻で、クイーンという呼称にふさわしい風格をまとっていた。彼女のウェーブがかったダークブラウンの髪は、何気なく乱れている感じで、まるで彼女の頭上には目に見えない妖精が飛んでいて、常に絶妙な乱れをキープしているみたいだった。私は彼女の美しさに、ぱっと見で良い印象を抱きかけたけれど、彼女はリュウ・キムラとかつて付き合っていた子だと思い出し、逆にその美しさが憎らしくなった。

「ちょっと確認していいかしら?」とアラベラが私に言った。話し方まで王族みたいに上品で、私は胸くそが悪くなった。「あなたって東京に来るまで、お父さんが誰なのかも知らなかったって本当?」

「だったら何なの?」と私は言った。イモジェンがべらべらと全部喋ったのね!

〈生け花カフェ〉で感謝祭を祝うパーティーをしたいと言うと、ケンジが前もって、その夜のために特別なメニューを注文してくれた。私の顔を立ててくれた、彼の粋な計らいだったけれど、彼は感謝祭というものを理解していないようだった。家族で分け合える料理をテーブルの上にデンッと一つ用意して、それを和気あいあいと家族みんなで食べるのが感謝祭なのよ。「時間があったら俺も参加する」とか言って、娘をほったらかすような祝い事じゃないんだけどな。(今のところ、彼はまだ参加していない。)ゲストのほとんどがアメリカ人ではなかったので、誰もそんなこと気にしていないようだった。テーブルには、七面鳥の切り落とし、マッシュポテト、ほうれん草のクリーム和え、それと、さまざまなパイが並んでいた。―アップルパイ、クルミパイ、レモンメレンゲパイ、スイートポテトパイ、パンプキンパイ。―ママが逮捕される前の年の感謝祭を思い出した。私がママと祝った最後の感謝祭だった。あの時よりも、確かに料理は豪華だった。あの頃の彼女はソファーで死んだようにぐでんとしていたし、感謝祭に出してくれた料理は、冷凍のミートローフをレンジでチンしたものだった。それを食べ終わった頃、デザートの代わりに、見知らぬ男が家にやって来た。インターネット経由で、ママから薬を買いに来たらしかった。その男がうっかり置いて行ったマクドナルドのアップルパイを、「ほら、食べなさい」とママは差し出したけれど、私はそれをゴミ箱に投げ捨てた。翌朝、テーブルの上に、捨てたはずのアップルパイの食べ残しがあり、ママがゴミ箱からそれを掘り出して、食べたことがわかった。

興味深いことに、アラベラが東京にいる間は、イモジェンは一時的にボスの座を彼女に明け渡し、ジャンビもヌトンビもアラベラに仕えている様子だった。

ジャンビがアラベラに熱のこもった口調で言った。「今シーズンのフィールドホッケーは、リーグで2位だったのよ!」

「1位じゃなきゃだめじゃないの」とアラベラが鋭く言い返した。それから彼女はジャンビを労うように、優しく付け加えた。「全力を尽くしたのなら、いいのよ」

「どうしてオスカーはあなたと一緒に来なかったの?」とヌトンビがアラベラに聞いた。

「オスカーとニックは、今週はイギリスでポロのトレーナーと練習にいそしんでいるのよ。イモジェン、そわそわと足を揺するのやめてちょうだい。さっきから、あなたの足が私の足にぶつかってるのよ」

リュウがこの女の子の何を見て、どこに惹かれたのか、私には正直理解できなかった。彼女の美しい顔と体、それ以外に何かある?

アケミ・キノシタが〈生け花カフェ〉にやって来た。デザートブッフェのそばのテーブルを囲んで座っているエックス・ブラッツの女子たちを見て、彼女は目を丸くし、恥ずかしそうにしていた。

「ハイ、アケミ!」と私は声をかけた。「こっちに来て、一緒に食べましょ」アケミは絶対断るだろうな、と思った。その方が、エックス・ブラッツのみんなも安心することもわかっていた。だけど、彼女がここに加わっても、みんなは彼女を歓迎するってことも知ってほしかった。

「ありがとう。でも遠慮しておくわ」彼女は他の子たちとは視線を合わさず、ぼそぼそと言った。「母にパンプキンパイを一つもらって来てちょうだいって頼まれたの。彼女はアメリカのパイが大好きだから」

「なんて可愛らしいの」とアラベラが言った。「それじゃあ、さようなら」

アケミはパンプキンパイを持って、そそくさとその場から逃げ出した。私は我慢の限界だった。「私の友達に失礼な態度を取らないで」と私はアラベラに言った。

アラベラが言った。「あら、あんな子があなたの友達?」

ジャンビが私に言った。「エル、かわいそうな子に手を差し伸べるのはやめなさい」

ヌトンビが言った。「ニックから聞いたわ。あなたは、例のあいつ、キムラとずいぶん仲がいいそうね。彼は仲間外れだって言ってるでしょ」

「本当に?」アラベラが片眉を上げて、私を見た。「まあ、お似合いなんじゃない。あなたの新しいお父さんも、ヤクザだって聞いたから」彼女は豪華絢爛な〈生け花カフェ〉の内装を大袈裟に指差して、付け加えた。「そうじゃなかったら、日本でこんな宮殿みたいな建物を建てられるわけないじゃない」

私はもうこの子たちとは付き合えない。私はアラベラに向かって言い放った。「そういえば、私も聞いたわ。あなたは妊娠させられたあげく、振られちゃったそうね」

テーブルを取り囲む全員が大きな口を開けて、あわあわと喘いでいた。

すでにわかっていた。今度は私が仲間外れにされる番だと。



12月

チャプター 34


親愛なるママへ


問題です。スペイン語の成績がAに上がったのは誰でしょう? イエス、イエス、正解!―私です!


成績が上がったのには理由があってね。私が東京に来てから学校で仲良くしていた人気者の女の子たちに、実は捨てられちゃったの。でも良かったわ。おかげで、スペイン語でいうと、Muy bien(おかげで)―勉強する時間がたっぷりできたし、勉強の途中でメッセージが来て邪魔されたりもしないしね。恐れていたことが現実になってみると、案外大したことないものなのよ。なーんだ、あんなに怖がって損した、みたいな気分。(ママがいるジェサップ矯正所もそんな感じなんでしょ? そうであってほしいわ。)心配しないで。私は元気よ。(この前手紙を送ってくれてありがとう。ママも元気だって知れて嬉しかった。)


矛盾しているようだけど、人気者たちを実際に好きな人なんて、学校に誰一人いないんだってわかったの。みんな彼女たちの言うなりになってるか、そうでなければ、彼女たちに目を付けられないようにビクビクしてるだけだったの。今では私の周りには人気者たちはいなくなったから、私はもっと普通の子たち、そんなにお高くとまっていない子たちと知り合うようになったのよ。スペイン語で一緒になる女の子がいるんだけどね、最近初めて話しかけてみたら、その子もメリーランド州出身だってわかったの。メリーランド州のベセスダですって、私たちが住んでたあの家からそんなに遠くないでしょ! 彼女のママが東京のアメリカ大使館で働き始めた関係でこっちに引っ越してきたそうよ。彼女は日本について詳しいから、興味深いことをいろいろ教えてくれるの。たとえば、ほとんどの日本人にとって、クリスマスは宗教的な行事じゃないんですって。恋人たちがデートする日なんですって! ケンタッキーフライドチキンを事前に注文して(そうじゃないと売り切れちゃうから!)、クリスマスの当日、カップルは寄り添いながら列に並んでチキンを受け取るらしいの。お店の前ではサンタの恰好をした店員さんとか、カーネルサンダースのサンタバージョンが、列に並んで待ってる人たちを楽しませてくれるんですって。そして、人々はイチゴのショートケーキに凄くよく似た特別なケーキをデザートに食べるの。KFCとストロベリーショートケーキ。—なんかクリスマスっていうより、7月4日の独立記念日の食事みたいな響きよね? 年末年始は5日間くらい仕事が休みで、それぞれ生まれ育った都道府県に帰って、家族に会って、先祖を敬って、お墓にみかんをお供えするそうよ。それで先祖を家に迎えて、数日一緒に過ごして、またね、と言ってお墓に帰すそうよ。そういう伝統って、なんかいいなって思う。私も死んだら、誰かがそうやって毎年来てくれたら、嬉しいもん。死んだ後も家に迎え入れてくれるなんて、いい家族を持ったなーって胸が熱くなるわ。しかも、私の好きなみかんを持ってきてくれるのよ。


この時期の東京は綺麗よ。日本人は12月25日のために家の中に実際のツリーを置いたり、プレゼント交換をしたりはしないけど、通りの街路樹には白い電球がたくさん付けられて、夜になると明るく光るし、どのお店もキラキラと装飾されていて、タック・ラグゼのホテルのロビーにも、巨大なクリスマスツリーが設置されてるの。ロビーを通るたびに見上げると、大きな金のボールがいくつもぶら下がっていて、クリスマスライトがキラキラと瞬いてるわ。外はすっかり寒くなって、雪も、はらはらと風に舞う感じだったけど、もう何回か降ったし、クリスマスが近づいてきたって感じで、気分もうきうきしてくる。私、クリスマスが大好き! だからこそ、この時期は余計にママが恋しくなるわ。あの家で一緒に暮らしていた頃なら、今の時期は、ママと一緒にクリスマスクッキーを作りながら、今年のクリスマス休暇は何をしようかしらって計画を立てている頃ね。今年はケンジと一緒のクリスマスだなんて、信じられない。あなたと一緒じゃないなんて。


大好きよ。


エルより



チャプター 35


もうリュウが一人で座っていることはなくなった。昼休み、ランチのテーブルには、私とアケミ・キノシタも、彼と一緒だった。

外で食べるには寒すぎる季節になり、オープンテラスから屋内のカフェテリアへと、学生たちがどっと流れた。そこでも、エックス・ブラッツが中央の丸いテーブルに陣取り、他を寄せ付けないドーム状のバリアを張っていた。そして彼女たちを中心に回る衛星のごとく、他のみんなは周りのテーブルにつき、昼食を食べていた。

「彼女たち、あなたのことを話してると思う?」アケミがピーナッツバターとジャムのサンドイッチにかぶりつきながら、私に聞いた。アメリカでは昔から定番の食べ物なんだけど、アケミも大好きなメニューらしい。

「たぶんね」私は肩をすくめた。気にしないように、と自分に言い聞かせ、チラッと彼女たちの方を見やる。彼女たちの誰も私を見ていなかったから、彼女たちはペチャクチャと喋っているけれど、私をけなす言葉もそこに含まれているのかまではわからない。彼女たちは私のことなんて話していないと思いたかった。でも、私は彼女たちと一緒にランチタイムを何度も過ごしてきて、リュウ・キムラの悪口もあれこれ聞いてきた。私がこんな心境でいることくらい、彼女たちはわかっているはずで、そんな中、私のことを話さないなんてありえない気がした。私の心配が的中したかのように、ニック・ズホノフが私の方を見て、視線が合った。彼が中指を突き立てて、私を威嚇する。彼の周りでエックス・ブラッツのみんなが、どっと噴き出すように笑った。

「私たちもお返しに、彼女たちについて話しましょ」とアケミが言った。

「やめておこう」とリュウが言った。「仲間外れにされる利点はね、透明人間になれるってことなんだ。向こうから見えないのなら、こっちからも見えないってことだよ」彼の青いメッシュが入った髪の毛が、ぱさっと落ちて、彼の片方の目を覆った。私は無性に手を伸ばして、その髪を彼の耳の後ろに押し込みたい衝動に駆られた。

「このチキンナゲット、美味しい」と私は初めて食べた食堂のメニューを噛み締めるように言った。もうすまし顔の彼女たちに囲まれて、セブンイレブンで買った冷えたコンビニ弁当を食べなくていいんだ。普通の学生が食べるランチメニューを食べられることに、私は安堵感でいっぱいだった。

「私もそのナゲット食べたい」とアケミが言った。「私はアメリカの食べ物が大好きなの。すぐ戻るね」彼女は席を立つと、もう一度配膳スペースへ向かった。

「君はフライドチキンが好きなんだ?」とリュウが私に聞いた。

「そりゃそうよ。嫌いな人なんている?」

「そりゃいるだろ。ベジタリアンとか」私は笑った。

するとリュウが「クリスマスの予定は何かある?」と聞いてきた。

「微妙ね。父のホテルと〈ディスティニー・クラブ〉は、クリスマスは大忙しらしいから。日本ではクリスマスという祝日はないみたいだけど、パーティー好きの外国人とか、クリスマスを祝いたい日本人で大賑わいになるんだって」

リュウがテーブルの下を見た。なんかもじもじしているようで、彼らしくない。ついに彼は顔を上げ、私を見ると、意を決したように言った。「その日、俺と一緒にKFCに行かないか? なんていうか、日本ではそういう伝統があるんだよ」

オーマイガー! リュウ・キムラにデートを申し込まれちゃった! 真剣な表情でよ!

「ぜひ行きたいわ」私の心臓は幸せで爆発寸前だったけれど、なるべく平静を装って、こんなのなんてことないわ、という感じで言った。リュウがにっこりと微笑んで、喜びつつも、ほっとした表情を浮かべた。

カフェテリアの真ん中から視線を感じ、私は再びエックス・ブラッツの方に目をやらないわけにはいかなかった。ニック・ズホノフが悪意に満ちた目で私を見つめていた。今度は私が、中指を突き立てて、彼を威嚇した。


・・・


「それで、あなたとアラベラ・アコスタの間で、本当は何があったの?」と私はリュウに聞いた。その日の夕方、水泳の練習を終えて、私たちはバスに乗って港区に帰る途中だった。KFCデートの約束をしたことで気をよくした私は、こういうぐっと突っ込んだ質問もためらいなくできるくらいまで、彼に親近感を覚えていた。

私たちはもうバスの通路を挟んで座ってはいなかった。最近ではいつも、先にバスの一番後ろの席に座っている彼の隣が私の特等席で、二人で寄り添うように座っている。他の子たちは私たちの近くの席には座らず、私たち二人だけの聖域がそこにはできているようだった。

「君は本当に知りたいのかい?」とリュウが聞いた。

「うん」

「たぶん聞かなきゃよかったって思うよ」

うそ! ってことは、単に彼女を妊娠させたってだけじゃないのね。そんな一癖も二癖もある秘密を抱えた男と付き合うなんて、私自身がそれを望んでいるとはいえ、考えものかしら?

「大丈夫。なんとか対処するから」

「どうして知りたいの?」

「たぶんあなたが彼女みたいな人と付き合ってたっていうのが、私の中で腑に落ちなくて、だから聞いてるんだと思う。あなたは寡黙な人だし、他の人に干渉されないタイプでしょ。それにひきかえ、この前、アラベラって子に会ってびっくりしちゃったんだけど...」私はあやうく、彼女がどれほど傲慢で意地悪かを並べ立てるように言いそうになったけど、彼の前で彼の元カノをけなすのは良くないな、と思い直した。「彼女から受けた印象は、そういう感じじゃなかったから」と私はできる限り慎重に、外交官のように言葉を選んで言った。

彼は私をまっすぐ見つめると、真顔で言った。「アラベラはそれほど悪い子じゃないよ。彼女の家族もごたごたしていて大変なんだ。金持ちすぎるというか、家族の誰も彼女の面倒を見てないから」

あなたみたいに? と私は思った。「あなたは彼女を愛してたの?」と私は静かに聞いた。

私たちの近くには誰も座っていなかったけれど、彼はささやき声で言った。「べつに付き合ってたわけじゃないよ。友達以上恋人未満っていうか、わかるだろ、お互いにどういう人かを探りながら、距離を縮めていってる感じだった」

「本当に? じゃあ、なんで彼女は東京を離れちゃったの? イモジェンが言うには、あなたが彼女をこっぴどく振って、彼女が傷ついて」

「イモジェンは勝手に話をでっち上げるんだよ。彼女の中には別の現実があって、それに合わせてストーリーを作るんだ。悪役が必要になって、俺を悪者に仕立て上げたんだろ。アラベラが妊娠しちゃって、それでボリビアに帰国したという噂は本当だよ。だけど、父親は俺じゃない」

「じゃあ、誰なの?」

「ニック・ズホノフだよ。飲み物に睡眠薬か何かを入れられたんじゃないかってアラベラは言ってた。ニックの家でパーティーがあって、彼の両親は不在だった。彼女が目覚めると、なぜかベッドの中にいて、隣には彼が寝てたって。でも彼の部屋に入った記憶はないそうだよ」

「なんてこと!」やっぱりやばいやつじゃん! まさかアラベラ・アコスタに共感を覚えるとは思ってもみなかったわ。もうニック・ズホノフの首を思いっきり絞めてやりたい気持ちだった。私がニックにされそうになったことを言っても、エックス・ブラッツの子たちは信じてくれなかったから、彼女たちを嫌いなことには変わりないけど、—だけど、アラベラがされたことに比べると、私はまだ運が良かったほうね。アラベラを好きになったわけじゃないけど、彼女を抱きしめてあげたくなった。大丈夫だよ、すべてうまくいくから、と耳元でささやいてあげたかった。「彼女は彼を告訴とかしなかったの?」

「それが強要だったという証拠がなかったんだよ。彼女は板ばさみになってしまった。彼女の兄のオスカーはニックの親友でもあるし、ニックはエックス・ブラッツのメンバーでもあるから、彼女はイモジェンにも他の女子たちにも話せなかった。気まずくなって、グループ内での自分の立場があやうくなるのを恐れたんだ。それで一人でボリビアに帰国して、ひっそりと処置してきたんだ」

「それであなたが罪をかぶったわけね」

「べつに俺は誰が何を思おうと、誰に何を言われようと構わないよ」とリュウは言った。

私は自分から手をつなぎにいく勇気があるなんて信じられなかったけど、彼の手に向かって、自然と手を伸ばしていた。私たちの小指どうしが触れ合って、小指から彼の温もりが伝わってきた。私の手がこれほど幸福感に包まれたことは今までなかった。「私はあなたのそういうところが好きよ」と私は告白した。「私もそういう人になれたらいいな」

彼は顔をこちらに向けて、私を見た。鍵と鍵がかみ合うように、彼は指を私の指に絡めた。私は待った。彼の唇が近づいてくるのを望みながら。

私の望みは30秒ほど私たちの間の宙をさまよい、その間、私の胸は期待で膨れ上がった。彼のまなざしは、うるうると私に吸い寄せられ、唇が重なり合ったら私たちの関係は根底から変わってしまうことを告げていた。

ついに、リュウが身を乗り出し、私にキスをした。彼の唇は柔らかくて、それでいて引き締まっていて、甘かった。この上なく、天にも昇るほど、甘かった。

これが正真正銘、私のファーストキスだった。待ちに待った、生涯一度きりのその瞬間、真の王子様に口づけされた私の中で、いくつもの花火が上がっていた。



チャプター 36


もう彼から離れることはできなかった。彼も同じ心境だったようで、「一緒に来る?」とリュウが私に聞いた。いつもだったら、ここで先にバスを降りる彼に手を振って、彼の後ろ姿を見送ることになるんだけど、花火の残り火はなかなか消えてくれなかった。

「もちろん行くわ」行く先がどこだろうと構わなかった。彼と一緒だったら、どこへでも行ってやるわ。

芝公園の入口近くでバスを降りた。「この公園の中に、君に見せたい大好きな場所があるんだ」とリュウが言った。私は思わず笑みがこぼれてしまう。彼がお気に入りのスポットを私と共有したがってるなんて、幸福感で頭がクラクラしてきた。赤と白の東京タワーが緑の芝生に覆いかぶさるように、すぐそこに建っていた。空気が冷たく澄んでいて、晩秋の木々が赤や黄色の鮮やかな色彩をたたえている。ゴージャスな景色を眺めながら歩くだけでも、最高の季節だった。(しかも隣には素敵な男の子がいるのだから、完璧な日だ。彼は私をKFCに誘ってくれて、さっき私にキスしたのよ!)

私たちは公園の入り口で立ち止まった。その美しい門は、それ自体がお寺のようにも見えた。赤い四面体の構造物で、屋根には金の縁取りが施され、漆塗りの柱で支えられている。リュウが言った。「これは江戸時代からあるんだ。昔の人はこの門をくぐって、将軍様の霊殿にお参りしたんだよ。この辺りにはもっとこういう建物があったんだけど、第二次世界大戦中の空襲でほとんど失われて、これしか残っていない」





「あの人たちは誰?」私は門の中でたたずむ2体の彫像を指差して聞いた。そのワイン色をした彫像は、私に侍の怪物を思い起こさせた。片方の像は、「やめろ」と言うように手を上にかざしていて、もう片方は像は、金のナイフを持っていて、今にも切り付けてきそうだ。「彼らは荒武者みたい」

「彼らは守護神で、強さの象徴なんだ」

リュウが私の手を取った。私は彼の手をしっかりと握りしめた。彼と一緒だと、私は守られているようで心強い。それでいて、独立して立っている感覚もある。―これが私にとって、一番強さを発揮できる状態だと思った。木々や芝生の庭に囲まれ、私たちは歩いていた。私たちの他にも、手をつないで散歩しているカップルが何組かいた。なんだか、見ず知らずのカップルたちに共振してしまった。ここに集まった恋人たちはみんな、同じ秘密結社に属している気分だった。

「ここからあなたの家までは、どのくらい?」と私はリュウに聞いた。

「歩いて15分くらいかな。大体いつも学校帰りにここに寄るんだ。天気が良ければベンチに座って、あるいはカフェに入って、宿題したりする」

「あなたは学校では誰とも一緒にいないみたいね」

「俺は一人でいるのが好きなんだ」彼はそこで一旦黙り込み、私の手をそっと握りしめた。「今まではね」キュン死。もう気絶しそうだった。

「あなたは他の男子とは違うのね? 早く家に帰ってオンラインゲームをしたいって感じじゃないみたい」

「俺もそういう面はあるよ。でも、宿題はほとんど終わらせてから家に帰ったほうが、後々楽なんだよ。オンラインゲームとかしてると、父親がうるさいからね。その時に、今日の宿題はもう終わったって見せられるから。本当に彼はうざくて、なるべく避けるようにしてるんだ」

「どうしてお父さんを避けるの?」

「彼は俺のやることなすこと、すべてが気に食わないんだ。ウクレレ。イラスト。俺が興味を示すものは何でもかんでもケチをつける。そんなものに未来はないってね」

「うわっ、最悪ね。なんかかわいそう」リュウのお父さんの干渉的な態度と比べると、ケンジの私に対する無関心が良心的なものに思えてきた。

「もう慣れっこだから、なんてことないよ。あと2年もすれば、俺はアメリカの大学に行くんだ。彼にわずらわされることもなくなる」

「あなたのお母さんはどんな人?」

「母親とはうまくいってるよ。でも、彼女は自分一人では何もできない人なんだ。父親があれこれ口出しする。彼女は何を着るべきか、どういう感じで化粧して、どういう風に振る舞うべきか、いちいち指示を出して、彼女はそれに従って生活してる」

「たぶん彼女は怖くて逆らえないのね」

「彼女はそういう人だから仕方ないよ。彼がビジネスでスキャンダルを起こしてから、二人はほとんど家の外に出ていない。うちの家は私的な刑務所みたいなものだな。ただ、メイドがいて、美味しい料理を出してくれるからいいけど」

「なんだかタック・ラグゼみたい」

「君のお母さんのことも聞いていい?」私は彼にママのことはまだ話していなかったけれど、たぶん風の噂で耳にしたんでしょう。

「いいわよ」

「彼女はどれくらい刑務所に入ってるの?」

「彼女は5年の刑を言い渡されて、来年、仮釈放の資格が与えられることになってる」

「そしたら、どうするの?」

「正直言って、まだわからないの。どうしようかって考えるのも怖くて、まだ何も考えてない。彼女がそこから出られないっていう報告を聞くのも怖いけど」

「自分がどうしたいのかわからないってこと?」

「どっちに行ったらいいかわからない。選ばなきゃいけなくなりそうだから。ホームに帰ってママと暮らすか、それとも―」

「今はここが君のホームだろ」

「そうかな? 時々、ここが現実とは思えなくなるの。私は2ヶ月ここで暮らしてきたけど...」私は自分が本当はどう感じているのか、胸をうちを晒すのがためらわれた。それから気づいた。リュウもお父さんのことを私に打ち明けてくれたんだから、私も恥ずかしがってなんかいられない。「私は父のことをまだほとんど知らないの。エックス・ブラッツのみんなが言うには、私の父は...」私はまた躊躇した。あの言葉は、リュウの父親と彼が属している組織を指しているかもしれないんだった。あの言葉を口にしたら、リュウが嫌な気持ちになるかしら? 私はリュウの目を覗き込んだ。私を信頼してくれている目だ。洗いざらい話すべきね。「私の父がヤクザかもしれないって。もし彼が刑務所に入れられたら、私はどうしたらいいのかわかんない」

ふっと心が軽くなったようで、私はびっくりした。私のことを気にかけてくれる人に、悩みや恐れを声に出して話すだけで、こんなに気が楽になるものなんだ。

「彼が俺の父親と同じ種類の人間なら、彼にも優秀な弁護士がついてるはずだから大丈夫。家が私的刑務所になるくらいだよ」

私は歩くのをやめ、立ち止まった。「あなたもケンジ・タカハラがヤクザかもしれないって思ってるの?」

リュウは、私の顔に不安の色を見て取ったんでしょう。手を差し出してきて、私の頬をそっと撫でてくれた。「俺には何とも言えないよ。けど、これだけは知っておいた方がいい。日本のヤクザは、合法なビジネスだってしてるんだ。もし君のお父さんがヤクザだったとしても、即座に犯罪者になるわけじゃない。彼はきっと...多くの日本のビジネスマンと同じように、まっとうなビジネスをしているよ」

リュウの話を聞いていたら、そういうのはよくあることで、大した問題じゃないと思えてきた。彼にとっては、大した問題じゃないんでしょうね。彼の父親は起訴されたけれど、釈放された。日本式の「恥の刑務所」に家族ともども入れられたとはいえ、リュウの贅沢な暮らしは続いている。だけど、もし私の父が刑務所に入ってしまったら、私がケンジのことを知っていく機会がなくなってしまう。それに、私は両親ともに刑務所暮らしってことになっちゃう。しかも、二人とも何かの中毒者だなんて。あ、そっか。そしたら、私はまた家なき子だ。それとも、キミかミセス・タカハラが、私がここに残ってもいいって言ってくれるかしら? というか、そもそも私はそれを望んでいるの?

リュウは、私が抱いた不安を感じ取ってくれたようで、再び私の手を取ると、黙って歩き始めた。彼と手をつないで歩いていると、不思議と満ち足りた気持ちになった。恐れや不安は必ずしも声に出して打ち明けなくてもいいんだな、と思った。こうして私のことを大切に思ってくれる人がそばにいるだけで、すべての恐ろしい考えが蒸発し、紅葉の隙間に消えていくようだった。

数分後、公園の真ん中辺りに建っているカフェにたどり着いた。私たちは二人して、飲みたいものを同時に叫んだ。「ホットチョコレート!」

カウンター越しにホットチョコレートを二つ注文した。注文した品が出されるまでの間、私は公園を見渡し、近くに子犬の柴犬がいることに気づいた。華やかに着飾ったその柴犬は、ご主人様の横の地面にちょこんと座っている。首輪には名札が付いていて、アルファベットで「Kicho」と書かれていた。

「キチョーを撫でてもいいですか?」と私は、アメリカ人っぽい飼い主に聞いた。

「どうぞ」と彼女は言った。「彼女はとてもフレンドリーな犬なのよ。どんな人にも懐くわ」

私がしゃがみ込むと、キチョーはすぐにごろんと横になり、お腹をこすってほしそうにした。私がお腹をこすってやると、キチョーは嬉しそうに体を揺すった。しばらくお腹をさすっていると、彼女はもう十分満足したのか、体をひっくり返し、立ち上がった。そして、飼い主と一緒に小走りで去っていった。「バイバイ、キチョー!」と私が言うと、彼女は情熱を込めてグッバイと吠えた。彼女の飼い主は、私たちに手を振っていた。

「君は動物が大好きなんだ?」とリュウが私に聞いた。私たちはホットチョコレートを片手に、再び散歩道を歩いていた。ホットチョコレートは甘くて、極上の味だった。

「動物は大好きよ。メリーランド州では猫を飼ってたんだけど、私の親友はその猫ちゃんだけだった」リュウが私の肩に腕を回してきた。もうそれ以上言わなくていいよ、というサインのようだった。私の猫ちゃんの話はハッピーエンドじゃないって、話す前にわかっちゃったみたい。「ケンジに猫を飼いたいって頼んだんだけど、ダメって言われちゃった」

「じゃあ、君はあそこに行ったことある?」

「猫カフェ?」

リュウが私に向かって微笑んだ。そのスマイルよ! 彼の表情がこんなに明るくなるのを見たのは初めてだった。胸がキュンキュンと波打った。「そう、俺が言おうとしたのはまさにそれだよ」

「一回行ったけど、ゾッとして震え上がっちゃった。猫ちゃんたちがゾンビみたいに見えたから」

「じゃあ、日本の猫島のことは知ってる?」

私はまた立ち止まって、彼を見た。「私をからかってるの?」

「からかってなんかいないよ。日本の離島の中には、猫が占拠している島がいくつかあるんだ。たくさんの猫が自由に歩き回ってるよ。漁師が彼らに餌をやってるみたいだけど、基本的に島の主は猫たちなんだ」彼も歩くのをやめ、スマホでその島の写真をググった。「ほら見て」

「わあ」と私は声を上げてしまった。島の猫たちが徘徊したり、遊んだり、喧嘩したり、食べたり、それから、もちろん寝たりしている写真がいっぱいあった。お互いの体を温め合うように寄り添っている猫ちゃんもいる。私たちみたいなカップルなのかしら。「可愛い。私好みのこんな無人島があるなんて!」

私たちは再び歩き始め、私たちの手はすぐにしっかりつながれた。まるで磁石がくっつくように。

「ここが東京の中で、俺のお気に入りの聖域なんだ」とリュウが言った。「日本語では、紅葉谷(もみじだに)って呼ばれてる。谷みたいになってて紅葉が綺麗だろ」

私たちは、一段低くなった場所にたどり着いた。三階建ての建物くらいの高さに、さまざまな形の岩が積み上がっていて、紅葉に囲まれた渓谷ができていた。人工の滝が、カエデの紅い葉っぱの向こうで、小気味よく流れ落ちている。滝の下に目をやると、小川が流れていて、その小川には、絵になりそうなほど美しい橋が架かっている。―そこは穏やかで、ひっそりしていて、神秘的な場所だった。―視線を上げると、上空には東京タワーがそびえ立っていて、木々の向こうの街の喧騒を思い出させた。

私たちはベンチに腰を下ろした。今この場所にいるのは、私たち二人だけだった。「もう一度キスしてもいい?」とリュウが私に聞いた。

「どうぞ、して」と私はささやき返した。

彼の唇が私の唇に重なった。今度のキスは、さっきのバスでのキスより長くなった。より深いところまで絡め合い、相手が夢中になっているかなんて心配することもなく、お互いに夢中だった。これから先、彼と何度も何度もキスするんだろうな、という予感がして心地よかった。直観的にわかったのだ。これこそ、私が求めている人生だって。リュウがいて、シンプルで、気楽で、喜びに満ちた生活。彼と一緒に東京で、こういう心地よい人生を歩んでいきたい。突然、レジーへの怒りが薄まった。レジーの気持ちが、今の私には完全に理解できた。彼も私も、みなしごみたいなものだった。そして目の前に大切な人が現れたら、すぐにでも、その関係の中に深く飛び込みたくなるものなのね。たとえ彼の相手が、あのいい加減なスイマーだったとしても。リュウとキスしていると、洪水のように私の胸に誇らしさが押し寄せてきた。彼が私を選んでくれたことが誇らしかった。私は狂おしいほどの幸福感に溺れていた。

どうか、これが夢だなんてオチはやめて、と私は願った。



チャプター 37


絶対無理。リュウ・キムラとは付き合うなって言われたって、そんなことできっこない。

私たちの新しい関係をケンジに知られないように、秘密にしておくことは難しくなかった。彼は私に「リュウとは交際するな!」と命令を下したかもしれないけど、そもそも彼は私の周りにほとんどいないし、私の人生にも積極的に首を突っ込むほど興味はないみたいだし、東京に来たばかりの頃はそれが悩みの種でもあったけど、今は逆に好都合ね。

放課後のバスの一番後ろの席で、リュウとこっそりキスをすることができた。水泳の練習後、体を温めるための温水浴槽で、他の選手も一緒に温水に浸かっていたとしても、彼と水中でひっそりと手をつなぐことができた。リュウと私が物理的に一緒にいない時でも、起きている間はずっとメッセージを送り合うこともできた。ケンジは全然気づいていない。

二週間前のファーストキス以来、私たちは二人だけの泡の中に入り込んだ。そこはシャボン玉のように幻想的な世界で、とても居心地がよかった。彼のようになりたいと憧れる人と付き合えるなんて最高だったし、しばらくの間はこの関係はお互いに内緒にしておこう、と意見が一致したので、私は彼を独占することができた。それはびっくりするくらいセクシーな時間だった。見つめ合うたびに胸がときめき、メッセージが届くたびに嬉しさがこみ上げ、世界に内緒でキスをするたびに、極上の料理を堪能しているような気分だった。周りの誰も、私たちのセクシーな結びつきに気づいていない。

リュウと私は毎日ランチを一緒に食べていたけれど、ICSの校内でカップルのようにくっついて歩き回ったりはしなかった。わざわざ見せつけるような真似はしたくなかった。それはエックス・ブラッツが怖いからではなく、私たち二人だけの秘密の関係という背徳感がたまらなく気持ちよかったから。それに、くだらないスクールゴシップの話題の種にもなりたくなかったし。

「学校が冬休みに入ったら、東京以外の場所にも連れて行きたいな」とリュウが私に言った。私たちは銀座線に乗っていた。東京の中心部を抜けて、上野公園に向かう途中だった。午後は先生たちの職員会議があるとかで、クラブ活動もなしで、学校が半日で終わったので、リュウさんが私を観光に連れ出してくれたのだ。電車はそれほど混んでいなかったけれど、私は彼にぴたっとくっついて座っていた。

「東京以外でどこが好き?」と私は、彼の手のひらに私の親指を当てながら聞いた。

「京都は日本で最も美しい街の一つなんだ。まずはそこから旅を始めよう。中心地を離れると、どんどん静かな趣ある場所になっていく。そして、日本語で言うと、温泉旅館に泊まろう。温泉に入れる和風旅館のことだよ。東京で外国人として見るものよりも、はるかに日本的なものを体感できる。山があって、湖があって、―」

私は彼の腕のてっぺんにキスをした。「ライオンがいて、トラがいて...」

「オーマイ!」と私たちは同時に言って、それから笑い合った。

リュウと一緒にどこかへ行くことは、ファンタジーみたいにめくるめくような冒険だったけれど、私たちは二人とも、それがまさに、―実体のないファンタジーだということも知っていた。

上野駅で電車を降り、手をつないで公園の方へ歩き始めた。身が引き締まるような清々しい日で、いよいよ冬の到来を感じさせた。建物はクリスマスの飾り付けで引き立てられ、木々の葉っぱはもうほとんどなくなっていた。空気は肌寒かったけれど、まだ白い息が見えるほどではなかった。学校の制服の上に彼が掛けてくれた彼のジャケットを羽織っていると、ちょうどいいくらいの気温だ。学校以外では、こうして見ず知らずの人たちに私たちのラブラブっぷりを見せびらかすのが大好きだった。公園内を散策しているすべての人の目には、疑いようもなく、リュウと私はカップルに見えているでしょう。

「どうして迷うことなく、そんなにすいすい進めるの?」と私はリュウに聞いた。彼はプロの添乗員みたいに大きな通りを横切って、公園の入り口を抜け、最終的に池が見える小道まで私を案内してくれた。「あなたは全然地図とか見てないじゃない」

「父親のスキャンダルが発覚して、大変なことが起こりそうになった時、独り立ちしなきゃいけないなって思ったんだ。何でも自分でしようって決めたんだよ。両親も家も、洗いざらい調べられていたから、部屋に閉じこもって、悪い知らせが次々と舞い込んでくるのをじっと待ってるよりはと思って、外に出て、あちこち探索して回っていたんだ」

その頃、彼はまだ小学生だったはずだから、子供が一人で公共の交通機関を利用していたことに驚いた。「東京は凄く安全な街みたいで素晴らしいね。私は14歳になるまで、一人でワシントンDCの地下鉄に乗るなんて、ママが絶対に許さなかったわ。まあ、ちょうどその頃、ママも洗いざらい調べられていたから、私が一人で電車に乗って、ニューヨークとかに行ったとしても、ママは気づかなかったでしょうけどね。ケンジも私がどこへ行こうと、全然気にしてないみたい」

「君と俺の共通点がそんなことなんて、最悪だな」とリュウが言った。

「同感」と私は言った。「でも日本人の親がみんな、あなたの親やケンジみたいな人ばかりじゃないでしょ?」私はアケミの両親について考えていた。彼らは日本の伝統的な両親って感じではなかったから。

「俺たちの親は、間違いなく例外だな。日本人はとても伝統的で、家族を重視するんだよ。ICSみたいな学校にいると、考え方も歪んでしまう。特権階級の裕福な家庭が多いから」

「この学校にいると、なんか現実感が湧かないのよね」と私は同意を示した。

「たしかに」とリュウが言った。

私たちは池が広がっているエリアにたどり着いた。リュウが言った。「ここは不忍池といって、 夏になると、水面が緑の植物で覆われて、綺麗な蓮の花が咲き誇るんだ。凄く壮観な眺めだよ」





私は彼の手を握りしめた。「あなたって物知りっていうか、オタクね。自分で気づいてる?」

彼が私の方を振り向いて、微笑んだ。青いメッシュの入った黒髪がさらっと落ちて、彼の顔の側面にかかる。「褒め言葉だろ? お世辞はやめてくれ。それより、ボートに乗りたい?」

「うん、乗りたい!」

私は大きなボートに乗って、川を下るようにして町中をめぐるのかと思ったけれど、レバーが回転する入り口を通り抜けると、池のほとりには、レンタル用の小さなボートが並んでいた。

「やだ!」と私は言った。ボートは白鳥の形をしていて、子供用の屋根付きワゴンみたいに小さな乗り物だった。その安っぽさに、思わず目を見張ってしまう。

「いいから!」と彼が言った。

彼がレンタル料を払ってくれて、私たちはピンクの白鳥が翼を広げた形のボートの中に足を踏み入れた。「あなた、これ用の運転免許持ってるの?」と私はからかってみた。

「スワン用のA級ライセンスを持ってた気がする」彼は冗談を言うと、エンジン音を真似て、ブロロロロと言いながら、両足でペダルをこぎ出した。私たちは岸辺からじわじわと離れ、亀のようなペースで池の中央へと進んでいった。公園の木々に囲まれ、遠くに高層ビル群が見える池の水面で、私たちはのんびりとスワンボートに揺られていた。

「あなたって運転も上手ね。完璧だわ」と私は彼に言った。池の真ん中辺りまでたどり着き、私たちはペダルをこぐのを一旦やめた。

彼が私の方へ身を乗り出してきて、私にキスをした。「いや、君こそ完璧だよ」と彼がささやいた。

私はケンジにリュウとは付き合っちゃいけないって言われていることを、まだリュウに話していなかった。

これからも絶対に言わない。

なぜなら、このうっとりするような、魔法がかった男の子と会うことは禁じられていないから。


・・・


「家に帰りたくない」と私はリュウに言った。彼が私をタック・ラグゼのエントランス前の私道まで送ってくれたんだけど、私は彼と離れたくなかった。私は彼の胸に頬を寄せ、彼の両腕に包まれていた。すぐそこに私の住む高層ビルが建っているけれど、私は気にしなかった。雲で見えないくらい上の方の階には、摩天楼の王様がいるはずで、彼がこんなところを見たら、さぞかし憤慨するでしょうね。

「俺もだよ」

「明日も遊びに行かない?」と私は聞いた。明日は土曜日だから、私たちは一日中一緒に過ごせるわ。

「そうしよう。そうだ、一緒に俺の田舎のおばあちゃん家に行こう。日曜日の方がいいかな」

「やった! 日曜日が楽しみ!」

私たちは私道の端まで歩き着いてしまった。「上の階に上がったらメールしてね」とリュウが言った。

「エレベーターに乗ったらすぐメールする」

「俺も大通りに出たらすぐにメールするよ」

私たちは二人して声を上げて笑った。手はまだ繋いだままだった。そのままキスする流れだったんだけど、タック・ラグゼの従業員がたくさん行き来している中で、キスをする度胸まではなかった。私はキスの代わりに、リュウの肩をそっと撫でて、言った。「バイバイ。じゃあ、5分後にメールするね」

リュウは、彼の美しい顔にかかっていた青いメッシュの入った髪を手でさっと横に流すと、「またね」と言って、振り向いた。彼が遠ざかっていくにつれ、私の胸の鼓動は徐々に静まっていった。

ふと見ると、タクシー乗り場にキミ・タカハラが立っていた。私はリュウに心底夢中になっていて、周りが見えていなかった。いつからそこにいたのだろう? ベルボーイが笛を吹いて、「タクシー!」と声を張り上げた。

キミが私に聞いた。「今の子、サトシ・キムラの息子さんでしょ? 彼に送ってもらったの?」

「そうよ!」リュウとめくるめくような時間を過ごしてすでにくらくらしていたところに、追い打ちをかけるようにキミが現れ、彼女の機嫌を損ねてしまうのではないかと心配になり、頭がオーバーヒート寸前だった。私とリュウの関係は本物だし、かけがえのないときめきをくれる。だけどタック・ラグゼで、それを吹聴して回るつもりはなかった。あえて隠すつもりもないけれど。


・・・


ペントハウスに帰ってみると、まだ夕方の5時だというのにケンジがいたから、面喰らってしまった。平日は夕食の時間まで彼を家で見たためしはなかった。一緒に食事をした後も、私をここに送り届けて、彼はさっさと仕事に戻ってしまうのが常だった。

彼は「おかえり」も言わずに、私の顔を見るなり、強い口調で言った。「サトシ・キムラの家族がここに出入りしてるって思われたら困るんだ。さっき妹からメッセージが来たよ。あの少年をここに連れて来るのはやめるように、俺からきつく言ってくれ、ということだ。彼はお前の彼氏なのか?」

靴をスリッパに履き替えてからリビングに入り、ソファーに座ると、ケンジが座っている横のサイドテーブルにスコッチのボトルが置かれているのが目に入った。彼の手にはグラスが握られている。

まったく。ファックって感じね。

オーケー。本当は息せき切って思いの丈をぶつけたかったけれど、ケンジがそこまで思い詰めているのならと、私は冷静に振る舞うことにした。

私は正直に答えた。「私たちは親友よ。私は彼のことが凄く好きだし」

「彼と友達になるのは危険すぎるんだ。彼とは付き合うなって言っただろ」

私は怒りを爆発させそうになったけれど、なんとかこらえ、声を平静に抑えつつ、私の言い分をしっかりとした口調で話した。「誰と付き合っていいとか、誰と付き合っちゃだめとか、そんなことは言わせないわ。私は自分が友達になりたい人と友達になるし、付き合いたい人とデートする。あなたが気に入るかどうかは関係ない。それに、父親の罪を息子のリュウになすりつけるなんて、そんなの馬鹿げてるわ」

ケンジはグラスに入ったスコッチを一気に飲み干した。

まったくもう。ファック、ファック。百万兆のファック!

リュウをここに連れて来るな、と言われたことには腹が立っていた。だけど、それ以上にケンジが手に持つお酒の方が気がかりだった。そっちの方がよっぽど大きな問題だ。またお酒を飲み出したら、闇の中から野獣が戻って来ることを私は知っている。

ケンジは言った。「なぜニック・ズホノフみたいな子じゃ駄目なんだ? 保護者会の夜、いい感じだったじゃないか。彼がお前を見る目は、」あら、あんなに早く帰っちゃったのに、そんなところは見てたんだ? 「あれはお前のことが好きな目だぞ」

「私は彼を好きじゃないのよ。それにもう、彼とかイモジェンたちに私は締め出されちゃったから、もう友達でもないんだよ」

ケンジは首を横に振った。「とてもがっかりだよ」なぜ?と締め出された理由も聞かずに、彼は私に落ち度があったんだと決めつけたらしい。

ついにプチンッと切れてしまった。「私は一度だけニックとキスしたわ」と私は打ち明けた。「でもニックの意図は、私が好きとかそういうんじゃなかったのよ。アレクセイ・ズホノフの息子は、女の子を手玉に取って、レイプするゲームに夢中だって知ってた?」

「そんなひどいこと言うもんじゃない!」ケンジはよだれみたいな唾を飛ばしながら言った。彼は君を傷つけようとしたのか? そういう質問は彼の頭には浮かんでこないみたいだった。信じられない。私がママにこのことを打ち明けたなら、たとえ彼女が常軌を逸している時であっても、すぐに警察を呼んで、ニックを逮捕させるわ。中毒にやられていたって、子供を守ろうとする母親の本能は健在なのよ。ケンジにはそれが全くなかった。私も唾を飛ばしながら、そう言い返したかったけれど、私に言い返す隙も与えず、彼はこう付け加えた。「お前がここで暮らすのは、良くないかもな」

彼が酔っ払って、あの憎たらしいニック・ズボノフの肩を持っていることに、私は憤慨しているのかしら? それは定かではなかったけれど、確かなことがあった。今この瞬間のケンジは、光り輝く鎧を身にまとった私が憧れる騎士ではないということだ。彼の富とカリスマ性は、ただ単に彼の本当の姿を隠す仮面だったんだ。真の彼は、ただの臆病者よ。

しかし私は、酔っぱらいで臆病者であっても、彼から離れたくはなかった。せっかくここに落ち着き始めたばかりなのに、エックス・ブラッツには破門されたといっても、学校ではまずまずうまくやっている。アケミとは仲良くやってるし、春先には水泳の公式大会も始まる。それに、リュウがいる。リュウ、リュウ、リュウ。

私にはここを追い出される覚悟はできていない。またここも追い出されちゃうなんて。まあ、私の人生そうなっちゃうかな、とも思うけど。

「どこへも行きたくないわ」私は思いの丈をそのまま声に出した。本音を隠して、頭に浮かぶあれこれを取捨選択するのにうんざりしていた。「たとえあなたがいい加減な父親であっても、仕事や体裁ばかりを気にしていても、娘を全然知ろうとしなくても、哀れにもその娘は、あなたの人生の一部になりたいとこんなにも思ってるのよ!」それを言うのは心が痛んだけれど、ふっと心が解放された感じもあった。ありのままのすべてを言えた気がして、すっきりした。今のケンジは酔っ払っているから、どうせ私が言ったことなんて覚えていないでしょうけどね。

彼はスコッチをもう一杯グラスに注ぎ、飲み干した。彼の顔は赤みを帯びていた。お酒の衝撃を吸収した赤みなのか、私の発言の衝撃ゆえなのか、その両方かもしれないわね。その時、彼のスマホが鳴った。彼はメッセージを見ると、おもむろに立ち上がった。「俺は仕事に戻らなければならない。君の選択肢については、明日また話し合おう」

ケンジが部屋を出ていった。

勘弁してよね。

私は日本を離れるつもりなんてなかった。使い捨ての娘だなんて御免だわ。



チャプター 38


部屋に戻り、リュウにメッセージを送ろうとスマホを見たら、アケミから「すぐに生け花カフェに来て」というメッセージが何通か入っていた。エレベーターで〈生け花カフェ〉に行ってみると、店内は夕食を楽しむ常連客で賑わっていて、店の中央に置かれた巨大な生け花をぐるっと囲むソファーのようなベンチに、アケミが座っていた。彼女の隣にはテイクアウト用の食品容器が重なって置かれている。

「どうしたの?」と私は彼女に聞いた。彼女は悲しそうにも、動揺しているようにも見えた。

「私のメッセージを見てくれてありがとう。あなたが来てくれて凄く嬉しいわ。これから飛行機に乗るから、テイクアウトの食べ物を買いに来たの。もうすぐ私の母がここに来るわ。そしたら私たちはここを出て行くの」

「どこへ行くの?」

「東京を離れるの」彼女は言葉をしぼり出すように、震える声で言った。今にも泣き出しそうな顔をしている。

「週末の旅行?」

「違うわ。ブラジルに行って、そこで住むの。母の兄の家があるから」

そんな! 「今日? っていうか今すぐ? どうして前もって言ってくれなかったの?」

「私も急に知らされたのよ。学校から帰ってきたら、母が荷造りしていて、すぐにここを出て行くよって言われたの。父が仕事でトラブルを起こして、銀行に預けてある彼のお金は全部凍結されちゃって、もうすぐ警察が彼を逮捕するって」

なんてこと! 「何をしたの?」

アケミはリュックサックから英字新聞を取り出すと、私に手渡した。折りたたまれた新聞を開いてみると、一面にこう書かれていた。日本の当局が闇の帝王タケオ・キノシタを起訴。マネーロンダリングと麻薬密売の容疑。

オーマイガー!

私はアケミの父親に何度か会ったことがあった。彼はかなり年を取っていて、―少なくとも、別々の都市に複数の家族を持っている男にしては年を取っていて、「闇の帝王」って感じではなかった。信頼のおけない中毒者の親が二人もいるって大変よね。かわいそうなアケミ。「凄く残念だわ、アケミ。あなたは知ってたの?」

彼女は肩をすくめて、言った。「知っていても知らないふりをしていた、みたいな感じかな」私は完全に理解できた。野獣がママの人生を乗っ取って、私の人生にも手を伸ばしてきた時、私も同じような気持ちだったから。最悪の結末がやって来ることはわかっていたけれど、それでも私たちは大丈夫、なんとかなるって、なるべくそう思おうとしていた。そして、今の私もたぶん同じ。ケンジとの関係が終わってしまうことを知らないふりをしている。

アケミの母親が旅行鞄を抱えてやって来た。店の外ではベルボーイが彼女を待っていて、大きなスーツケースを四つ持っている。彼女はアケミに日本語で話しかけた。それから、アケミの母親が私に向かって初めて微笑んでくれた。いつもむすっとすました顔をしていたから、彼女がそんな笑顔を持ち合わせているなんて知らなかった。―また彼女の笑顔を見られるかはわからないけど。

私は自分の気持ちを抑えられなかった。日本人はハグなんてしないんでしょうけど、私は両手を広げてアケミに抱きつき、力いっぱい抱きしめた。「あっちに着いたらメールしてね。いい? これからも連絡を取り合うのよ。絶対よ」

涙がアケミの頬を伝っていた。彼女はうなずいた。「ずっと友達でいようね」

「あなたの人生から私を追い払うことなんてできないんだから」私は熱いものがこみ上げてきて、うまく言葉を出せなかった。

彼女の母親が手を伸ばし、アケミは立ち上がって彼女の手を取った。「さようなら、エル」と彼女が言った。二人はベルボーイの後についてエレベーターまで歩いて行き、そして、アケミは行ってしまった。

思えば、私のママの急転直下も、マサおじさんの到来も突然だった。だけど、免疫なんて全然ついてなくて、私はせっかくできた親友との突然の別れに、深い悲しみに暮れた。東京での特権的な生活がこれからも続けばいいな、とか考えていたら、一気に悲しみの中に突き落とされてしまった。そうだ。今日は私の人生で最も輝かしい日になるはずだったんだ。私はキュートなリュウが好きで、リュウも私が好きだってわかって、一緒に将来を夢見ながら、まさに夢見心地でいたんだった。今、私の周りですべてが崩れ落ちてきたように感じ、私はベンチに座り込んでしまった。私の沈み込んだ気持ちは、デーブ・フラーハティが近づいてくるのが目に入ったところで、底まで落ち切った。彼は〈タック・ラグゼ〉の従業員で、どんな仕事でも引き受ける何でも屋さんだ。デーブはアケミがベンチに置いていった新聞記事を見ると、おぞましいものを見るように顔をしかめた。「わけわかんないよな?」と彼が言った。

「そうね」と私は言った。彼女の父親がどんな罪を犯したとしても、そのせいでアケミのボートまでひっくり返されて、彼女の人生が転覆してしまうなんて、わけわかんないし、不公平だし、絶対に間違ってる。

私の底まで落ち切った気分を、さらに地下まで掘り進めるかのように、デーブが言った。「キミ・タカハラから、さっきコンシェルジュデスクに電話があったんです。彼女は君を探していて、僕はここで君を見かけたと言っておきました。ミセス・タカハラのスイートルームに来てほしいそうです」

いいでしょう。もうなんでも来いよ。私の人生、どうせなにもかもがくだらないたわごとなのよ。私は立ち上がった。何を言われるかはなんとなくわかっていた。いつの間にか、嵐は台風に変わっていた。


・・・


ミセス・タカハラのアパートメントに入ると、リビングのテーブルにはすでに高級な陶器に入ったお茶が出されていて、美しい形をした小さな和菓子がトレイに並べられていた。まずはティーパーティーを開いて女の子を喜ばせておいて、その後、お腹を空かせたライオンのいる檻にその子を放り込もうとしているかのようだ。―もちろんその子は私なんだけど。

ミセス・タカハラは女帝然としたたたずまいで、彼女専用の一人掛けの椅子に座っていた。ソファーを挟んで向かい側の椅子にはキミが座っている。私は促されるまま、真ん中のソファーにちょこんと座った。目の前のお茶や和菓子に手を出す余裕なんてなかった。手が震えてお茶をこぼしたり、口に入れた和菓子を吐き出してしまうんじゃないかと思うくらい緊張していた。

キミが言った。「来てくれてありがとう、エル。そろそろ本音で話し合った方がいい頃だと思って」

私は息を呑んでうなずいた。ミセス・タカハラは湯吞みに口をつけてお茶をすすりながら、話はキミに任せている。

「今晩、あなたはケンジに会ったんじゃない?」

「はい」と私は言った。

「その時、ケンジはお酒を飲んでいたんじゃないかしら。今夜だけだったらまだいいんだけど、残念ながら、―」

「彼は過去にアルコールの問題を抱えていたんですよね」と私は言った。「でも、それは過去の一時的な過ちであって、今はもう大丈夫なんでしょ!」なんで私は彼をかばっているんだろう、と自分でも呆れてしまう。彼は私を守ろうともしていないっていうのに。

キミが首を横に振った。「過去の過ちじゃないのよ。彼は数週間前から、また隠れて飲んでるみたいなの」

「どうしてそれがわかったの?」と私は聞いた。

ミセス・タカハラが口を開いた。「従業員のみなさんにお金を払って、彼を見張ってもらい、報告させました」彼女の性格を考えると、完全に納得がいった。自分の息子をお金で見張らせるなんて、まさに彼女がしそうなことに思えた。

キミが言った。「もう気づいてると思うけど、今タック・ラグゼに政府の監査が入っていて、みんなピリピリしてるの。私が思うには、兄には今回のプレッシャーは大きすぎたようね」

二人とも本音で話している様子だったので、私も本当に知りたかったことを聞く絶好のチャンスだと思った。「彼ってヤクザなの?」

ミセス・タカハラの目がぎろりと光り、私に穴が開くんじゃないかと思うくらい、じっと睨んできた。そして彼女はキミと日本語で話し始めた。二人の会話は早口で、かなり熱を帯びている。ようやくキミがこちらを向き、言った。「お母さまは、それはちょっとぶしつけな質問だと仰ってますけど、答えはノーです。ケンジはヤクザではありませんよ。ただ、彼はキノシタさんと不適切な金融取引をしていたんです。キノシタさんが起訴されたとなっては、タック・ラグゼも無傷ってわけにはいきません」

「うわっ」としか言葉が出てこなかった。ケンジも一緒に犯罪者になっちゃうってこと? 共犯者とか?

キミが言った。「ケンジは少しの間、休職する必要があるわね。不祥事に対処して、それから彼自身の人生を見つめ直して、整理をつけるために」彼女はミセス・タカハラを見て、何かを促すようにうなずいた。

ミセス・タカハラがサイドテーブルに手を伸ばし、バインダーを手に取ると、それを私に差し出してきた。「あなたのアメリカでの選択肢よ」と彼女が言った。

私はそのバインダーを受け取って、開いてみた。ラミネート加工されたアメリカの寄宿学校のパンフレットがたくさん挟まっていた。

要するに、ケンジは酔っぱらいのペテン師だったってことね。そのせいで、私はまた家なき子に逆戻りか。

イチかバチか、彼女たちに思いの丈をぶつけてみることにした。どうせ私には失うものなんて何もないでしょ? 私はミセス・タカハラをまっすぐに見て、彼女が喜ぶだろう言い方を心がけながら話すことにした。好きでもない相手に、緊張で心も体も爆発しそうだっていうのに、ふつふつと湧き上がる怒りを抑え、自分を殺してまで、私は言った。「お願いします。ここにいさせてください。私は今の学校が好きだし、ここでの生活が大好きなんです。あなたのおかげで贅沢な暮らしができていますが、そのことを言ってるわけではありません。私には日本人の血が流れているから、私を生んでくれた日本ともっとつながりたいんです。日本の労働倫理、秩序や義務感、人々の優しさ、そういったものに私は感服します」あなたには感服しないけどね、とは付け加えなかった。「迷惑はかけないと約束します」リュウ・キムラと付き合っちゃだめとかいう、わけのわからない命令には従わないけどね。もっと彼のことをちゃんと知ってちょうだい! 「もっと自分のルーツである文化を知る機会が欲しいんです。お二人のことももっとよく知って、お二人の人生の一部になりたいと思っています」

上辺だけ取り繕った下手な口上に聞こえたかもしれないけれど、これが私の本心でもあった。

ミセス・タカハラとキミがまた日本語で話し出した。ちくしょう。やっぱり日本語がわかるようにならないとだめだ。それから、キミが私に言った。「日本の文化や私たち家族とつながりたいと思ってくれて感謝します。あなたの考えはとても立派よ。ただね、タイミングが悪かったの。これから私たちはビジネスの危機にもっと集中しなければならない。あなたが望むような家族にはなれないの。そのパンフレットには、メリーランド州とペンシルバニア州の良い学校がたくさん載ってるから、好きなところを選んでいいわ。お母様の近くにいられるのよ。もちろん学費は私たちが払います。お母様に面会に行けるように、外出許可も取ってあげます」

それが彼女たちのせめてもの罪滅ぼしだということは私にもわかった。しかし、「それはそちらの都合を私に押し付けているだけですよね」と言おうとしたら、その前に激しくドアが開いて、ケンジが玄関から入ってきた。彼はスリッパに履き替えもせず、靴のままずかずかとリビングに入ってきた。私に近づいてくる前から、すでに彼の吐く息からアルコールの匂いが漂っている。彼の髪はくしゃくしゃに乱れ、シャツとネクタイはだらしなくゆるみ、目は真っ赤に充血していた。彼は地獄から這い上がってきたように見えた。1時間ほど前に会った時は、レベル5の酔っ払いだった感じが、今はレベル8か9までいっちゃってる。

「なんだよ、俺抜きで全員集合かよ!」と彼が英語で言った。

ミセス・タカハラが勢いよく立ち上がって、日本語で彼を叱りつけた。

ケンジは何も言い返さず、しばらく母親の話を聞いていた。それから彼は私の方を向いて、言った。「彼女の言う通りだな。俺はあまりにも長い時間、お前と離ればなれだった。もう手遅れかもしれない」

「そんなことないわ!」私は泣き叫んだ。これほどまでに裏切られたと思ったことは今まで一度だってなかった。あの野獣がママを食い尽くし、家まで失って、彼女の不注意がハッフルパフを死なせちゃった時だって、ママが逮捕されて刑務所に送られた時だって、おかげで私が里親の家に送られることになった時だって、こんな屈辱は味わわなかった。私は死にたくなるほど恥ずかしかった。―娘として、こんな彼が恥ずかしい。

ミセス・タカハラが英語で言った。「ケンジ、あなたの娘をここにおいていてはいけません。あなたの存在が彼女のためになりません」

キミが言った。「残念だけど、私も同じ意見です。ケンジがあなたの人生の一部になりたいという気持ちが痛いほど伝わってきたから、彼にこの実験を勧めたんだけど、やっぱり失敗だったみたいね。ケンジには明らかに、父親になる資格も能力もないわ」

「私は実験台じゃない!」

ケンジがソファーに腰を下ろし、両手で頭を抱えた。それから私を見上げて、言った。「二人の言う通りだよ、エル。君はアメリカに帰るべきだ」



チャプター 39


絶対に嫌だ。

私は日本を離れる覚悟はできていなかった。

リュウと離ればなれになることだけは嫌だ。

16年間音信不通だった父がどこからともなく現れて、私を呼び寄せたと思ったら、今度は出て行け? そんな勝手なことは許さない。私のろくでなしの父にも、彼の家族にも、私の行き先を決めさせはしない。私以外の誰も、私の運命の設計者にはなれない。私が自分の行き先は決める。ただ、長期的に考えると、その場所がどこなのかわからない。でも短期的には、とりあえずタック・ラグゼ以外の日本のどこかに行きたかった。

私はリュウにメールした。私はここから出ないといけない。何もかもがめちゃくちゃになっちゃった。彼から返信が来た。どこへ行きたい? 私は答えた。東京から遠くて静かなところならどこでもいい。15分ほどして彼から再び返信が来て、東京駅で待ち合わせることになった。彼がある計画を考えてくれたらしい。

「俺たちって駆け落ちするカップル?」駅のホームでリュウに駆け寄ると、彼が聞いてきた。

「そうかもね」と私は言った。

彼は私を引き寄せて、そっと抱きしめた。「いったい何があったの?」

私たちは電車に乗り込み、今日立て続けに起こった、アケミのこと、それからケンジのことを話した。私たちがどこへ向かっているのかわからなかったけれど、彼と一緒ならどこでもよかった。

電車の中で一息ついてから、私はマサおじさんにメールを送った。私は大丈夫だから、心配しないで。私もどこへ行くのかわからないけど、友達と一緒だから大丈夫。

ケンジにこういうメールを送る義理はない。私が何をしていようが、どんな状況だろうが、彼に知らせる必要はない。だけどマサおじさんは、私がいなくなったと聞けば、動揺しちゃうと思うから、私は全然大丈夫だって知らせて安心させてあげたかった。実のところ、私の気持ちはあまり大丈夫ではないんだけど。それでも今、私の隣には、私のことを気にかけてくれる人がいる。リュウがそばにいてくれるから、きっと大丈夫。

電車が東京からどんどん遠ざかっていく中、私はリュウの肩に頭を乗せて、そのまま眠り込んでしまった。何時間寝ていたのかわからないけれど、リュウの声に目覚めると、窓の外は夜が明けつつあった。「もうすぐ降りるよ」と彼が言った。

私たちは石巻という駅で電車を降りた。「これからどこへ行くの?」と私は彼に聞いた。

「タクシーでフェリー乗り場まで」と彼は言った。

タクシーに乗ると間もなくフェリー乗り場に着き、私たちは人魚姫の絵が描かれた船に乗り込んだ。「それで私たちはどこを目指してるの?」と私はリュウに聞いた。

「田代島という小さな島があるんだ。君をどこへ連れて行こうかわからなくて、悩んでいたら急に閃いたんだ。逃避行といっても、俺たちが現実的に行ける場所、猫島だよ」

「嘘でしょ! 信じられないわ」

「何百匹という猫があちこちうろついてるから、それを見れば信じるよ」

そこはまさに私が潜在的に望んでいた逃避行の目的地だった。東京の窮屈な雑踏を抜け出して、自由気ままに羽を伸ばせる場所。私には考えるべきことが山積みだったけれど、一旦すべて保留にして、頭を空っぽにできるところ。早朝のフェリーの潮風は、冷たくて気持ちよかった。―眠気も波のまにまに吹き飛んでしまった。私は歓迎されている気分だった。石巻から40分ほどの船旅を経て、私たちは仁斗田(にとだ)港にたどり着いた。リュウが言った。「君が寝ている間に、スマホでこの島について調べたんだ。田代島には二つの小さな集落があって、仁斗田はその一つだよ。島の人たちがたくさんの猫の世話をしている。人数比は6対1で猫の方が多いらしい。学校もレストランもない。お年寄りと猫がいっぱいいるだけ」

「私はすでにここが大好きになっちゃった」

フェリーから降り、桟橋を渡って岸辺に足を踏み入れると、船の到着時間を心得ているらしい猫ちゃんたちの群れが出迎えてくれた。桟橋で体を伸ばしている猫、朝日を浴びてのんびりしている猫、じゃれ合ったり喧嘩したりしている猫、自分の体を舌できれいにしている猫。三毛猫、トラ猫、首元だけ白いタキシード猫、赤茶色のジンジャー猫、黒猫。船場の端には、木箱を改良して作ったらしい毛布で覆われた小さな猫の住まいがあり、しっぽがシェルターの中から何本かはみ出ていた。道路沿いの建物には、壁に猫のグラフィティーアートが描かれたものもある。

夫婦らしい日本人の観光客も船を降りた。彼らは私たちよりも慣れている様子で、―かつお節を持参していて、猫ちゃんたちに配り始めた。道路脇の小屋で売り物の魚を仕分けしていた漁師さんも、朝食の時間なのか、猫にごちそうを与え始めた。漁師さんが小魚を放り投げると、幸運にもそれにありつけた猫は、口の両端から魚の頭と尻尾を突き出したまま、私たちのそばをのしのしと歩いていった。

私はしゃがみ込んで手を差し出してみた。人懐っこそうな、まだら模様のキャリコ猫が私に近寄って来て、私の指の匂いを嗅ぎ、私の匂いを気に入ってくれたのか、私の足に頭を擦り付けてきた。「ごめんね、おやつは持ってないのよ」と私は猫ちゃんの頭を撫でながら言った。

「君もお腹空いた?」とリュウが聞いてきた。

「そういえば、ぺこぺこ」昨夜あんなことがあって、頭に次々といろんなことが去来して、ストレスで食欲なんて失せてしまったと思っていたけれど、自分でもびっくりするくらいお腹がぺこぺこだった。

「俺もぺこぺこ。この島にはお店が一つと、自動販売機がいくつかあるだけだから、今のうちに食べ物を買っておいて、それから島をめぐろう」

島唯一のお店だという〈鎌仏商店〉の店先は階段状になっていて、さらに多くの猫たちが集まっていた。そこで私たちは水、ポテトチップス、お菓子、おにぎりを買った。私たちは猫ちゃんたちの集まる店先の段差に腰を下ろして、ひとまず腹ごしらえをしてから、島を見て回ることにした。ケンジは私の居場所を気にしているかしら? 心配してるかな?

細い道と遊歩道が森林に覆われた島の内部へと続いていた。私たちはわかりやすそうな遊歩道を進んでいくことにした。林冠に覆われた木立の下には、人の姿はほとんど見えなかった。猫たちがそこかしこで木々の間を駆けずり回っている。私はすっと心が落ち着くのを感じた。幸福感に包まれる。東京での地獄のような騒動から抜け出して、私は猫島を歩いている。隣には最高にいかした男の子がいて、私の手をしっかり握ってくれている。ぺちゃくちゃとむやみやたらに喋ってきて、心の静寂をかき乱したりしない人。私と同じように、この静寂の価値がわかっているのね。鳥のさえずり、木々の揺れる音、猫の鳴き声、―頭の中の不安を紛らわすのに最適な静かな音。タック・ラグゼで今何が起きているのかなんて考えなくて済む。

遊歩道は上り坂になり、坂道を登っていくと、高台に建てられた家が何軒か見えた。お昼頃、私たちは「猫神様」を見つけた。―それは猫の神社のようで、広めの寝室くらいの屋外スペースが赤い柵で仕切られている。大きな神社と同様に、ちゃんと鳥居もあった。両脇には赤い旗が立っていて、旗には日本語で入り口を告げる文字が書かれているようだ。鳥居をくぐると、岩がテーブルのように二段になって置かれていて、その上には訪れた人たちが残していったお供え物がたくさん並べられていた。―猫の顔が描かれた石、招き猫の像、それからもちろん、ハローキティの人形もたくさんあった。

リュウが猫神社の説明が書かれたプラカードを訳してくれた。「この神社は、岩が落ちてきて死んだ猫が安らかに眠る場所だって。漁師が猫たちを祀って建てたそうだよ」

「ここで結婚式を挙げよう」と私は冗談めかして言った。その場所はうっとりするほど神がかっていた。

リュウが言った。「来賓のみなさんにはマグロの缶詰と、牛乳をボウルに入れて、おもてなしだね」私は思わず吹き出し、ガクンと膝から崩れ落ちそうになった。

「それと、猫が好むハーブ味のウェディングケーキもね」私たちは顔を見合わせ、二人して恐怖におののく顔をした。「それは気持ち悪すぎるわね。ごめん」

私たちは再び登山道に戻った。島の頂上にたどり着くと、島を取り囲む海が一望できた。しかし、一番の見所は、最高のオーシャンビューを見下ろす猫の形をした建物だった。赤と白の縞模様のコテージが何軒か建っていて、行儀の良い猫のように、並んで絶景を見下ろしている。屋根は耳の形をしていて、目の代わりに窓が二つ付いていた。ドアには鼻と口が描かれ、ドアの横にはひげも描かれている。

「このコテージは島で唯一の宿泊施設だよ」とリュウが言った。「ベッド代わりに畳の上に布団を敷いて寝るんだ。あとお風呂もある。それだけだけど、それで十分だろ」

「今夜はここに泊まれるの?」

「今の季節は閉まってるから無理だね」

「現実世界に戻らないといけないってこと?」

「そうなっちゃうね」彼は私の手を握りしめた。「でも数年後、ここが開いてる季節に戻ってこよう。新婚旅行で」とリュウが冗談めかした。


・・・


「いつから私のことを好きだって思ったの?」と私はリュウに聞いた。私たちは再び人魚姫のフェリーに乗り込んでいた。石巻に戻って、そこで一晩過ごせるユースホステルを探すつもりだった。船を降りるまではスマホの電源を入れないことにした。メッセージを確認したり、そういう現実世界へのアクセスはできる限り先延ばしにしておきたかった。タカハラ家の人たちは私がいなくなったことに気づいたのかどうか、それさえもわからなかった。

私たちは船の一番後ろの席に座り、夕暮れの風に吹かれながら、お互いに体を寄せ合うようにして温め合っていた。

「君がICSに転校してきた初日からだよ。ベントレーのドアが急に開いて、君が俺を殺そうとした時から。君はいつから?」

「ICSのプールで泳いだ最初の日から。水中から急にあなたが顔を出して。俺に対抗できるスイマーがやっと現れたか、みたいなことを言った時から」

「そんなこと言ったか?」

「言ったわよ!」

「それで好きになったのか?」

私はその答えとして彼にキスをした。東京に戻ることを考えると、私の人生はすべて間違っていたように思えてきて憂鬱だったけれど、すべてが正しかったと私を陽の光の中に引き戻してくれるのは、このリュウ・キムラとの熱いキスだった。

黄昏の中、ひとしきりキスをした後、唇を離して、リュウが真剣な表情で言った。「お父さんが君をアメリカに送り返そうとしたら、どうするの?」

「わかんない。マサおじさんに相談することになるかな。彼ならきっと助けてくれる。うん、絶対なんとかしてくれる。日本に来る前の生活には、どうしたって戻れないもの」

「そんなにひどかったの?」

「良くはなかったわね。ママの具合が最悪の時は、私がママの財布からお金をくすねて、食べ物を買っていたりもしたから。そうしないと、二人とも食べ物にありつけなかったのよ。でも里親の家はもっとひどかったわ。私のことを忌み嫌っている他人と暮らすわけだからね。汚い家、意地悪な人たち。タカハラ家の人たちは、私をアメリカの立派な全寮制の学校に入れようとしてるみたい。里親の家よりはましかもしれないけど、私はそんな寮生活も望んでない。きっと寂しくなるわ」

「俺が君を行かせたりはしないよ」

「自分のことは自分でやれるから大丈夫よ」

彼が私を守ろうとしてくれるのは有り難かった。でも結局、いつもそうだけど、私を守れるのは私自身しかいないことも知っていた。私の10代の人生は、ずっとそうだったから。

「君が自分でやれるのはわかってるけど、俺も君のためにここにいるんだからな」

私たちはもう一度キスを交わした。夜の帳が降り始めた頃、フェリーが石巻に到着した。

私たちが船を降りると、フェリーターミナルの到着口でマサおじさんが待っていてくれた。



チャプター 40


「仕事で大阪にいたんだけど、キミから電話があって、何があったのか聞いたんだ」

「どうして私たちの居場所がわかったの?」と私はマサおじさんに聞いた。ネイビーのスーツを着た彼は、身なりはきちっとしたビジネスマンに見えたけれど、顔色は疲労困憊といった感じだった。昨日から寝ていないのかもしれない。

「警察が君のクレジットカードの使用場所を調べてくれたんだよ。それからキミがプライベートジェットをチャーターして、私がそれに乗って君たちを迎えに来た次第だ」

そういえば、私はフェリーのチケットを買う時にアメックスカードを使ったんだ。まさかそれで簡単に追跡できるなんて思いもしなかった。というか、タカハラファミリーがそこまでして私を探すほど心配してくれたなんて、そっちの方が驚きだ。私はほっとしたような、歯がゆいような、何とも言えない気持ちになった。

「ケンジはどこ?」と私は聞いた。

「君がいなくなったことですっかり酔いが覚めて、今は家で君を待ってるよ」

「本当に? 私はあの家に帰ってもいいの?」

「もちろんだよ。君のホームは東京のあの家だ」


・・・


「あなたは大丈夫?」と私はリュウに聞いた。

私たちはタック・ラグゼのエントランス前の私道に立っていて、リュウはこれからタクシーに乗って自分の家に帰るところだった。

彼がとろけるような笑顔を見せてくれて、私の心がキュンと鳴った。「俺は大丈夫だよ」彼はそう言いながらも、大丈夫ではなさそうな表情をした。「うちの親はカンカンだろうな。また俺を無視して、悲惨な家庭に逆戻りだ」

私は彼にキスをした。タック・ラクゼの関係者が見ているかもしれないけど、構わなかった。彼がここにいて、彼は私の恋人なんだから、この敷地内に彼を温かく迎え入れてしかるべきでしょ。「ありがとう」と私は彼の耳元でささやいた。

リュウが帰った後、私はケンジのペントハウスに戻った。リビングでは家族会議が行われていた。マサおじさん、キミ、ミセス・タカハラが座って私を待っていた。ただ、「無事でよかったわ、エル!」とか、「ここから逃げ出したくなるほどの気持ちにさせちゃって、ごめんね!」とか、そういう声は誰からも飛び出してこなかった。

待って。テーブルの上にはお茶と、それから色とりどりの和菓子がトレイの上に綺麗に並べられている。そこに漂う空気感は、昨日までとは違うものだった。私の主張が通ったんだとわかった。ちゃんと気持ちが伝わったのね。

「ケンジはどこ?」と私は聞いた。

「お医者さんのところよ。今後の治療方針について話し合ってるわ」とキミが、私をしっかり見据えて言った。その声の優しさ、彼女の目に表れた気配りの色から、彼女が初めて私を、赤の他人ではなく、姪として見てくれていると感じた。「彼は、昨夜あなたに言ってしまったことをとても後悔していたわ。あなたをアメリカには帰さないそうよ。ただ、父親になる方法はよくわからないみたいだけど」

「私だって娘になる方法なんてわからないわ」と私は認めた。「でも挑戦したい」

「彼もそう言ってたわね」とミセス・タカハラが言ったから、私はびっくりしてしまった。「あなたが昨夜出て行った後で、今後どうするか家族で話し合ったの。みんなで頑張らないといけないってことで意見が一致したわ」

マサおじさんは、まるでセラピストのように、あるいは経験豊富な外交官としての手腕を発揮して、私たち全員にお茶を入れてくれた。「帰ってきてくれてよかったよ、エル。ここにいる全員が改善すべきことを胸に抱えているんだ。さて、誰から話す?」

誰も何も言わなかった。

それでマサおじさんが、「じゃあ、私から話します」と切り出した。「君が東京にやって来た時から、もっとちょくちょく君の様子を見に、私は顔を出すべきだった。見知らぬ国に引っ越してきて、いろいろ大変だっただろう。これからは君から目を離さないようにするよ。それに、私はこのタカハラ・インダストリーズで働くことにしたんだ。今までキミがやっていた仕事を私が引き継いで、46階のスイートルームに住むことになった。これからは、私のホームは君のホームと同じってことだ」マサおじさんが私のそばにいてくれるんだと思うと、この上なく心強かった。

「私のことをおばあさまって呼んでもいいですよ」とミセス・タカハラが言った。以前、イモジェンが彼女の日本人の祖母について話していたのを思い出した。日本語には、おばあさんとか、おばあちゃんとか、祖母の呼称がいくつかあると言っていた。彼女がそう呼んでいいと言ってくれたのは、始まりに過ぎないとはいえ、かなりの前進に思えた。彼女も歩み寄ろうとしてくれていることに感謝した。

キミが言った。「お母さまと私と一緒に、あなたも週一回抹茶のお茶会に参加してちょうだいね」

私は内心密かに喜んでいたけれど、彼女には女子会くらいで満足してほしくなかったので、それを表には出さなかった。私は言った。「あなたはもっとあなたらしくあってほしい」

「それはどういう意味?」とキミが聞いた。

「もっと外に出て、誇りを持って羽ばたいてほしい」と私は答えた。

キミが驚いた表情をした。マサおじさんも、おばあさまも、何も知らないような顔をして、とぼけている様子だ。キミが日本語で何かを言った。

「その日本語、どういう意味?」私は警戒心を抱きながら聞いた。

キミが言った。「すぐにわかるようになるわ。年明けからあなたに家庭教師の先生をつけることにしたの。あなたは日本語のレッスンを受けるのよ。私たちの仲間になろうというのなら、私たちの言葉を話せないとね」

「私はあなたを誇りに思っていますよ」というおばあさまの声が、何の前触れもなく、私の耳に降り注いだ。「あなたは強い女の子ね。口ごたえが過ぎるところもありますけど、頭はいいですね」

私は言った。「おばあさま、ありがとうございます。私が強くて頭がいいのなら、もしかしてそれは、あなたから引き継いだ資質かもしれません」

彼女はうなずいていた。そんなの当然でしょ、と言いたそうだった。

突然、タック・ラグゼが牢獄の城には思えなくなった。ここは私のホームだと実感した。栄光があって、欠陥もあって、完璧じゃないけれど、だからこそ家族なんだと思えた。

ここに来て初めて、これからが本当のスタートだと感じた。


・・・


マサおじさんが仲介役になってくれて、タカハラファミリーにある種の平穏がもたらされた。私がここに残るために、彼が何を言ってくれたのか、私には知る由もないけれど、きっと彼が粘り強く交渉して、勝ち取ってくれたんだ。彼はケンジのアルコール依存症の治療プログラムも手配してくれた。ケンジは仕事から離れ、昼間はそこに通い治療に専念し、夜は私と一緒に家で過ごした。マサおじさんは、ケンジのお酒の問題は公にして、みんなに知ってもらった方が、一時は「恥」かもしれないけれど、長い目で見たらその方がいいと主張し、ミセス・タカハラとキミも納得した。そして、キミがケンジの後を継ぐことになった。タカハラ・インダストリーズ初の女性社長になったのだ。ケンジは仕事に復帰した時、彼女のサポート役に回ることになるでしょう。この体制なら、政府の会計監査やキノシタさんのスキャンダルを乗り越えられるかもしれない。キミがCEOを務めることで、タカハラ・インダストリーズが倒産しない可能性が高まったことは確かだ。

家族の中での私の仕事は、タック・ラグゼとICS-Tokyoを行き来する生活を再開することだった。私はその申し出を快く引き受けた。

家族会議を終えて寝室に戻った私は、ようやくスマホの電源を入れた。久しぶりに画面を見ると、イモジェンからメッセージが来ていた。

ハイ。アケミのこと聞いたわ。それから、ふふっ! あなた、リュウ・キムラと駆け落ちしたそうね? せっかくあなたと友達になれたのに、こんなスキャンダルを起こして、アメリカに帰っちゃうなんてことにならなければいいんだけど。だって、いろいろと面白くなってきたばかりだし。アラベラがとうとう、ボリビアに帰った本当の理由を私たちに話してくれたの。(彼女の家族にも話したみたい。)何が言いたいかというと、ごめんなさい。私が馬鹿でした。PS―ニックが除け者になったわ。アラベラの家族が弁護士を雇って、彼を告発したそうよ。

私はイモジェン風に目をくるっと回した。今度はニックを除け者だなんて、エックス・ブラッツも浅はかで愚かだけれど、私はイモジェンのことを好きな気持ちを否定できなかった。そして、アラベラが声を上げたことを誇りに思った。

ママに手紙を書こうと、パソコンに向かった時、ドアをノックする音がした。ドアを開けると、廊下にはケンジが立っていて、彼の足元には毛布で覆われた箱が置いてあった。上にリボンがかけられている。

「君にプレゼントだよ」と彼が言った。彼はしらふのように見えたが、少しやつれた表情をしていた。禁断症状の悪魔と闘っているのかもしれない。「悪かったと思ってる。許してほしい。君との生活は実験なんかじゃない。君は俺の娘だ。これから父親になれるように頑張るよ。もっと精進する」

「私ももっと頑張るね」と私は言った。まだ心の傷は癒えていなかったけれど、ほっとした気持ちの方がずっと強かった。私はここに残って、みんなで一緒に家族としての生活を築いていけるように頑張りたい。ケンジには正直に何でも話したいし、彼の悩みや苦しみもちゃんと聞いてあげたい。「箱の中身は何?」

「開けてごらん」

私は毛布を手に取って、めくってみた。下にはケージがあった。

中には猫が入っていた。

ケージを開けると、とっても可愛い黒猫の子猫が、ミャーと鳴き声を上げながら、ゆっくりと出てきた。私はその柔らかくて、ふわふわの毛に覆われた天使を抱き上げ、顎の下ですりすりと寄り添った。

「何て呼べばいい?」とケンジが聞いてきた。

「ハッフルパフの後継者だから、レイブンクローね」と私は答えた。

私はアケミから教えてもらった日本語のことわざを思い出した。猫の魚辞退(うおじたい)。意味:内心は欲しくてたまらないのに、表面的には遠慮することのたとえ。彼女が言うには、欲しくないふりをして遠慮していた人が、最終的に折れて、「そんなに言うならもらっておくわ」と受け取ることを表すらしい。

私は私の人生で今までずっと望んできたものを辞退したくはなかった。望んできた人を拒みたくはなかった。

初めて、私はケンジを、父親を抱きしめた。彼は少し戸惑ったように躊躇してから、私を抱きしめ返してくれた。

私の完璧ではない、アルコール依存症の、とっても魅力的で、心の広いお父さん。






〔訳者あとがき〕


「起承転結」がこれほどはっきりとした小説は、『ティファニーで朝食を』以来だと藍は思った。『私の限りなく完璧に近い夢のような東京暮らし』は、言わば、40階建て(40チャプター)の高層ビルを組み上げたような見事な作品で、どの階(チャプター)にも、文字通り、ストーリーがあり、大まかに区切ると、10階までが「起」、20階までが「承」、30階までが「転」、そして40階までが「結」といった感じで、最後には屋上からの爽快な絶景を見せてくれました。


「起承転結」のお手本として教科書に載せてほしいくらいです。まあ、長さ的に、この小説だけが載った教科書になっちゃうでしょうけど...笑

「起承転結」は人間の遺伝子に組み込まれている、と言った人はいないかもしれませんが、太古の昔から、人間が「起承転結」に慣れ親しんできたことは事実みたいです。ギリシャ神話にも『源氏物語』にも『平家物語』にも、「起承転結」はあるはずです。

一つの方法や枠組みには、流行り廃り(栄枯盛衰)があり、時代(川)の流れとともに、それらも一緒に流れ去ってしまうものなのですが、どういうわけか、「起承転結」は廃れることなく、脈々と、どの時代の「現代人」の眼前にも留まり続けています。


音楽で言うと、(たぶんですが、)ベートーヴェンのソナタ形式みたいなものでしょうか? やっぱり何百年経っても、きっちりとした形式のソナタ(『悲愴』や『熱情』など)を聴くと、「音楽を聴いた!」という気分になるものです。

「起承転結」のストーリーにもそれと似たような効果があって、「よし! 物語を読んだぞ!」と、すっきりするのです!


江戸時代の人は、「起承転結」の結(オチ)を聞くために寄席に足を運んだ、といっても過言ではないでしょう。落語なのに「落ち」がなかったら、お客さんから「金返せ!」と怒鳴られること間違いなしです!笑

オチを聞いて、すっきりと腑に落ちた感を味わって、家路につくわけです。途中たくさん笑わせてもらったあげく、オチで真顔に戻されてしまった、という落語も多かったことでしょうが、それでもオチさえあれば、文句を言う人はいなかったでしょう。「そういうもんだよな」とうなずきながら、(現実の世界へ)帰って行くのです...



『私の限りなく完璧に近い夢のような東京暮らし』で、何より優れていると思った点は、キャラクター造形でした。レイチェル・コーンの他の作品にも言えることですが、エルちゃんが愛しくなるくらい、キャラクターが立っている!(これだけ生き生きとした人物を描ける才能が羨ましい...)


もちろん、ストーリー展開の妙もあって、猫カフェをふり(布石)として使っておいて、最後に猫島、というテクニックにも痺れたし、最後の最後にケンジが猫をプレゼントしてくれた時には、エルちゃんと一緒に泣きました...泣


また、この小説は『Daddy-Long-Legs(あしながおじさん)』的な、手紙を挟んだ日記形式の小説でもありました。一人称で自分の内面を折り込みつつ、ストーリーを展開させる手法は、藍の好きな形式でもあります。そして、これはアメリカ的とも言えるでしょう。

大雑把に分類すると、イギリス文学は三人称の文学で、アメリカ文学は一人称の文学だと言われたりします。つまり、アメリカ文学は、「個」というものを重視して、自分はどう思っているのか、自分はどうしたいのか、を深く掘り下げて追求するわけです。


ところで、アメリカという国は、(どちらかというと、)血筋よりも、国旗(星条旗)が一つにまとめています。(もちろん「表向き」は、ということですが、表向きの理想がすべてなので、これで良いのです。)


一方、日本という国は、(どちらかというと、)国旗(日の丸)よりも、日本人の血が一つにまとめています。

『私の限りなく完璧に近い夢のような東京暮らし』の中で何度も言及があったように、日本は「個」よりも、「家族」や「社会(村)」を重視する文化です。(アメリカとの戦争から75年が経ち、だんだんとアメリカ色が色濃くなってきましたが...)

日本とアメリカの共通点は数え切れないくらいあります。←たとえば何?←たとえば、民主主義とか、KFCとか...←え、二つだけ?笑


相違点もいろいろありますが、一番大きな違いは、天皇の存在でしょう。天皇制は日本にあって、アメリカにはないものです。東京の地図を見るとわかるように、東京は皇居を中心とした一つの家族なのです。第二次世界大戦中、東京を空爆したアメリカ軍も、皇居だけは狙いませんでした。一種の神がかった領域なのです。

日本の天皇は、もちろんアメリカの大統領とは違いますし、ヨーロッパの王様や君主とも違います。わかりやすく言うと、日本の天皇は、邪馬台国の卑弥呼(ひみこ)様なのです。邪馬台国の人々は、卑弥呼様が「近いうちに恵みの雨がもたらされることでしょう!」と言ったら、本当に雨が降って豊作になった!と卑弥呼様を崇めたわけです。つまり、自然と卑弥呼様を同一視して、自然があるから(卑弥呼様がいるから)、自分たちはその中で生かされているんだ、という境地です。

戦時中、日本人一人一人(の心)と天皇陛下との結びつきは、今より強固だったはずです。結果、アメリカが勝ち、アメリカ文化がどっと日本に、文字通り大手を振ってなだれ込んできました。←たとえば何?笑←KFCとか。←またKFCかよ!爆笑

KFC以外にも、「個人主義」なる価値観も入ってきました。それはじわっと75年かけて、日本人の心に浸透しつつあります。自分の中に「真の自分」なるものを抱き、「自分が何をしたいのか」を絶えず問いながら、「自分の人生」を生きようという試み(価値観)です。



チャプター 14

My skin was not dark, but it wasn’t exactly lily white, either. On a skin-shade scale of one to ten where one was the lightest white and ten was the darkest brown, I was probably a three. “My mother’s father was part Native American and African American,” I explained.

私の肌は浅黒くないわ。ユリみたいに真っ白ってわけでもないけど、1から10の色合いで表すと、1が最も明るい白で、10が最も暗い茶色だとすると、私は白に近い方の、3といったところよ。「私のお母さんの父親の家系に、アメリカ先住民と、アフリカ系アメリカ人の先祖がいるから」と私は説明した。


これはエルちゃんがミセス・タカハラに自分の出生を説明している場面ですが、

母親がアメリカ人で父親が日本人のエルちゃんは、「血筋」からして、「個」と「周り」の融合を象徴する存在なのです。


村上春樹的に言うと、「個」を、ディタッチメント(自分の内側へのベクトル)と言います。逆に、外向きのベクトル、「誰かの役に立ちたい」という姿勢をアタッチメントと言います。




『嫌われる勇気』的に言うと、すなわち、「自分以外の人への貢献が、逆に自分を救う」ということです。


オードリー・ヘップバーンがこう言っています。



"As you grow older, you will discover that you have two hands, one for helping yourself, the other for helping others."

- Audrey Hepburn

「年を重ねるにつれて、自分には二つの手があることに気づくでしょう。一つは自分を助けるため、もう一つは他の人を助けるため」

- オードリー・ヘップバーン



チャプター 37

His wealth and charisma only masked his true self: a coward.

彼の富とカリスマ性は、ただ単に彼の本当の姿を隠す仮面だったんだ。真の彼は、ただの臆病者よ。


これはエルちゃんがケンジをあてこする(けなす)シーンで、「mask」という動詞が使われていたので、この文を取り上げたのですが、

ユング心理学的に言うと、これを仮面(ペルソナ)の自分と言います。すなわち、内側の自分と表向きの自分がいて、人は「内」と「表」で対話しながら生きている、というわけです。

そして、先ほど「アメリカの理想」のところにも書いたように、「表の自分がすべて」という風に解釈することもできます。たとえば、相手のことを「こいつむかつくな」と内心思っていても、表向きはにこやかに接していれば、「にこやかに接してくれた」ことだけが事実になるのです。これは大きな生きる指針になりえます。


藍は大学院生の時に、出版本の下訳をした経験があります。下訳はゼロから訳すので、全体の作業の8割以上は藍がやったのですが、訳者として名前が出たのは最後に手直ししただけの教授で、「訳者あとがき」もその教授が書く、という屈辱を受けました。内心では「お前訳してねーだろ!」と思っていましたが、表面的にはペルソナをかぶり、にこやかにしていました。

まあ、今では、『嫌われる勇気』的に、その教授が下訳を任せてくれたおかげで英語力が身についた、と感謝しています。今でもご健在でしたら、その教授は70歳くらいだと思いますが、この『私の限りなく完璧に近い夢のような東京暮らし』の翻訳をそのI先生に捧げます。(表向きは...)


藍は微妙な天才ですが、人生の落伍者でもあります。日本で成功するには、頭が良いことよりも、コミュニケーション力や「人当たりの良さ」が、断然ものを言います。なぜなら、日本は村社会だからです。たとえば大学でも、教授は有能な部下よりも、毎日顔を合わせたい部下を選ぶわけです...


「読むこと」と「訳すこと」は、8割くらいは同じ作業なのですが、そこにはやはり大きな差異があって、自分以外の人にもわかるように表出することが一番大変なのです。同時に、それこそが翻訳の醍醐味でもあります。


ここで、この小説を出版してくださる出版社の方を募集します。もしくは、出版社に知り合いがいらっしゃる方、こちらまでご連絡お待ちしております!

hinataaienglish@gmail.com

表紙にちゃんと「訳 藍」と入れてくれれば、翻訳料は微々たる額で結構です。



思い返してみると、スクールバスから始まったこの物語は、スクールバスでキスして内面に花火が上がったり、色々ありましたね。

エルちゃんはスクールカーストの頂点に位置するエックス・ブラッツの仮面(ペルソナ)も手に入れました。しかし結局、その仮面はエルちゃん自身にはしっくりこなかったようです。仮面と内実(真の自分)とのずれに戸惑い、自我(アイデンティティー)が揺らぎ、そして、エルちゃんは気づきます。自分の内面をありのままにさらけ出し、真の自分が望んでいる方向へ進もう!と。

言わば、ピラミッドを登ること自体をやめてみたら、逆に高々と、ピラミッドをはるかに上回る高さまで、(キスの)花火が打ち上がったわけです!!

「本当の自分が望む方へ」というのはアメリカ的な考え方ですが、最終的に「アメリカ的自己を抱えたエルちゃんが日本的な家族に包まれる」というオチは、ほぼ完璧なハッピーエンドと言えるでしょう!


真のエルちゃんは、きっと医者になるために勉強も、そして水泳も頑張るエルちゃんで、「シャワーってこんなに気持ちいいの!」とか、「タオルってこんなに柔らかいの!!」とか、そういった生活の中の小さなことに喜びを見出せる人なのです。(勝手に決めつけ。)


オードリー・ヘップバーンはこうも言っています。



"I believe, every day, you should have at least one exquisite moment."

- Audrey Hepburn

「私は信じています。毎日、誰にでもきっと、少なくとも一つは極上の瞬間があるはずだと」

- オードリー・ヘップバーン



チャプター 39

the birds chirping, the trees swishing, the cats meowing—the perfect sounds to drown the anxieties in my head about what was happening back at Tak-Luxxe.

鳥のさえずり、木々の揺れる音、猫の鳴き声、―頭の中の不安を紛らわすのに最適な静かな音。タック・ラグゼで今何が起きているのかなんて考えなくて済む。


これは猫島でエルちゃんの心が癒されるシーンですが、


藍的に言うと、翻訳こそ、頭の中の不安を紛らわすのに最適な音です。たとえば、その日嫌なことがあったとしても、翻訳が紛らわしてくれますし、その日何もないことが苦しくても、本の中では絶対に何かが起きます。起きてくれます!!!

藍は毎日2時間くらい訳していますが、毎日続けていると、物語のあっち側の世界に行ってしまうものなのです。そして、そこがいつもなら、ニューヨークだったりするのですが、今回はなぜか、まあまあ馴染みのある東京だったので、不思議な感覚でした。言わば、鏡の向こう側に行ってしまったはずが、なぜかこっち側にいる、みたいな...爆笑


さて、みなさんも、この翻訳療法を試してみてはいかがですか? Amazonを開けば、次々と、何千冊という本が出てきます。逆に何千冊もあったら選ぶ気なくす、という方は、じゃあ、『ティファニーで朝食を』でもいいですよ。藍のブログが嫌なら、本屋さんに行けば村上春樹様が訳した本が売ってますから、訳しながら「この英文難しいな」と思ったら、それをチラ見すれば、確実に訳し進めることができますよ。毎日ではなくても、1回2時間でも1時間でも、30分からでも、翻訳ライフを始めてみてください。翻訳療法より「翻訳ライフ」の方が断然良い命名ですね!笑


そこに英文があるから!←急にどうした!? 誰も何も聞いてねえよ。いよいよ幻聴が極まったか!!爆笑



チャプター 11

He veered his head in the direction of Ryuu Kimura sitting alone in the courtyard, Propped under a tree, eating cafeteria rice balls and reading a Haruki Murakami novel―in French. The Ex-Brats smirked in Ryuu’s direction. He looked up briefly, noticed their glares, and returned to his book. He seemed like he couldn’t care less. I kind of admired him for that.


彼は頭の向きを変えた。視線の先には、リュウ・キムラが一人で中庭の木の下に腰を下ろし、食堂のビュッフェコーナーで売っていたおにぎりを食べながら、村上春樹の小説を読んでいた。―よく見ると、フランス語版みたいだ。〈エックス・ブラッツ〉の面々は、ニヤニヤしながら彼の様子を眺めている。彼はほんの少しの間、顔を上げ、辺りを見渡し、私たちの視線に気づいた。しかし何事もなかったかのように、彼は本に視線を戻してしまう。見られていても全然気にしていないみたいだ。私は、凄い、と思い、彼のその精神力に尊敬すら覚えた。


これはリュウ・キムラ(木村龍)が昼休みに、一人で村上春樹の本を読んでいたシーンですが、

『My Almost Flawless Tokyo Dream Life(私の限りなく完璧に近い夢のような東京暮らし)』は、タイトルにDreamと入っているように、メタフィクション的な感じで、「すべてエルちゃんの夢(願望)でした」というオチかな、と思わせておいて、実は「完璧じゃないからこそ(家族は)素晴らしい!」というお話でした。

ちなみに、村上龍のデビュー作のタイトルは、『限りなく透明に近いブルー(Almost Transparent Blue)』です。





『私の限りなく完璧に近い夢のような東京暮らし)』をAmazonで買いましょう!!

買ったら、(開かなくていいので、)この本を抱き締めながら、藍の日本語訳を読みましょう!!

すると、あら不思議! 魔法のランプからもくもくとジーニーが出てくるように、この本から、エルちゃんがありありと立ち上がってくることでしょう!!笑


藍はエルちゃんから生きる姿勢を教えてもらいました。なんでエルちゃんには三回もファーストキスがあるのか!?笑 エルちゃんは嫌なことをなかったことにできるんでしょうね!(藍にはない特質だから羨ましい...)

そうだ! 藍もファーストキスはまだってことにしておこう!←それ、女子がやるから意味があるんであって、おっさんがファーストキスはまだってキモッ!!爆笑




〈おまけ〉(ペルソナを取ってみたはいいけど、藍の内面をさらけ出しすぎたかも...笑)


『藍の限りなく完璧に近い夢のような家庭教師』 by 藍


僕の名前は藍(あい)。今日からエルちゃんの日本語の家庭教師をやることになった。キミ社長との面接では、「5ヶ国語くらい話せます!」とか適当なことを言って採用してもらったけれど、もちろん嘘だ。

僕の目には一年中、何もかもがキラキラと煌めく性的対象に映る。隣に座るエルちゃんを見つめる。可愛かった。水泳をやっているだけあって、なまめかしさというよりは、健康的な溌剌さが、逆にたまらない。シャツのボタンは上まで留めてあり、胸元は覗けなかった。エルちゃんはパステルピンクのリボンが付いたICSの制服を着ていた。机の横に置かれた学校指定のリュックカバンにもレースのリボンが付いている。

「今日は学校の制服のままなの?」と僕はエルちゃんに聞いてみた。

「スクールバスが渋滞でなかなか進まなくて、さっき帰ってきたばかりなんです」

「そうなんだ。可愛い制服だね」

「そうですか? シャル・カトウっていう世界的なデザイナーがデザインしたんですけど、なんか地味じゃないですか?」

「そんなことないよ。可愛いよ。僕は大好き。ちょっと立って見せてくれる?」

エルちゃんが椅子を引き、立ち上がると、一歩下がって、両腕を腰の辺りまで上げた。白を基調としたエルちゃんの部屋は、まだアメリカから引っ越してきて、三ヶ月ほどということもあり、あまり物は置いてなかった。壁にポスターなどが貼ってあることもなく、ベッドと勉強机とクローゼットが並んでいるくらいだ。

「凄く素敵だよ!」本心だった。プリーツスカートは膝までの長さで両サイドに切れ目が入っていて、深緑と藍色のチェック柄。両サイドの切れ目は、バックルではなく、黒の安全ピンみたいな掛け金で留めてある。オックスフォードスタイルの白いシャツの肩口には、グリーンとゴールドの文字でICS-Tokyoと綴られている。ネイビーブルーのニーハイソックスはスカートの色と合っていて、可愛かった。

「ちょっとくるっと回って見せて」

エルちゃんは少しかかとを上げると、体を軸にくるくると二回転回った。膝丈のスカートがふわっとひるがえり、眩しいくらいに白いももが一瞬露わになった。その柔らかそうなももに、瞬時に僕の目が脳内保存のシャッターを切り、瞳孔がうずくようにキュンと、ときめいた。

少し照れたように勉強机に戻ったエルちゃんの肩に、僕はそっと手のひらをのせた。「凄く可愛いよ」

「それより、この問題教えてください」

細くしなやかな指の先に目をやる。「どれどれ、なるほど。これは実に興味深い問題だね」そう言いながら、エルちゃんの両足が重なる膝の辺りを眺める。僕の視線を感じたのか、膝がピクッと動いたようだ。

僕は右手でシャープペンを持ち、左手でエルちゃんの背中の後ろの椅子に手をかけると、説明を始めた。

「この問題はね」チラッとエルちゃんの顔を見ると、真剣な表情で問題を見つめている。薄桃色の頬にはうっすらとうぶ毛さえ見えるほど間近にエルちゃんの顔があり、口づけたくなってしまった。

「まず、日本語にはひらがなと、カタカナと、漢字の、三種類の文字があるんだよ」

「え~、なんでそんなにいっぱいあるんですか?」

「でも、とりあえず漢字は省いて大丈夫だから、まずはひらがなとカタカナをマスターしよう!」

「わかりました~! っていうか、いつまでお尻に片手あててんのよー!!」とエルちゃんが言って、僕に向かって、左フックを繰り出してきた。綺麗に弧を描き飛んでくるそのパンチが、本気のグーパンチだったら、僕たちの関係は今日で終わりだな、と僕は0.02秒で考えた。笑

平手のビンタだったら、まだワンチャンあるかもしれない。また今度、続きに進むチャンスが、ギリである予感もする...笑

僕はエルちゃんの体の向こう側から繰り出されつつあるパンチが、グーではなく、パーに開くことを期待しながら、こう思った。これが本当の起承転、尻(ケツ)。